悪い夢を見た

悪い夢を見た。

 

母がいた。父もいた。ずいぶん昔の話だ。

あんなに鮮明に覚えていたはずなのに、夢というのは起きると不思議と思い出せないものだ。

 

私はどこかに出かけようとしてて、父と母に慌てて嘘をついた。嘘をついたから事態が余計ややこしくなって、家族の予定を振り回した。そんな感じの夢。

 

多分彼氏のところに行こうとしてたんだと思う。今となっては遺品となってしまった、母のヴィトンのバッグに私は荷物を詰めていた。数時間前に私が家から出て来たときのように。

昨晩はもう外は十分暗かったけど、夢の中ではお昼間だった。玄関で私は何かを支度してる。しゃがんで靴を履きつつ、詰め込んだカバンを見てる。くしゃくしゃのハンカチは友達にもらったものだ(今私の部屋の机の上にあるやつ)。今も昔も変わらない、私のカバンの中。

慌てて出ようとする私をの後ろに立って何かを言う母。18年間、私のそばにいたひと。私を心配して私に何かを言ったのだと思う。でかけるの?とか、ごはんあるのにいいの?とか、みんなで出かけるから駅まで送ろうか?とかそんな優しい言葉。私はそれに対して、その優しい気持ちを裏切って、嘘をついて彼氏の家に行くことに耐えられなくて。「うるさい!関係ないじゃん。」と怒鳴った。私は母によく当たっていた。人あたりをよくしようと外で振る舞う分、中では母親にキレていた。まるでDVだった。その大半は母に嘘をつくときの防衛反応だったように思う。

 

そうして怒鳴って、母親に悪いことをしたと思うのに、夢の中の私の心の中に渦巻くのは、怒鳴ったことへの罪悪感ではなくて、内緒で彼氏の家に行く罪悪感。母の隣には父もいた。

嘘をついて家を出ることの圧迫感。息苦しい気持ち。首が絞まって、目が見開かれて、いっぱいいっぱいになる。ああ、ずっとこんな気持ちで生きてきた。

 

初めてゲームセンターでプリクラを撮りにいったときも、初めて化粧を覚えたときも。結局後から母に懺悔をして、いっぱいいっぱいの罪悪感を流してきた。

 

毎日が逃亡犯のようで、毎日が罪深くて。その苦しさの感覚を、体は覚えていた。久々に味わったその感覚は私に「こどものころ」を思い出させた。

 

大した夢じゃない。亡くなった母にも会えた。母がいた頃のリアルな感覚がそこにはあった。父もいた。家族だった。

なのにとても息苦しくて私が18年当たり前のように感じてきた息苦しさででも久々に味わうと結構キて。うなされていた。

 

 

 

 

目覚めると彼氏がいた。

夢で良かったと思った。身体に残るあの息苦しい感覚はまだ少し残ってる。それが気持ち悪かった。

 

「うなされてたけど」

と彼氏が言った。

 

少し迷ったけど、私は

「悪い夢を見た」と言った。

 

「そうか」と彼氏は言った。

 

それから

「ママとパパが出てきた」と言った。

 

「そうか」と彼氏はまた言った。

 

それで話は終わった。

私もそれ以上は何も言わなかった。

 

 

大人になるって憧れだった

 

振り返って思えば、幼い頃の私は、早く大人になりたいと思っていた。

 

好きなことができて、好きな物が買えて、好きな人と一緒にいられる大人に憧れていた。

 

4歳の時から、幼馴染のひろきくんと結婚したかったマセガキの私は、結婚できる年齢は知らなかったけど、なんとなく、アリエルやシンデレラとは体つきが違うのはわかって、まだお姉さんじゃねーな。大人までなげーな。と思ってた。

 

夢見がちなのに、そのくせ現実主義なところがあって、自我が目覚めるのが早かった私は、幼稚園で「将来の夢」として友だちが「ケーキ屋さん」とか「花屋さん」になりたいというのをめちゃくちゃバカにしててなんだそれ?可愛いと思ってんの?ケーキ本当に作りたいならいいよ?ケーキ好きだからケーキ屋さん?頭悪いな。幼児じゃん、とか本気で思っていた。(幼児なんだけど。)

当の本人は何になりたかったのかというと、芸能人とかアイドルだったのだけれど、いかんせん他人をそういう目で見てるから自分に対しても(幼児のくせに)そんな幼児っぽい夢ダサいよ。とツッコミをいれてひた隠しにしていた。

 

子供ながらに「幼児っぽい夢」という概念があることを何となく感じていて、ここでいう夢は、幼児として微笑ましいものとして扱われるもので、誰も本気にしていないというのを知っていた。(だって幼稚園のお母さんたちにケーキ屋さんもお花屋さんもいないし)

そこでポルノ的に消費される「子どもらしさ」に付き合わなければいけないと思っていた。

何かやりたいことがあるとするならば、それは人の注目を集めることだったのだけど、自己承認欲求が強いことは恥だ、みたいな気持ちが幼稚園生の頃からあって、幼稚園の先生と仲が良くて「幼稚園の先生になりたい!」なんて言える子のことを、私とは違うな、と思ってみていた。ちなみにそういう子は、おジャ魔女ごっこより、ハム太郎ごっこを好むタイプだし、りぼんちゃんなんかは決してやらず(私はたまにハム太郎ごっこに入るときは可能な限りりぼんちゃんになりたい)、マフラーちゃん役として、ちびまるちゃん役をやる2~3月生まれ当たりの幼い友人のお守りをする。(このちびまるちゃんをやる女のことも心底気に食わなくて、なんだこいつキューキュー言って、知性がないことで同級生に甘えて悔しくないのか!などと憤慨していた。)(本当にひどい幼稚園児だ。)

 

男の子の言うサッカー選手や野球選手は割と長い間(小学校卒業くらいまで)使える夢だし、規格外のデカさだけど、宇宙飛行士になるのは、なんか大人からの評判もいいし、芸能人になりたいとかよりもよっぽど賞賛される。ジャーナリストになりたいみたいなのもいい。頭が良さそうだ。

私はこの、幼稚園から小学校、中学でポルノのように宣言させられる「夢」が苦痛だった。ひっそりと叶える夢もあってしかるべきなのに、無理やり公の場に出されて拍手される。気持ちが悪かった。どうでも良すぎて、園児の頃、思ってもいない「お花屋さん」になりたいとか言ったこともある。

そのくせ七夕行事で「ひろきくんと結婚できますように」と書いて、裏面にはヒゲが生えて、大人になったひろきくんと私の夫婦像が描かれた短冊を制作するという、スピリチュアルOLもびっくりのパワー溢れる願望宣言をしていたりもした。

 

そんな私は結局、卒園の記念CD録音で将来の夢を「デザイナー」と言った。本当はモデルになりたかったし、欲を言えば自分で作った服を自分で着たかったのだ。でもなんか目立ちたいみたいなことを言うのが良くないことのように思え、モデルって感じではないぞ?と幼いながらに自覚していたので、自我を超絶発揮しながらも慎ましやかに思われ、頭が良さそうだと思われるこの夢をお気に入りにしていた。(まぁ、当時狂気的にゴミ袋での服作りに励んでいたわたしに母が提案したのがきっかけなんだけど)

 

あなた達とは違います。と宣言するためにも「デザイナー」という夢をよく利用していた私にはもうひとつなりたいものがあった。

それはエッセイストであった。あまり人に言ったことがない夢だった。自分の文章が下手だと思っていたし、読まれるのが嫌いだったからだ。

 

6歳の私は「窓際のトットちゃん」を読んで、わたしもいつか自叙伝を書く機会があるかもしれないから、たくさん今の出来事を覚えておかなくてはと思った。今こうして過去の記憶がするする出てくるのは6歳のマセガキのおかげかもしれない。

ちなみにマセていたので、ベランダの淵に座り、日差しを浴びながら、コップに水を注ぎ、それを飲みつつ読書をするのが好きだった。気分はカフェである。

このベランダの淵は私がまだ3・4歳くらいの時におもちゃのピアノを持ち込んで演奏していた場でもあり(近所の皆さんに、私が当時作詞作曲をした「バーミヤンの歌」を発信していた。スカウトされるかもとドキドキしていた。)幼い私はここを、我が家の中で最もお洒落な場所だと認識していた。

 

話がそれたが、それからいつか何かで活躍して、エッセイをかけたらいいなと、漠然と思っていた。結局時代は進み、作家にならなくてもこうしてブログでエッセイを発信できる世の中になったし、大学のイベントでデザイナーとし服を作ったりもしたから、何となく幼少期から宣言していた夢をぬるっと叶えつつある。

 

でもその一方で大人になる期限の方がどんどん迫ってきて、まだなりたいものになれてない私を、世の中は無理やり大人にしようとする、ような気がしていた。(被害妄想なのだけど)

本当は何がしたかったんだっけ。大人になったらなりたいものってなんだっけ。分かっているのに、それを許せない。

幼い頃から人の夢をバカにし続けて、本心をひた隠しにして、正解を探そうとした私にきたしっぺ返しだ。

結局のところ、わたしは表現者になりたいのだと思う。演劇をやって、服を作って、エッセイを書いて。今までしてきたことを振り返ると、人に対して発信したいという気持ちが、一貫してある。「目立ちたがり屋」であることを指摘されるのが怖かった。だけど、どう考えてもそうだし、そういう性分に生まれたのだからしょうがないと割り切ることにした。私に出来ること、私がしたいことが人を楽しませることなのだとしたら、それは恥ずべきことではないし、胸を張って、なりたいものになる権利があるのだろう。

 

就活もしてないし、21の自分に納得出来なくて、会社なんか全然入りたくなくて、やりたいこともなりたいものも本当はあって、でもそれを認めるのに手間取ってしまった。まだ完全には認めてあげられてないけど。

 

大人ってもっと自由だと思っていた。したいことをして、欲しいものを手に入れて、好きな人と一緒にいられる。そう思っていた。

 

でもしたくないことをするのが大人だとか、欲しいものを我慢するのが大人だとか、色んなしがらみでがんじがらめになった私たちはどうすればいいかわからない。好きな人と一緒にいるのだって、思ったほど自由じゃない。

 

だけど息苦しさに悶えながら生きていく1度きりの人生を、私は許したくないと思った。

その息苦しさや、縛りから、私たちは自由になる権利があるのを忘れてはいけない。

私もまだあやふやだけど、そういう新しい生き方のドアを叩いてみようと思う。

 

 

 

最後に、この小説がとってもよかったから読んでほしい。きっとなにかの支えになると思う。

 

飲み会の夜、先輩は「俺が逃してやる」と言った|選んだ孤独はよい孤独|山内マリコ|cakes(ケイクス)

美人なので、『◯◯はいいよなぁ』、という卑屈ハラスメントをやめたい。

某メディアの某ライターさんの3年も前の記事がプチ炎上した。

ボヤのようなものだが、その記事は消えてしまった。

おもしろいね、すごいね、もっと記事が見たいです。なんて言われてた人も、「間違い」として処理されれば、平気で燃える。

この世界でやっていこうと心に決めたはいいものの、ちょっと名が売れても待ち受ける手のひら返しの批判や炎上を思うとまだたいして書いてないうちから怖いなぁと思ってしまう。細々とやっているこのブログも、今は身内やその近辺のフォロワーが寛容に見守ってくれているが、読者が増えたりして、ふらっと別のところから違う感性を持った人がやってきて、問題があるぞと彼らの村に持ち帰れば、燃料となるえるかもしれない。

 

長い前置きとなってしまったが、本題は別である。

美人を呼び出して、「美人ってどんな気分か?」を男性ライターが面白おかしくインタビューする、というものだ。

「美人だから落ち込むこととかないでしょ?」「みんなに可愛いって言われていいでしょう」「すごろくでいったら上がりだけどどう思う?」(内容はアウトだろうけどこれが面白くて好き)というような内容を「美人」に問いかけていた。(このブログと私のHNが美人なのでまどろっこしくて申し訳ない。)

 

炎上理由は、「美人をモノ・トロフィー扱いしている」、「美人と言われてきた彼女たちが何を言っても『そうはいってもあなたは美人だから』『美人なのに!?』と返して、浮き沈みや負の感情があることも聞く気がないのが不愉快。」、「娘さんが容姿で男性を癒すために最適化された動物として賞賛されたら嬉しいのか。」

というものだ。セクハラだという意見も多く見られた。これに対して、過敏だとか、声をあげられるいい世の中になった、だとかコメントも付いていたが、私があの記事を見て思ったことは、

 

「あ〜〜私もこれやるわ。。。」だった。

 

自分の性的魅力が皆無だと思っているがゆえ、自分の上のランクにいる人はいい思いをしているんだから好きなだけ言っていい、と思ってしまう。

何気なく「◯◯はイケメンだからね〜」みたいなことを言ってしまうし、イケメンと言っている以上、相手も嫌な思いもしてないだろう、と思っている。しかもイケメンいじりも面白いと思っている。

炎上して記事だって、女性ライターがイケメン相手に「ほんとイケメン!女の子からたくさん連絡来るでしょ?」「ぶっちゃけ経験人数とかエグいっしょ。抱きまくりでは?」「眼福すぎるそのフェイスに救われるOLが何人いると思う!?存在だけで世界救ってんだよ!?わかってる!?」みたいな内容だったらまたちょっと違ったのかもしれない。

まぁ、性についての云々は置いておいて、私が思ったことは、「◯◯はいいよね。」という言葉の無意味さである。誰も幸せにならない言葉だ。「お前はいいよね」みたいなニュアンスではなくても「◯◯になりたい」という言葉を私はよく口にしてしまう。

 

芸能人とかキャラクターとかはさておき、◯◯に入るのは、友人や知人である。「◯◯という生き方。。。」「私もなぁそんな風になぁ。。。器用になぁ。。。」ってやつだ。時にはそれで本気で泣いたりする。厄介な奴だ。

例えば、酔っ払うと男の人に甘えられる女の子、とか、男の人におごられまくっても罪悪感を感じない女の子、とか、サークルで青春してる女の子、とかそういうのだ。

考えすぎるがゆえに私は何もできないがお前らみたいになー。そうして得をしてなー。みたいなやつだ。なんで私はお前のようにできずモテずダサく…寂しい思いをしなくてはならんのじゃみたいな一方的な不条理さと「かわいそうな私」に酔いしれているだけなのだ。

 

自分が正しいと思った生き方をするべきだし、人様の生き方にはそれぞれメリットもあればデメリットもあろう。それをはたからメリットの分だけ見てお前は楽そうで私はかわいそうみたいな、そりゃそう見えるよな。羨ましく見える彼ら彼女らが持ってないもの、また別の人から見れば羨ましいと思われるものを少なからず私はもっている。きっと。ないものねだり、が人間の性かもしれないが、だけど、自分の持っているものや自分の決めた生き方に責任を持って堂々と生きようと思う。きっとそれがイケてるってことなんだろう。

 

生き方の話に逸れてしまったが、容姿や学歴だって同じだ。就活をしていると「君こんないい大学なのになんでうちなんか受けたの?」と言われるようなことがよくあるらしい。学歴社会、と言われることもあるこの世の中において、べつにピラミッドの上の三角にいる人には「頭いいんだからサァ〜」と何を言ってもいいと思われるのかもしれない。上記の美人と同じ状況である。言う側の状況になるとなんの悪気もなくても、言われる側になるとムカっとする。自分が低い立場だからといって、卑屈ハラスメントをしてはいけないのだ。ま、理屈ではわかってもついやってしまうし、現にこのブログ自体が私が美人に近づこうとして立ち上げた『卑屈の昇華工場』のようなものの時点でお察しなんだけど。だれも幸せにならない卑屈ハラスメントをやめられたら私もまた美人に一歩近づけるのかもしれない。

いや、絶対そうだ。

美人は卑屈ではない。

謙虚なのだ。

母とチロリン村

 

 

チロリン村」という妙な単語をたまに思い出す。

母が短大生の時、ナンパされた大学生たちと行ったキャンプ場の名前だ。

 

小さい頃何気なく耳にした思い出話が、21になる今あの頃の母と同い年になって、遠い世界のことのように感じる。

 

海で出会った彼らは大してかっこよくなく、彼らの慣れない運転で「チロリン村」へ行ったそうだ。メンバーの中で、一番かっこいい人が母のことを気に入っていたが、彼の友人のブ男が母のことを好きだったので、友人思いのイケメンが「俺、応援するよ」とブ男の肩を持ち、母は残念だった。というしょうもないエピソードを聞いた。

チロリン村がどんなキャンプ場かは知らないし、どこにあるかもわからない。

 

ただ、母の死後、アルバムを眺めると、「チロリン村」という看板の前に立つ男女の写真がしっかりと納められていた。

 

その時私は母の勘違いや幼い私の聞き間違いではなく「チロリン村」は本当にあったのだ。と思う。

チロリン村」とは私にとって「ラピュタ」並みの秘境であった。

 

海でナンパしてきたダサい男の子たちとキャンプをしたいとは思わないけど、ただ、母と違う青春を送っていることが、わびしくなる。

 

割と母はバリバリ若さを満喫してて、私はハタチを超えても子供のようだった。

 

小さい頃聞いていた母の昔話は、いつか叶うと思っていた。ココナッツクラブというパーティーの運営チームを仲のいい女の子たちで結成したり、海の家でアルバイトしたり、お祭りで地元のお城のお姫様になったり、かわいいと学校で噂になったり、ミスコンに出たり、車のショーレディになること。

 

華やかだな、と思う。羨ましい。

私にはその一握りもない。

当たり前のように聞かされていた昔話と私が違う道を歩いてるなと気がついたのは割と後の方であった。

 

私は芋で、高校生になり化粧を始めた時はなぜか罪悪感でいっぱいになり、水着で男の子の前に出てはいけないと思っていて、一軍ではなくて、道化を演じてて、キャラも違った。「ふたえ」と「ひとえ」の、言葉の意味がわからなかったが、母にはあるまぶたの線が私にはないことを知った。

 

小学生の時から「あやちゃんのお母さんはかわいいね」と言われていたが、私は美醜の判断もよくついていなかったのでその意味が本当にわからなかった。次第に母の見た目やキャリアが人とは違うことに気がつくことになるのだが。

 

高校生の時、母を見て「あやちゃんと似てないからびっくりした」と無遠慮なことを言った友人の母がいた。きっと家では「あやちゃん、あんな感じなのにお母さんかわいいね」と、言っているのだろう。平気で他の子の見た目や母親の見た目について品評しているのを私も聞いたことがあるから、私もそう言われてるのだろうと思う。

 

母が死んだ時、母へのコンプレックスと密かな尊敬と憧れが爆発して「ママみたいにきれいになりたかった」と泣きながら言うと、祖母に「なるよ、あやちゃんもママみたいにかわいくなるよ」、と言われて「あ、やっぱ祖母も私のこと母と違って微妙だと思ってたんだ。」と納得しながら絶望したのを覚えている。

 

 

見た目云々の話は、努力問題もあると思うし(母がしていたような摂生を私はしているとはいえない)、持って生まれたものだというのもよくわかる。(父がブ男なのだ)

 

SNSのない時代男女の出会いはナンパも普通であったと思うし、母の華々しい青春にはバブルの風が大きく影響しているとも思う。

 

 

ただ、私もちょっと「チロリン村」くらいには縁のある大学生でいたかったなと思う。

あのダサくて、母の青春のページにもうっすら一度だけ登場しただけの「チロリン村」。

その響きを忘れられず、今もまだ繰り返し続けている。

 

 

レコード

 

 

 暮らしは電子化していく。写真は画面で見るようになったし、音楽は小さな機器に詰め込むものになった。友情だって、全てネット上で見て取れる。そこに「存在した」はずのものが「データ」になってゆく。「ある」のは変わらないのに、「形」だけがなくなっていく。一見シンプルや、スリムになってるように思えて、実はその逆なのではないかと思う。一人が扱うデータ量も多くなり、しかもそのデータは媒体上にあり、それらひとつひとつが込められた「モノ」はない。雑念のように空間に浮遊するデータらを完全に掴み取ることなど到底できない。その煩雑さに私たちはどこか疲弊しているように思う。だから、データと「モノ」が一体化してあることは魂が体に入っているように、自然なことでしっくりくる。

 

その中でもレコードは特別である。

CDをほとんど買わない私は、レコードの魅力に惹きつけられつつある。データが記録された「媒体」と、物理的に音が刻まれている「モノ」というのは大きく異なる。目に見えない「曲」自体が手に取れる「モノ」になるというのは一周回ってすごいことのような気がする。だからきっと、今でもレコードはしぶとく息をしているし、これからも消えることはないと思う。だからと言って私はプレイヤーすら持っていないにわかなのだが、レコードが好きな人はそういうところが愛しくてたまらないんだろうな、と思う。

 

 

書きたいから書く 酒のせいにしないと書けないくせにね

なんでも酒のせいに出来る

体に火照るものと、霧のかかった意思を持ちながら、この記事を書いている。

 

お酒というのはよい。瞑想や禅を組むことなしに思考を止め頭をスッキリと(その内実は脳を麻痺させたモヤモヤに過ぎないのだが)することが出来る。

 

脳が多動であれやこれやと思考の止まらない私にとって酒に酔いながらブログを更新するのは思えば癖になっている。

逆に酒の力を借りないと文章のひとつもかけないのはどうかと思う。

 

思っていることを隠して過ごしてきた。

年齢差や仕事の都合を多少は気にしたりした恋人のことが本当に大好きだし、

素直に人に甘えられない私は酒の力を借りて、「酒のせい」にして本心を語る。

辛い。かわいくそのままで他の人の胸に飛び込みたいと何度思っただろう。冷静さが常に隣合わせですべてを人に預けられない。

同性同士でもハグが気持ち悪い。

触れないでほしい。

私の中に誰も入ってこないでほしい。

愛想よくうまくやるから、入らないで。そんな気持ちが渦巻く。

本当はアクセスとかウケとか狙わず文章書きたいのに。浅はかで下世話なことばかり考える私。許して欲しい。もっと自由になりたい。

酒のせいにできる。ということを理性でわかって、その理性の私が泣いている。酒のせいに出来ることを確かに分かっている。記憶はある。酒のせいにして抱きつきたい人がいる、好きな人がいる、好きなものがある。したいことがある。この世に生を受けたのに、アルコール摂取しなきゃ、口にも出せない自分が消えて欲しい。

 

 

続・「ねるねるねるねがねだれないからいつセックスしていいかわからない」

toyopuri.hatenadiary.jp

 これは私が昨年書いたブログの記事だ。ねるねるねるねが食べられないというのは私の中のカルマであった。着色料が入ってそうで、体に悪そう。粉に水を入れて混ぜて食べれば、周りが汚れるし、第一食べ物で遊ぶお菓子を買うと親はいい顔をしない、と思っていた。ただ、もちろん子供ながらに好奇心はあるわけで、①の粉と②の粉を混ぜてみたい、ふわふわとふくらんだ「ねるねる」をスプーンにすくって③番の砕いたキャンディーに思いっきりまぶして食べてみたい、と思っていた。ねるねるねるねを作った記憶があるので、おそらく一度か二度くらいはドキドキしながら買ってもらったことがあったのだ思う。でも、作っているときはなぜだか罪悪感でいっぱいでほとんど楽しくなかった。今この瞬間にも、リビングの隅にある子供用の机でねるねるねるねをかき混ぜていたときの気持ちを思い出すだけで、胸がきゅっとなる。あのプラスチックのプレートの隅についている小さな三角の器に「水を入れたい」というというのがなかなか言い出せなかったのだ。

 明確に「食べてはダメ」「見てはダメ」という母親ではなかったし(ただ、極端な心配性ではあった。)、私はとても甘やかされて育ったと思うけれど、おそらくその分無意識にいい子でいなくては、というとてつもないプレッシャーの中で生きてきた。(私が「めちゃイケ」を見たことを号泣して懺悔したのはまた別の話である。)そのことに気がついたわたしはこの「ねるねるねるね」のブログの記事を皮切りに「こじらせブログ」を書き始めた。両親との関係は良好であったがその分思い悩むことも多かったこと、自己演技的に生きることが癖になり周りの人間と心を通じあわせたことがなかったこと、自分にはおそらくADHD系の発達障害の気があるのだが、そんな自分がゲテモノのように思えて恋愛も出来なければ女として失格な気がすることなど、自分の背負ってきたものをひとつひとつ荷下ろししていくように文章にしていった。その作業は非常に心地よく、それを読んだ友人たちが「面白い」と言ってくれることで周りの人間はちゃんと自分のことを理解してくれるんだ、と思えるようにもなった。

 

 しかし、私は数ヶ月後にはブログを更新しなくなった。飽きたから、という理由は否定しないが、最も大きな理由は、このまま同じようなブログを書き続けても私は変わらない、ということに気がついたからだ。本当に幸せになりたいなら自分がやってこれなかったことをぐだぐだいって共感を得るより、その全てを捨てて自分を変えれてしまえばいいのだ。もちろん「こじらせ芸」で共感を得るのは心地よかったし、そのネタで永遠に書きけられる気すらした。でも、結局どの切り口からブログを書き始めても最後には「可愛く振舞えない」「真面目で損した」「がさつで辛い」といった同じ結末にたどり着くのだ。同じ話を例え話やエピソードを変えながら書き続けるのは馬鹿らしい。正直「こじらせ芸」はそれなりに面白いし、一定のこじらせてる人々はきっと同じことの焼き直しでも、それが生産される限りその界隈で消費してくれる。わたしもそんな「こじらせ」が大好きで「こじらせ界隈」で頂点になることを目指していたこともあった。でもその外に出なくてはならないのだ。この「こじらせ村」を最初に出て、わたしが最初に幸せになって、世界はこんなにも生きやすいところだと、みんなに教えなくてはいけないのだ。

 

そうして、こじらせ村の脱出を決めた私に、恋人ができた。そこに一切の妥協はないと言い切ることができるし、私は今までの人生で最もタイプだと思う男性と付き合っている。

初めて会った時からなんとなく好きなタイプだな、と思っていた。15歳上の人だったが、だいぶ若く見えたので、年齢を知ったときは驚いた。
小柄でやんちゃそうな雰囲気が好みで、小学校の頃好きだった男の子に似ていた。

といってももちろん、一回り以上年上の彼と付き合えるなんて思ってなかったし、だからこそ「うわ〜! 同級生にいたら、好きになってるタイプです(ヘラヘラ)」みたいなことも気にせず言えていた。年下の女の子から言われて、悪い気はしないだろうと思ったし、高校生の女の子が好きな先生を推すような感覚であった。

(これは、私が自意識をこじらせ過ぎて中高6年間ファンだった人気の古典の先生を周りの友達のように推すことすらできなかった過去への反省からの言動なのだが、それはまた今度話すとしよう。)


そんな私に転機が訪れる。彼が恋人と別れたのだ。(もちろんこの件に私は一切無関係だ。)

彼は恋人をとても大事にしており、そこも含めてとても好きだった。だからそれを知った時は、純粋に胸が痛かった。

 

しかし、だ。

その時やっぱり彼が好きだと確信したのだ。

ダメな理由なんてどこにもないことにも気がついたのだ。

 

「世の中にはこんなにも私好みでよく出来た男が存在すると思うと人生捨てたもんじゃないな、私もそんな彼氏を探そう」くらいのことを思ってた人の、隣のに座れるチャンスが自分の前に回ってくるなんて思ってもみなかった。

 

不思議なことに今まで15も年上で、交際相手がいる、「から」ないと思っていた相手がいきなりフリーになると、もう年齢のハードルなど、たいしたものではないような気がしていた。

 

私は幸せになりたいのだ。

自分の気持ちに素直になり、欲しいものを手に入れられる人になりたい。

心の奥底でずっと思っていた。

年齢が上だからとか、今まで歩んできた人生が違うからとか、自分に勝手に課していたダメルールから自由になって、

今の私に与えられたこの機会に全力で取り組みたいと強く思った。

 

それから私は「自分が今までしてこなかったことをする」というのをテーマに掲げ、慣れないことをたくさんやってみた。

酔っ払った勢いで甘えてみる、とか、ラインの会話や態度で好きなのを全面に出す、とか今までの自分では考えられないような、恋愛パターン改革を行った。(今までは好きな気持ちを押し隠し突然告白。相手を困惑させる、という手法の常習犯であった。)この改革はもちろん私自身の新戦術でもあったが、実際問題、良識のある人間であれば15も下の女の子に手を出すのはリスクがあるし、一回り以上年下の女の子からのアタックを、最初からは本気にはしないだろう。

だからこそ、「弄んでいるわけではなく私は本気であなたのことが好きです!」というのを通常の5倍くらいはわかりやすく出さなくてはならないと思ったのだ。

そんな私の物分かりの良さも彼の食指をひいたのであろうし、私もまたこちらからアタックしない限り絶対に手を出そうとしない姿勢に信頼を寄せた。

毎日のようにラインが続き、一緒に食事に行くことが決まった。

それから付き合ってもう半年を過ぎた。

 

明るく意思の強い女性が好きな人もいることを知ったし、

 

アボカドをショートケーキの上に乗せる人もいたし、私をアボカドだとみなさない人がいる人も知った。(アボカドだってショートケーキに乗りたかった - 美人ブログ)

全ては3割の真実と7割の思い込みであったのだ。

  

彼氏はどんな人?と聞かれれば、身長が低いとか三枚目だとか、いくらでも説明しようがあるだろうが、

 

自分の決めたことをやり抜き、

自分の言葉で語り、

自分の感覚を信じることができる、

 

そんな人だと、ここでは答えておこう。

 

1年前の私はまさか自分に彼氏ができると思っていなかったし、それが15歳も上の人になるなんて考えもしなかった。もちろんもとから気にしぃの私が、気にしないわけがない。しかし、そんなことでチャンスを逃したくなかったのだ。結局自分の感覚を信じることしかできないし、私は今、人生で一番好みの男性と交際ができて本当に幸せなのだからきっと正解なのだろう。

 

ちなみにこの恋愛改革により、さらなる改革も起こっていた。私は2年前には母が亡くなっており、だからこそ、15も上の男性と付き合っていることに罪悪感を持たずに済んでいるという部分も大きいと思う。幸い父親は寛容なので、彼氏ができたことは話していないが、帰りが遅くても文句一つ言わないし恵まれた環境であると言える。そうは言っても、実際問題娘が15上の男と付き合ってる、さらにはもし結婚なんてすると言い出したら嫌な顔をするのではないか、と心配していた。一応私の家は「自由」であることが提唱されているが、私は無意識に「自由」の中で父親と母親の理想を選んできたので真に自由であったことはなかった。例えば私は幼い頃から変わった子供であったので「将来は日芸に行って顔を白塗りとかにして変わった演劇でもやるんじゃないの?笑」などと母に言われていたが、実際そんなことしたら嫌がるだろ、と思っていた。小学生の頃から演劇部に入っていたが、例えば私が舞台女優になるなどと言ったら心配する母親であったと思う。だからこそ舞台女優になるような人生はダメだ、夢を追いかけたりしてはいけない、という思いがずっとあった。そんな私が15歳上の彼氏と付き合いはじめたある日、父親におそるおそる尋ねた

「うちってどこまで自由なの?」

「どこまでって?」

「んー、例えば私が舞台女優になるって言ったらどうする?」

「応援する。心から。」

「えっ、そうなの。占い師になるって言ったら?」

「当たるならいいんじゃない?」

「舞台女優になってよかったの。電通とかリクルートに入らなくてもよかったの。」

「ぜんっぜんいい、ぜんぜんいいよ。そんなのよりむしろ応援する。全力で。」

私は号泣した。決して本気で舞台女優になりたいわけではなかったけど、そういう風に生きていいと言ってもらえたことで、肩の荷が完全に降りたのだ。

「知らなかった。知らなかったんですー。舞台女優になっていいって、知らなかった……ずっとダメだと思ってた。そういう生き方。」

「お前の人生だ。好きに生きろ。」

「例えば私がすごい年上の人と結婚したいって連れてきたらどうする?」

「すごい年上って?」

「15歳とか」

「15…30の時45 40の時55 全然アリでしょ」

「どこまでオッケー?」

「んー、流石に俺と同い年とかそれより上連れてきたら引くけど…20くらいまでじゃない?」

「へー、バツイチは?」

「全然アリでしょ」

「子連れだったら?」

「お前が他人の子を可愛がれると思えないけどそれでもいいならいいんじゃない。」

「私のことよく分かってるね。外人だったら?」

「のぞむところ、ケニア人でもいいよ。未開の地とか世界の果てに住んでても、一年に一回Eメールが届いて写真と楽しくやってる様子が来れば十分だ。」

「あのさ、ママに高校生の時にウエディングプランナーになりたいって言ったことがあったの。それかゼクシィの編集者。私は当時から早稲田に行くつもりだったんだけど、娘の夢を応援しようと焦ったみたいで、突然ウェディングプランナーの専門学校の資料を取り寄せて私に差し出してきたの。その様子が挙動不審で、お嫁さんの要望に答えるの大変だと思うな、とか言ってたの覚えてる。私に大学に行って欲しいのが見え見えだったし、現に私は小さい頃から難関大学に進学しないと思った日はなかったよ。私はうちが自由だっていうのは子供に対して自由な選択肢を与える親でありたいだけだと思っていた。だからずっと期待する生き方をしてきた。」

「そうか、そうだな。パパはもっとうちは自由だと思ってた。気がついてあげられなくてごめんな。少なくとも俺は本気でお前に自由に生きて欲しいと思ってる。それが伝わってなかったのなら俺の反省点だ。ごめんな。」

 

私は泣いた。ひたすら泣いた。開放であった。涙が止まらなかった。

 

「気の済むまで泣けばいいよ。涙が出るということはまだそのカルマを出し切ってないということだから、涙が出なくなるまで泣いた方がいい。」

 

と父は言った。

 

 

 

慣れないことをするというのは人生に変化をもたらすための手段として本当に効果のあることである。

私は今、大好きな恋人と付き合い、父親と腹の底から語らい、心から幸せである。

 

 

 

ちなみに、私が初めて彼の家に行った日、彼が、

 

「俺も好きなように生きるから、お前も好きなように生きろ。お前の人生だ。」

と言ったのはまた別の話。

 

 

 

娘は父に似た男を好きになるという。