美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

私は美人だ

ちいさいころから、美人になりたかった。

背筋がピンと伸びてて、知的でユーモアがあって、うつくしい人。

だけどわたしの部屋は汚かったし、食べ方だって汚かった。

家族で美女と野獣を観たときに両親に、食べ方が野獣みたいだよ、と注意されたのがショックで、ずっと美女と野獣が嫌いだった。

小学校の道徳の授業で整理整頓を扱った回で「おどうぐばこがきたない人」として晒し上げられたのもすごく嫌だった。そのときはわたしは割と意識してきれいにしていたのに、だれかが「とよのさんのがきたないです!」と言ったのだ。悲しくて悔しくて消えてしまいたかった。

 

部屋だっていつもきたない。絵を描いたら書きっぱなし、片付けることができない。

わたしには6歳離れた弟がいるのだが、弟が生まれながらにして使ったクレヨンは1色ずつ元の場所に戻せることには衝撃を受けた。(なぜならわたしが絵を描いたあとは全色のクレヨンが散らばっているからだ。)

 

わたしはいつも頭の中がぐるぐるしている。それはそれはめまぐるしくて、一つのことをしている最中に別のことを思いつくと今やっていたことを忘れてしまうし、逆に一つのことに集中しすぎると周りの変化に気がつけない。いつも気持ちばかりが先行して体とずれてしまう。

幼い頃からそうであった。人一倍やる気はあるのに体がついていかない。いつも浮き足立っていて背伸びをして歩くのが癖だ。自分の体より気持ちが3cmぐらい上にずれている感じ。自分の体を感じることがない。NO身体性だ。

小学校の図工の時間、創作意欲だけが先行して手が追いつかない。絵の具は特に苦手でいつも水分を含んでグショグショだった。あれも描きたい!これも描きたい!と書き足すうちに滲んで惨めな作品が誕生する。このまま捨ててしまいたいのに、虚しく作品はクラスメイトたちのものと並べて展示される。公開処刑を受けてる気分だ。

これはわたしの「言葉」についても同じで、基本的にぐるぐると回る思考全ては頭の中で全て言語化されている。それがそのまま口に出ている。言葉は絵の具みたいに滲んで混ざったりしないからまだいいけれど、自分でも何が言いたいかわからないまま話し続けている。

これはもう病気だ。

頭の中が洪水だあっぷあっぷしてしまう。だからよく独り言もいう。

例えば本当は嫌いなはずの人を、おそらく「好きだ」と思いたい(思わなくてはいけない)という気持ちから「 ○○も、○○も、好き、全然好き大好き」とか、平気で独り言でつぶやいてしまったりする。頭が限界を迎えて知らない間にこう思おうと思ったことが口から出ているのだ。

 

そんなところもあってわたしはよく道端とかにいる「変な人」とほぼ変わらないと思っている。だから自分をゲテモノみたいな女だと思っていた。声はでかいし、しゃべりすぎだし、がさつで不潔で、プリントはすぐぐしゃぐしゃにしてしまう。普通の子が当たり前にできることでドジを踏んだり、自分はどうして周りの女の子みたいにできないんだろう、と思っていた。

 

人一倍評価されたくて人一倍頭を動かすけど全てがぐしゃぐしゃ、自分は劣等生だ。そんな敗北感でいっぱいだった。友達はなんでこんなゲテモノと仲良くしてくれるのかわからなかったし、好きな人にだってこんなゲテモノみたいな自分ではどうやって関わっていいかもわからない、そんな勝手な殻に閉じこもって、こじらせていった。

 

そんなわたしに転機が訪れたのはファッションショーのデザイナーの仕事だった。大学に入ったら一番やりたかったこと。だが、正直わたしは戸惑った。ぐしゃぐしゃなものをあの場で発表してしまったらどうしよう、というプレッシャーの中で、今までで初めて異常なほど丁寧に仕事をした。すると、どうだろう、自分が思っていた以上のものが目の前に現れた。わたしはやっと普通の人になれた気がした。

 

自分は人よりも雑だけれども人一倍気持ちを込めて丁寧にやればちゃんとすごいものを作れる、というのはわたしの自信になった。

 

相変わらず部屋も汚い。できると思って始めた飲食店のホールのバイトも複数のタスクに優先順位をつけてこなすことができなくてミスを連発し、先行きが見えず初めてバイトを短期間でやめた。

 

店長には「高校生の子でもやっている仕事だし、うちでできないなら他のところでも厳しいと思う」と言われたが、わたしにはその「高校生でもやっている仕事」をするのがとても難しいのだ。

気が回らなくて、ドジで、作業をやっていたらお客さんが来ていることにも気がつけないし、みんなが当たり前にできることが人一倍苦手なのだ。

できない、とは言わない。ただみんなが当たり前にできることに2倍や3倍の気を払わないとわたしはできないんだなぁということを認識した。

 

だから、わたしが美人になるのは非常に難しい。

非常に難しいから美人を名乗っている。

名乗ったらなれるかなって。

ちょっとずつ変えていけるかなって。

こうして話したいことを整理して、文章にまとめるのも今まで脳みそ垂れ流しで喋ってた人間からすると新鮮だ。

 

少しずつだけど丁寧に生きられるといいなぁ。

だって私は、美人だから。

 

なんのために、を繰り返していると 感じることを忘れてしまう

 

なんの役に立つんだろうか、と思うと何もすることが出来ない。そういう大人になってしまった。

 

この本を読んだらなんになるのか、この映画を見たらなんの役に立つのか、美術は、音楽は、なんのためにあるのか。

 

そんなことばかり考えているうちに私は楽しむことを忘れてしまった。

 

 なんのために生きているのか、という感覚は幼稚園くらいの頃から無意識にあって、それは「私がこの世界でなんの役にたつのだ」という意味ではなくて、「この世界自体がなんのためにあるのか」という疑問だ。毎日繰り広げられる日常がなんのためにあるかがわからなかったのだ。

だからこの世界はヒトより上の誰か見て楽しむために作ってんのか?と考えるようにしてたし、そうでも考えないと気が狂いそうだったのだ。

 

なんでここに「ある」のかがわからない、その空虚さが夜になると襲ってきて、それが怖くて、夜になると毎晩のように泣いていた。

(おかあさん、めちゃイケの件といい、訳わからないことで泣いてすみませんでした)

 

それはきっと自分が何かがわからない、という不安だったんだと思う。私が幼い頃から人一倍、他人からの注目を浴びたかった理由はそこにもあると思う。

 

だけど私は、映画を見る理由も、美術館に行く理由も、音楽を聴く理由も、生きてる意味も、全部「たのしいから」でいいことに、ハタチにもなってやっと気がついた。

 

思えばちいさい頃は本を読むのが楽しくて仕方がなかった。週末に地元のちょっと大きな図書館に連れていってもらって、袋がちぎれそうなほどたくさんの本を借りても、次の日には読み終えてしまう、そんな子供だった。(まぁ、それはいつからか「明日モテるための」ファッション雑誌に姿を変えていったけれど。)

 

いい絵を見た時や、いい音楽を聴いた時とかに訪れる、ぞわぞわとした感覚、そういう、そういう感覚のために今を生きてる、それで十分だったんだなぁ。だってたのしいし。

 

ヘルタースケルター」に「忘れられるってことは、死ぬってことでしょ」というりりこのセリフがあるが、わたしにはとても印象深かった。

 

だけど、自分が生きてる実感は他人に求めるものではなくて、私は私が楽しむことで生きている実感を求めればよかったんだ。

 

音楽も美術も文学も、そんな、人が生きてる実感に関われるなら、なんて素敵で、人間を人間たらしめているものだろう。

 

きっといつか、全てのことを機械がやってくれる時代がくるだろう。そしたらその時人間がするべきことは、おいしいごはんをたべて、おもしろい映画を見て、好きな音楽を聴いて、好きな人たちと楽しい時間を過ごすことだよ。

 

文学部に来て、よかったなあ。

めちゃイケを見たことを母親に懺悔した夜の話

 

小さい頃から、家に帰ると母親に今日してしまったことを告白する癖があった。

 

具体的には、幼稚園の遠足でいったふれあいコーナーで好奇心からうさぎの目をちょんっと触ってしまったこととか、

スーパーで何気なく触れたお米の袋に穴を開けてしまったこととか、である。

(これは幼き私の2大重罪であって言い出すまでに1年弱かかったし、その他の大したことないことは大したことないので忘れてしまった)

 

そんな私が長い間思い悩んでいたのは、

めちゃイケを見てしまったこと」である。

 

我が家は特に見るテレビも規制されなかったし、特にめちゃイケの、ナイナイ岡村ダンスを練習して、モー娘。のライブに入る企画は家族みんな大好きだった。

 

そんな暖かいテレビ番組「めちゃイケ」の何が幼い私を罪悪感に苦しめたのか。

それは「ぶんぶんぶぶぶん」である。

(正式名は数取団というらしい)

 

暴走族に扮した芸人達が「ブンブンブブブン!」という掛け声をかける。一人目が品物を言うと、次の人がその単位を答える、という、お勉強にもなる楽しいゲームだ。

(例えば タンス なら 次の人が1竿 と答える、 そのあと イカ、といえばその次の人は 2杯 …と答える…といった感じで進んでいく)

 

しかし、止まってしまうと、罰ゲームが待っている、突然相撲取りたちが現れて、ボコボコにされてしまうのだ(幼い私の偏見が含まれています。ご了承ください。)

 

それを見てしまったことが、たまらなく、たまらなく悪いことのように思えたのだ。

人が殴られるところを見て面白がる番組を見てしまった、そのことが幼い私の心に重くのしかかったのだ。

 

しかし、なかなか言い出すことが出来ず結局数年の時がたってしまった。

ある夜、私は母に「あのね…」と切り出した。

告白を始めようとすると、罪悪感と、いままでずっと胸に使えてたものが取れるうれしさで、涙がこみ上げ、声はしゃくりあげてしまった。

「ううっ…ぶんぶんぶぶぶんってやつ、あったじゃん?」

「うん」

「あれ、あれね、みたからね、わるいかなーっておもった。」

「そっか、わかった」

いつも私の懺悔に慣れていた母は、基本聞いてくれてそれで終わりなのだが、今回はちょっと伝わっていないようだったので、わたしは泣きながら補足をした。

 

「ぶんぶんぶぶぶんってね、するじゃん? うっ…間違えるとさ、なんか、殴られちゃうじゃん…だから、だから……(だからなんなんだと思った)うーん…かわいそうだった」

 

と、続けた。

母は「そっかーそうだったんだね」と受け止めてくれて、「かわいそうじゃないよ〜、大丈夫」と、おもしろいものなのよ?的な雰囲気をほのめかしてわたしを慰めてくれた。

 

あの時、わたしは、「だから…だから…」に続く言葉が浮かばなかったし、そこに入るべき言葉は「かわいそう」ではないなと、わかっていた。

だから、だから…を今考えてみると、

「誰かが貶められている姿は面白い」と感じてしまう人間の罪を私は背負ったのだ、とおもった。

メシウマ思想だったり、リアクション芸だったり、そういうものは沢山あるし、みんなは気にすることもなく笑っている。だけれどわたしはそれがうまく、うまく消化しきれず、どこかでそれって違うじゃん、と思ってしまうのだ。

 

だからいいのさ、君たちは、若手芸人のリアクションを見て、笑えばいいのさ。

その罪は全部私が引き受けるから。

その姿はまるでイエスキリストのようである。

君たちの、笑いの十字架を背負ってわたしは今日も生きるよ。

 

 

 

 

 

 

ねるねるねるねがねだれないからいつセックスしていいかわからない

ねるねるねるねを食べてはいけないと、思っていた。

 

ダメと言われてたわけじゃないけど、なんとなくふさわしくないかな、と思っていた。

だから、好きなお菓子を買っていいよ、と言われた時は、くしゅくしゅのオブラートに包まれたアンパンマングミとか、棒のついたいちごのチョコが3本入ってるやつとかを買ってもらった。

 

同じような理由で、ファミレスのレジ横のおもちゃをねだってはいけないと思っていた。

あれをねだるような子供はダメだ、私はそんなに聞き分けが悪くないぞ!というプライドもあった。

 

初めてゲームセンターに行くときは緊張した。

不良がいるところだからだ。

ちなみに、ショッピングモールについてるやつはオッケーである。(不良がいないから)

 

いい子は何歳からメイクをするのが好ましいのかは誰も教えてくれないし、何歳から眉毛を整えていいのかも教えてくれない。

私は普通のいい子でいたかっただけなのに。

 

何歳から人と付き合うのが正解なのかわからないし、何歳からセックスしていいのかもわからない。不純異性交遊とかいわれてたのに、知らない間に処女だの童貞だの言われるようになるし、悪い事じゃなかったんですか?ねるねるねるねも食べて良くてセックスもしてよかったんですか?びっくりです。

 

初体験を終えたと噂の同級生を直視出来ず、エロい噂を聞いた同級生が裸に見える、ああこの子はエロいのか、エロいのかとエロい事への罪悪感を脱ぎ捨てられるのは大学に入ってからだった。(や、Twitterはじめたからか)