美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

書きたいから書く 酒のせいにしないと書けないくせにね

なんでも酒のせいに出来る

体に火照るものと、霧のかかった意思を持ちながら、この記事を書いている。

 

お酒というのはよい。瞑想や禅を組むことなしに思考を止め頭をスッキリと(その内実は脳を麻痺させたモヤモヤに過ぎないのだが)することが出来る。

 

脳が多動であれやこれやと思考の止まらない私にとって酒に酔いながらブログを更新するのは思えば癖になっている。

逆に酒の力を借りないと文章のひとつもかけないのはどうかと思う。

 

思っていることを隠して過ごしてきた。

素直に人に甘えられない私は酒の力を借りて、「酒のせい」にして本心を語る。

辛い。かわいくそのままで他の人の胸に飛び込みたいと何度思っただろう。冷静さが常に隣合わせですべてを人に預けられない。

同性同士でもハグが気持ち悪い。

触れないでほしい。

私の中に誰も入ってこないでほしい。

愛想よくうまくやるから、入らないで。そんな気持ちが渦巻く。

本当はアクセスとかウケとか狙わず文章書きたいのに。浅はかで下世話なことばかり考える私。許して欲しい。もっと自由になりたい。

酒のせいにできる。ということを理性でわかって、その理性の私が泣いている。酒のせいに出来ることを確かに分かっている。記憶はある。酒のせいにして抱きつきたい人がいる、好きな人がいる、好きなものがある。したいことがある。この世に生を受けたのに、アルコール摂取しなきゃ、口にも出せない自分が消えて欲しい。

 

 

続・「ねるねるねるねがねだれないからいつセックスしていいかわからない」

toyopuri.hatenadiary.jp

 これは私が昨年書いたブログの記事だ。ねるねるねるねが食べられないというのは私の中のカルマであった。着色料が入ってそうで、体に悪そう。粉に水を入れて混ぜて食べれば、周りが汚れるし、第一食べ物で遊ぶお菓子を買うと親はいい顔をしない、と思っていた。ただ、もちろん子供ながらに好奇心はあるわけで、①の粉と②の粉を混ぜてみたい、ふわふわとふくらんだ「ねるねる」をスプーンにすくって③番の砕いたキャンディーに思いっきりまぶして食べてみたい、と思っていた。ねるねるねるねを作った記憶があるので、おそらく一度か二度くらいはドキドキしながら買ってもらったことがあったのだ思う。でも、作っているときはなぜだか罪悪感でいっぱいでほとんど楽しくなかった。今この瞬間にも、リビングの隅にある子供用の机でねるねるねるねをかき混ぜていたときの気持ちを思い出すだけで、胸がきゅっとなる。あのプラスチックのプレートの隅についている小さな三角の器に「水を入れたい」というというのがなかなか言い出せなかったのだ。

 明確に「食べてはダメ」「見てはダメ」という母親ではなかったし(ただ、極端な心配性ではあった。)、私はとても甘やかされて育ったと思うけれど、おそらくその分無意識にいい子でいなくては、というとてつもないプレッシャーの中で生きてきた。(私が「めちゃイケ」を見たことを号泣して懺悔したのはまた別の話である。)そのことに気がついたわたしはこの「ねるねるねるね」のブログの記事を皮切りに「こじらせブログ」を書き始めた。両親との関係は良好であったがその分思い悩むことも多かったこと、自己演技的に生きることが癖になり周りの人間と心を通じあわせたことがなかったこと、自分にはおそらくADHD系の発達障害の気があるのだが、そんな自分がゲテモノのように思えて恋愛も出来なければ女として失格な気がすることなど、自分の背負ってきたものをひとつひとつ荷下ろししていくように文章にしていった。その作業は非常に心地よく、それを読んだ友人たちが「面白い」と言ってくれることで周りの人間はちゃんと自分のことを理解してくれるんだ、と思えるようにもなった。

 

 しかし、私は数ヶ月後にはブログを更新しなくなった。飽きたから、という理由は否定しないが、最も大きな理由は、このまま同じようなブログを書き続けても私は変わらない、ということに気がついたからだ。本当に幸せになりたいなら自分がやってこれなかったことをぐだぐだいって共感を得るより、その全てを捨てて自分を変えれてしまえばいいのだ。もちろん「こじらせ芸」で共感を得るのは心地よかったし、そのネタで永遠に書きけられる気すらした。でも、結局どの切り口からブログを書き始めても最後には「可愛く振舞えない」「真面目で損した」「がさつで辛い」といった同じ結末にたどり着くのだ。同じ話を例え話やエピソードを変えながら書き続けるのは馬鹿らしい。正直「こじらせ芸」はそれなりに面白いし、一定のこじらせてる人々はきっと同じことの焼き直しでも、それが生産される限りその界隈で消費してくれる。わたしもそんな「こじらせ」が大好きで「こじらせ界隈」で頂点になることを目指していたこともあった。でもその外に出なくてはならないのだ。この「こじらせ村」を最初に出て、わたしが最初に幸せになって、世界はこんなにも生きやすいところだと、みんなに教えなくてはいけないのだ。

 

そうして、こじらせ村の脱出を決めた私に、恋人ができた。そこに一切の妥協はないと言い切ることができるし、私は今までの人生で最もタイプだと思う男性と付き合っている。

初めて会った時からなんとなく好きなタイプだな、と思っていた。15歳上の人だったが、だいぶ若く見えたので、年齢を知ったときは驚いた。
小柄でやんちゃそうな雰囲気が好みで、小学校の頃好きだった男の子に似ていた。

といってももちろん、一回り以上年上の彼と付き合えるなんて思ってなかったし、だからこそ「うわ〜! 同級生にいたら、好きになってるタイプです(ヘラヘラ)」みたいなことも気にせず言えていた。年下の女の子から言われて、悪い気はしないだろうと思ったし、高校生の女の子が好きな先生を推すような感覚であった。

(これは、私が自意識をこじらせ過ぎて中高6年間ファンだった人気の古典の先生を周りの友達のように推すことすらできなかった過去への反省からの言動なのだが、それはまた今度話すとしよう。)


そんな私に転機が訪れる。彼が恋人と別れたのだ。(もちろんこの件に私は一切無関係だ。)

彼は恋人をとても大事にしており、そこも含めてとても好きだった。だからそれを知った時は、純粋に胸が痛かった。

 

しかし、だ。

その時やっぱり彼が好きだと確信したのだ。

ダメな理由なんてどこにもないことにも気がついたのだ。

 

「世の中にはこんなにも私好みでよく出来た男が存在すると思うと人生捨てたもんじゃないな、私もそんな彼氏を探そう」くらいのことを思ってた人の、隣のに座れるチャンスが自分の前に回ってくるなんて思ってもみなかった。

 

不思議なことに今まで15も年上で、交際相手がいる、「から」ないと思っていた相手がいきなりフリーになると、もう年齢のハードルなど、たいしたものではないような気がしていた。

 

私は幸せになりたいのだ。

自分の気持ちに素直になり、欲しいものを手に入れられる人になりたい。

心の奥底でずっと思っていた。

年齢が上だからとか、今まで歩んできた人生が違うからとか、自分に勝手に課していたダメルールから自由になって、

今の私に与えられたこの機会に全力で取り組みたいと強く思った。

 

それから私は「自分が今までしてこなかったことをする」というのをテーマに掲げ、慣れないことをたくさんやってみた。

酔っ払った勢いで甘えてみる、とか、ラインの会話や態度で好きなのを全面に出す、とか今までの自分では考えられないような、恋愛パターン改革を行った。(今までは好きな気持ちを押し隠し突然告白。相手を困惑させる、という手法の常習犯であった。)この改革はもちろん私自身の新戦術でもあったが、実際問題、良識のある人間であれば15も下の女の子に手を出すのはリスクがあるし、一回り以上年下の女の子からのアタックを、最初からは本気にはしないだろう。

だからこそ、「弄んでいるわけではなく私は本気であなたのことが好きです!」というのを通常の5倍くらいはわかりやすく出さなくてはならないと思ったのだ。

そんな私の物分かりの良さも彼の食指をひいたのであろうし、私もまたこちらからアタックしない限り絶対に手を出そうとしない姿勢に信頼を寄せた。

毎日のようにラインが続き、一緒に食事に行くことが決まった。

それから付き合ってもう半年を過ぎた。

 

明るく意思の強い女性が好きな人もいることを知ったし、

 

アボカドをショートケーキの上に乗せる人もいたし、私をアボカドだとみなさない人がいる人も知った。(アボカドだってショートケーキに乗りたかった - 美人ブログ)

全ては3割の真実と7割の思い込みであったのだ。

  

彼氏はどんな人?と聞かれれば、身長が低いとか三枚目だとか、いくらでも説明しようがあるだろうが、

 

自分の決めたことをやり抜き、

自分の言葉で語り、

自分の感覚を信じることができる、

 

そんな人だと、ここでは答えておこう。

 

1年前の私はまさか自分に彼氏ができると思っていなかったし、それが15歳も上の人になるなんて考えもしなかった。もちろんもとから気にしぃの私が、気にしないわけがない。しかし、そんなことでチャンスを逃したくなかったのだ。結局自分の感覚を信じることしかできないし、私は今、人生で一番好みの男性と交際ができて本当に幸せなのだからきっと正解なのだろう。

 

ちなみにこの恋愛改革により、さらなる改革も起こっていた。私は2年前には母が亡くなっており、だからこそ、15も上の男性と付き合っていることに罪悪感を持たずに済んでいるという部分も大きいと思う。幸い父親は寛容なので、彼氏ができたことは話していないが、帰りが遅くても文句一つ言わないし恵まれた環境であると言える。そうは言っても、実際問題娘が15上の男と付き合ってる、さらにはもし結婚なんてすると言い出したら嫌な顔をするのではないか、と心配していた。一応私の家は「自由」であることが提唱されているが、私は無意識に「自由」の中で父親と母親の理想を選んできたので真に自由であったことはなかった。例えば私は幼い頃から変わった子供であったので「将来は日芸に行って顔を白塗りとかにして変わった演劇でもやるんじゃないの?笑」などと母に言われていたが、実際そんなことしたら嫌がるだろ、と思っていた。小学生の頃から演劇部に入っていたが、例えば私が舞台女優になるなどと言ったら心配する母親であったと思う。だからこそ舞台女優になるような人生はダメだ、夢を追いかけたりしてはいけない、という思いがずっとあった。そんな私が15歳上の彼氏と付き合いはじめたある日、父親におそるおそる尋ねた

「うちってどこまで自由なの?」

「どこまでって?」

「んー、例えば私が舞台女優になるって言ったらどうする?」

「応援する。心から。」

「えっ、そうなの。占い師になるって言ったら?」

「当たるならいいんじゃない?」

「舞台女優になってよかったの。電通とかリクルートに入らなくてもよかったの。」

「ぜんっぜんいい、ぜんぜんいいよ。そんなのよりむしろ応援する。全力で。」

私は号泣した。決して本気で舞台女優になりたいわけではなかったけど、そういう風に生きていいと言ってもらえたことで、肩の荷が完全に降りたのだ。

「知らなかった。知らなかったんですー。舞台女優になっていいって、知らなかった……ずっとダメだと思ってた。そういう生き方。」

「お前の人生だ。好きに生きろ。」

「例えば私がすごい年上の人と結婚したいって連れてきたらどうする?」

「すごい年上って?」

「15歳とか」

「15…30の時45 40の時55 全然アリでしょ」

「どこまでオッケー?」

「んー、流石に俺と同い年とかそれより上連れてきたら引くけど…20くらいまでじゃない?」

「へー、バツイチは?」

「全然アリでしょ」

「子連れだったら?」

「お前が他人の子を可愛がれると思えないけどそれでもいいならいいんじゃない。」

「私のことよく分かってるね。外人だったら?」

「のぞむところ、ケニア人でもいいよ。未開の地とか世界の果てに住んでても、一年に一回Eメールが届いて写真と楽しくやってる様子が来れば十分だ。」

「あのさ、ママに高校生の時にウエディングプランナーになりたいって言ったことがあったの。それかゼクシィの編集者。私は当時から早稲田に行くつもりだったんだけど、娘の夢を応援しようと焦ったみたいで、突然ウェディングプランナーの専門学校の資料を取り寄せて私に差し出してきたの。その様子が挙動不審で、お嫁さんの要望に答えるの大変だと思うな、とか言ってたの覚えてる。私に大学に行って欲しいのが見え見えだったし、現に私は小さい頃から難関大学に進学しないと思った日はなかったよ。私はうちが自由だっていうのは子供に対して自由な選択肢を与える親でありたいだけだと思っていた。だからずっと期待する生き方をしてきた。」

「そうか、そうだな。パパはもっとうちは自由だと思ってた。気がついてあげられなくてごめんな。少なくとも俺は本気でお前に自由に生きて欲しいと思ってる。それが伝わってなかったのなら俺の反省点だ。ごめんな。」

 

私は泣いた。ひたすら泣いた。開放であった。涙が止まらなかった。

 

「気の済むまで泣けばいいよ。涙が出るということはまだそのカルマを出し切ってないということだから、涙が出なくなるまで泣いた方がいい。」

 

と父は言った。

 

 

 

慣れないことをするというのは人生に変化をもたらすための手段として本当に効果のあることである。

私は今、大好きな恋人と付き合い、父親と腹の底から語らい、心から幸せである。

 

 

 

ちなみに、私が初めて彼の家に行った日、彼が、

 

「俺も好きなように生きるから、お前も好きなように生きろ。お前の人生だ。」

と言ったのはまた別の話。

 

  

 

うまいブログも書けなくなってしまった。

思ったことだけを書こうと決めたのに。

大事なことだけをしぼりだそうときめたのに。

 

そうして始めたこのブログも、どんどんダメになってしまった。

相変わらずのマシンガントークであるし、折角生み出した「美人」のキャラクター性も崩れてしまった。

 

思えばこのブログを始めたころ私は今よりずっと自分に自信がなかった。

 

ありのままに生きていいことを知った私は変わってしまったのだ。

今はエネルギーが溢れてしまってどうしようもない。言いたいことも止められない。

「美人」はいなくなってしまったのだ。

 

今はどこにいるのかわからない「彼女」を私は待たなくてはいけない。

 

また「彼女」は戻ってきてくれるだろうか。

今の私ももちろん好きだけど、やっぱり「美人」になりたいのだ。人の話に耳を傾け、諭すように話す、気品のあるひとに。

ひとつひとつのしぐさが丁寧で、ちゃんと相手のことを待てるひと。

なれるかな。なれるかしら。

 

ちょっとずつでもなりたいなあ。

書けなくなってしまったからね。

逢うべきひととは 逢うべきときに きっと

 

どうしたってうまくいかないこともある人生の中で、

 

ああ、この人はつながる人だ!

と思って繋がる人がいる。

 

一方で、あぁ、なんとなく一緒にいるうちにこんなにもしっくりくるなんて!

と思う人もいる。

 

私はその全てが運命と必然であると思う。

必要な人には必要な時に出会えるようにできているのだ、と思う。

 

私も、全てが決まっているなんてつまらない、私の人生私が決めてやる!という血気盛んな頃もあった。

でも、運命というのは決定され、強制された縛りではなくて、ただゆっくりと、自分らしい道を歩いた時に、すっと、糸口が見える時がある。

 

以前の私なら気づきもせず、うまくたぐり寄せられなかったそれを今の私は手に取ることができる。

 

そういう縁は不思議なものと繋がっている。

それは人だけではなく、チャンス、仕事や場所、様々である。

しばらく会えなかった人も、もう会えなくなった人も、必要な場面があれば必ず縁はまた結ばれる。

 

そういうものは、それまでの自分から少し変わった時に見えたりするのかな、とおもうのだ。

 

大抵そういう時は原因がなんであれ、相手というより、むしろ自分の方が変わった、と思う時に縁が舞い降りたりするからだ。

 

わたしはそういうとき、その段階の勉強が終わった、ということなのかな、と思ったりする。

人生は魂を磨くための修行だとすら思う。

 

不思議な偶然や二度目の出会いはわりとよくあることだ。

 

長い間会えなかった人とも、会ってみるとあっという間に距離や時間を超えてしまうことを私は知っている。

キーキー言ったり、必死こいてる時よりも、お互いなんでこじれたんだ?なんて思った頃に流れたりするのだ。

 

一度惹かれてしまった人には何度会っても惹かれてしまうのだろうな、と思う。 

 

どうにもこうにも大学に向いてない

悲しいことがある。

今年も新歓の時期になった。私はあの春に思いを馳せる。それはもちろん、私があのワセダの門を通り、晴れて早稲田生になった頃のことだ。

 

幼い頃から早稲田への憧れはあった。物心ついた時から、「だいがく」ってのがあるらしいけど、わたしには「わせだ」ってのがあってるなと思っていたからだ。自由闊達、在野の精神、進取の精神。この街が、早稲田という街が大学と一緒に息づいている。そんなナマナマしい魅力に私は取り憑かれていた。

 

それから、思春期を迎えて、自分らしく生きることが難しくなったりもした。そんな私の支えは、早稲田に入ればきっと自分らしい私を認めてもらえるに違いない、という思い込みであった。

 

それはさながら、白馬の王子様を待つ、脳内メルヘンお姫様のような考え方であるが、これは呪いを解くための儀式だったのだ。

 

バカなふりをしてヘラヘラ笑って、自分よりイケてると思った人には媚びへつらう。誰にも自分の本当の良さは理解されないと、心に鍵をかけたまま誰かを見下す、そんな息苦しい呪いを解く手段は、私にとって早稲田に入ることだったのだ。

 

しかし、困ったことに、だ。いかんせん、新歓が怖い。お酒を飲むのが正解なのか飲まないのが正解なのかはわからないし、きれいだなあ、と思っていた先輩が目の前でタバコをスパスパ吸い始めると、どうしてこんなに悲しい気持ちになってしまったのだろうか。

 

タダ酒、タダ飯を楽しむべき華の大学1年生。私は新歓が怖かった。飲み会に行くのが負担だった。どうしたらいいのかわからなかったし、何が正解なのかわからなかった。

 

酔っ払いは、嫌いだった。

 

あんなに憧れた早稲田で私はエンジ色に染まれなかった。肩を組み校歌を歌い、この学生街を我が物顔で歩き回る、バンカラで、だいぶダサくてちょっとかっこいい、そんな早稲田生とはまったく違う場所にいた。

 

そうはいっても、華の女子大生、バンカラに染まらなくたって、いくらだって楽しいことはある。可愛いファッションに身を包み、トレンドには敏感。ゼミで出会った彼氏なんて連れちゃって、気分はまさにJJガール。

 

しかし、ダメ、これもできていない。入学当初の私は結構ガーリーで「気合い入りすぎな服」が好きだったのだが、いかんせん思ったより文学部にはそういう人はいなかったし、あれ、「ちょっと力を抜いた実生活にフィットしたラフスタイル」みたいなほうがイケてるのでは?という空気を勝手に感じて萎縮して、キラ女ファッションは封印した。

 

でも困ったことにもう3女なのだ。JJガールの3女というのはオトナの風格を醸すイイオンナ。一方あたしは疲れた主婦みたいな格好で、芋高校生に毛が生えたような格好。結局サマンサタバサにも縁はなかった。(別に好きじゃないけど。)

 

思えば幼い頃からそうであった。勉強はまあできたし、委員会などには積極的。クラスの行事を仕切ったりはするくせに、クラスの子達の後をいつもドギマギして追いかけていた。

 

観光地にあるダサいプリクラではなくて、ゲームセンターに、ラクガキできる最新のプリクラがあると友達に連れていってもらったゲームセンター。なんだかママごめんなさいという気持ちでいっぱいだった。

 

学校で禁止しているシャープペンを、鉛筆にソックリの形のを先生の目の前で使う友達を眺めてアワアワしたり、駄菓子屋さんで買い食いするときも周りを見てソワソワしながら罪悪感を噛み締めてブタメンをすするのは大変だった。

 

高校生になってからのメイクデビューなんて、ドキドキもので、周りの様子を伺いながら少しずつやっていた。親に見られて下手だとか、まだ早いとか言われたらどうしようと思って、うつむきながらササッと母親に出発を告げると、「そんなに隠さなくてもいいのに」と言われた。なんだか、後ろめたくて恥ずかしかったのだ。察してほしい。

 

脱毛だってエクステだって、マツエクだって、高い美容室に行くのだって、それをしてもいいのか毎回周りを確認する。

 

私はいつだって周りの背中をみて、慌てて追いかけてきた。そんなんだからみんなを先導するイケてる女の子にはいつまで経ってもなれないんだろうなあ。かわいくなるためには勇気も必要って誰かが言っていたけど、その通りなのかもしれないなあ。

 

私だってわっしょいで飲んでみたいし、高校生の延長みたいなお洒落をやめたいし、ずっと子供のままだと思ってたらもうハタチなんだよ。

 

刺激的な下着を買ってもええし、デパコスだってシーズンごとの服だって好きなように買っていいのだ。お酒だって飲んで罪悪感を感じることもない。

 

困ったなあ、あたしもうハタチなんだ。

 

偏差値という病

久々に学校へ行くと、付属校の小学生たちの集団がいた。どうやら、大学見学に来たらしい。

 

まあ、私の大学は(きっとこの記事を読んでいる9割5分の人は知っているだろうが、この記事は検索避けも兼ねてあえて伏せさせてもらう)、まあかなり有名で、私は小学生の時から行きたいなあと思っていた大学だった。

 

思い入れもひとしおで、「ここに入らなきゃ、私の人生じゃない!」と必死こいて入った大好きな大学だ。

 

さて、冒頭の小学生たちの話に戻るが、彼らは学生の案内を聞いていた。彼女が各キャンパスと学部の説明をはじめると、男の子が「一番偏差値が高いところはどこですか」と尋ねた。彼女は少し困りながら「ん~政経かなぁ」と言う。そして彼はまた尋ねた「一番低いところはどこですか」と。隣にいた女の子が「そういうのは聞いちゃいけないの!」と言う。彼女は笑って説明を続けた。

説明が所〇キャンパスの話に差し掛かり、彼女の手元のボードには「人間〇学部」と「スポーツ〇学部」の文字が並んでいた。それを目にした男の子たちから「あ、偏差値低いところだ」「頭悪いところじゃん」と、声が上がる。

彼女は「スポーツ〇学部は同級生が日本代表!なんてこともあるんだよ〜!」と笑顔で話すが、それに被せて「でも頭は悪い。」と口々にいう。笑い声が上がる。

「人間〇学部には、通信教育課程ですが、羽生結弦さんも在籍しています!」という彼女の声に、「じゃあ羽生結弦って頭悪いんだw」と口々に笑う声が聞こえる。まさに、地獄絵図だ。

 

 

 

しかし、思えば私もそうであった。ずっとずっと自分が特別な子であると勘違いしたコマしゃくれた小学生のひとりであった。

 

小学4年生の時、両親から、「これから塾に行くことになる」と告げられた。「周りの子達も行く子いるんじゃない?」と母に言われたので、次の日には「ねぇ、塾とか行くの?」とクラス中の子達に聞いて回った。朝学校行ってから下駄箱で靴を履いて帰る瞬間まで手当り次第に聞きまくった。

母親が知ったら青い顔をしそうであるが、私は「4年生になったら塾に行く」というのは、それまで親からは聞いたこともなかったし、学校でも聞いたことがなかった。だから、少し驚いたけれどうちのママとパパが言うからそれが「普通」なのかなと思った。(結局は家庭の価値観なんだけどね。子供にとってはそれがすべてだ。)

 

小学校は「みんなおなじ」で当たり前であった。これから私がするらしい、パパとママが決めた「普通」のことが「普通」なのかがきになったわたしは、「みんなもそうなのかぜひ聞きたい!」と思い、大調査会を実施したのだと思う…。

 

結果、塾に行くと明確に言ったのは私だけであった。でも正確には、私の小学校は最終的にかなりの数が受験したので、みんな他人に言わなかっただけなんだろう。笑

(高学年になる時にはみんな割とオープンにしていたが。)

 

そんなこんなで流されるままに、塾に入った私であったが、塾での生活は、それまでの窮屈だった学校生活が一変するほど幸せであった。

純粋に、知らないことを知ることとか、学ぶことが楽しかったし、小学校の先生は毎日イライラしていたから嫌いだったけれど、塾の先生はすごく面白くて、へー、先生って好きだなあ、と思った。

 

 塾では入った時から割と上の方ではあったし、クラスも授業も本当に楽しかった。母と父は私に勉強しろとはあまり言わなかったが、私がなにかわがままを言うと、「塾を辞めさせる」と脅した。また、夜遅くに送り迎えをしてあげていることを母とそれについてくる弟に感謝しなさい、とも言われた。私はそれがずるい、と思った。確かに受験は私も望んでいたけれど、両親に言われて始めたことだから。

目の前に出されたからやったし、楽しかったから続けた。でもそれは私が選んだものではなく、両親のいうことを聞いた「いい子」なのになんで私の希望に家族が付き合っているみたいな話になってるんだ、と思っていた。

 

大学受験になれば親のサポートへの純粋な感謝ができたけれど、言うことを聞いているだけなのにさらには感謝まで要求される、というのが、中学受験では理解出来なかったんだと思う。

 

中学受験における精神性ってそうだ。親の言うことを聞いているし勉強もしている。こどもとして正しいことをしている、という自信がだんだん驕らせるんだろうなあ。

 

まあ、私の場合、塾に通うのが何より楽しかったから中学受験の思い出はいい思い出だけど。

 

私が楽しい塾生活を送る一方で、学校の雲行きは怪しくなっていく。普通の公立ながら受験する子たちがクラスの大多数を占めていたため、学校での授業の殆どは「みんなが知ってること」になりつつあったのだ。

受験をする子達はコマしゃくれているし、先生達は「教えてないことを知っている生徒」を好まない。「受験する子」は親の言うことを聞いた、勉強をするいい子である、しない子もまた等しくいい子である。しかし、こう、なんとも言えないミゾ、人生における初めての人生における選択の差っていうか、大人になるってこういうことか、みたいな雰囲気を感じることになる。どっちも正義なのにね。

 

私も無意識のうちに、「中学受験至上主義」に毒されていた。

給食の時先生が各班を回って一緒に食べる、という風習が嫌いだった。小学生の内輪受けではなく、話題に先生も入れなくては、という意識に駆られてしまうからである。その時の私の班はちょうど受験する子が多かったので、連日受験の話になることが多かった。先生がその班に加わり、何を話していいかわからなくなった私は、昨日その班の男の子に教えてもらった話を振った「〇〇くんのお姉さんって白〇合(中学名)なんですってすごいですよね~」と。

特にその話がしたかった訳では無いのだけど、同じ受験の話でも、私たちの話よりお姉さんの話の方が生々しくないかな、と配慮し、そして昨日の給食で盛り上がった話題なので、昨日までの班の話のあらすじ、ハイライト、として紹介したのである。(今思うと全然小学生としては不適切なんだけど。)

 

先生は「別にすごくない」と言った。班がしらけた。いや、私はまだしも暗に〇〇くんも、○○くんのお姉さんも、事故った。気まずかった。

 

 

今思うと不適切なのはわかるのだけれど、大の大人が小学校相手に露骨に不機嫌な態度をとるほど中学受験ってのはデリケートな問題なのだな、と思った。

 

 

確かに中学受験をする子供は「自分のことが特別だ」と思い込んでしまう。

塾に入り成績別に並べられ、みんなが知らないことを勉強する。その驕りと傲慢さは天下一品だ。学校が偏差値別に並べられた表を見て、下の学校をバカにする。そんなことが当たり前の世界で生きてきた。麻痺していく。

 

そんな麻痺のまま中高一貫に入学した。中高一貫はいかに偏差値が高い大学に入れる生徒を出すかという商売でもある。(もちろんそれだけではないけど) だから、偏差値が絶対的な正義だと思ってきた。有名大学に行くことこそ人生のただ一つの正解だという価値観に浸かり、縛られ、並べられた。

 

バイトができる高校生が羨ましかった。放課後原宿に行ける高校生が羨ましかった。なんちゃって制服を着て、スカートをギリギリまで短くして、つけまつげをつけて、カラコンをして、若さを満喫している女の子たちが羨ましかった。私は雑誌に載っているJKには、なれなかった。そのコンプレックスは、さらなる偏差値至上主義へと向かわせる。将来幸せになるのは私たちだ、私たちが正解だ、と。

 

女子高生の時、私は大学受験をしない人たちがどこに消えていくのかわからなくて怖かった。

 

今渋谷や原宿をほっつき歩いている人たちはこの街のどこに消えていくんだろう。

これからの社会の「表舞台」(だと思いこんでいる)にいるOLは私たち大卒だ。でも、このギャルたちはどうやって生きていくんだろう。

 

有名な大学に入れなくて「何者にもなれなかった人」はどうなるんだろう、消えるのかな、社会から相手にされなくなるのかな、若いうちはなんとかなっても若さがなくなったらどうなるんだろう。

 

いい大学に入らないと消えてしまう。

(私が知っている)一本道を踏み外せば(私の知っている)世界からは消えてしまうから。

そんな漠然とした恐怖が私を襲っていた。

 

必死で勉強して入った大学で、私は特に勉強せずに、この大学にやってくる人たちがいるのを知る。純粋に学問が好きで、この大学にやってくる人たちがいるのを知る。

 

それを知った時、なんだか頑張って入ったことを誇っていた私が恥ずかしくなった。あぁ、なーに私つまんないことにこだわってたんだろう、と。

 

そして、自分が本当に欲しいものをやっと手にした時、初めて周りが見えた。やっと偏差値の檻から出られたのだ。いろんな人生があること。別に大学に行かなくても消えないこと。むしろ、専門学校で自分のやりたいことをできるようになる、そんな生き方の方が理にかなっているんじゃないか、と心から思う。

 

でもきっと偏差値の檻から出るためには、コンプレックスから抜け出さなきゃいけない。

しかし、皮肉なことであるが、私の場合、偏差値の檻から出るためには、高い偏差値を手に入れる、という成功体験が必要だった。なぜなら、コンプレックスというのは、他人が持っているものを羨むことから生まれるからだ。

 

だからもしかすると、私は大学受験に失敗していたら、一生偏差値コンプレックスを抱えて生きていたのかもしれない。

 

偏差値格差社会は本当に正しいのだろうか。

わからない。

わからない。いつも自分と違う生き方をしている誰かを馬鹿にして生きてきた。

誰かの生き方が不正解だとバツ印をつけて生きてきた。

本当は雑誌に載るような、メイクバッチリの女子高生になりたかった。でも許されなかったから、彼女達の生き方を否定して、自分たちが大学に進学することを正当化することしか出来なかった。

私は今まで勉強をしてきた。それが正しいと思うために、偏差値が低いことはダメなことだとバツ印をつけて生きてきたのだ。

 

だけどそういう生き方は息苦しかった。誰かにつけたバツ印は、いつ自分に向くかわからない。きっと今の大学に落ちてたらずっと自分にバツ印を背負わせて生きていたのだろう。

 

結局、自分がいい偏差値の大学に行かないと、その檻から出られないのなら、誰しもそうなのかもしれない。

ほとんどの人は偏差値コンプレックスから

解放されないのかもしれない。

 

それに私は偏差値なんてくだらなくて、自分がこの大学に入ったことを大したことないと思いはじめていたが、自分が恋したこの大学を、もっと愛していいし、それは恥ずかしくないことなのかもしれない。私がこの大学に入った理由は偏差値でくくりきれないし。そこに息づく文化や、流れる血潮に恋をしたのだから。

 

偏差値は確かに今の世の中を生きてく上で必要だし、私ももちろんその恩恵に預かってきた。

だけど私は書きたい。今日出会ったあの小学生達に「そういう価値観」があることが恐ろしくなったから。きっと彼らの両親がそう思っていることが無意識に刷り込まれているのだろう。そういう価値観もすべてが間違いではないけれど、それがすべてではない、と思ったから。きっと彼らが持っているその価値観が、いつか、彼ら自身を苦しめる時が来るから。みんなが幸せになるために、ちょっと世の中が自由になるために、思ったことがあったから昔の自分を通して、考えてみることにしたのだ。

 

私は偏差値の檻からでて、楽になった。人生は踏み外すと死ぬ一本道ではなくて、どこへでも行ける、地平線の向こうまで広がる大地だったから。

 

さて、大学を出てなんになろうか。ファッションデザイナーにだって、ライターにだって、カメラマンにだってパテシエにだってなれる。みんなに自慢できる商社に行ってもいいし、ベンチャー企業に入ってもいい。やりたいことをやってなりたいものになっていい。

 

偏差値なんて入口は世界を覗くほんの小さな窓なのだ。

 

それなりに偏差値が高くて希望の大学に行った女だから言える戯言かもしれない。でもきっと、これを書けばもう少し幸せに生きられる人たちがいるかもしれない、書くことに意味があるかもしれない。そう思って、私は今筆をとったのだ。(スマホだけどね)

瀬川おんぷになりたくて気がつくと私は泣いていた

 

瀬川おんぷになりたかった。

本当は瀬川おんぷが好きだった。

 

私はおジャ魔女どれみでは、どれみちゃん派であった。明るくて楽しく、おてんばで好奇心旺盛、魔女になりたくて、魔法のことばかり考えている。友達想いで、大好物はステーキ。

 

そんな彼女が私は大好きだった。

私は魔女になりたかったし、本当は魔法があっていつか本物の魔法使いになれるんじゃないかと思っていた。図書館の隅で見つけた「わたし、魔女になりたい!」という本が大好きで何度も借りた。担任の先生に「とよのさん、魔女になりたいの?」とからかわれたのを覚えている。

 

春風どれみは魅力的な女の子だ。きっとみんな彼女のことが大好きだし、彼女の天真爛漫さはみんなの心に火を灯してきた。

女の子はおしとやかにしなくてもいいということ、信じたもののために駆け回っていいこと、だいじなものを守るためには必死になっていいこと、全部、春風どれみがおしえてくれたのだ。(そして、女の子の好きな食べ物がステーキでいいことも。)

 

 

だけど、「かわいい」のは瀬川おんぷであった。彼女はチャイルドアイドル、通称、チャイドル、だ。私は彼女が初めて登場したシーンを鮮明に覚えている。公開オーディション。観客の前で歌い、彼女は魔法を唱えるのだ「みんな、私に投票して!」と。それは禁断の魔法、「人の心を操る魔法」である。しかし、禁忌を犯しても、彼女には罰は下されない。彼女は「お守り」のブレスレットをしていたからだ。

 

しかし、例え「お守り」があって、自分に害が及ばないとしても、彼女は「禁忌を犯している」のだ。それをなんの罪悪感もなく何度もやってのける姿は、人一倍罪悪感の強かった幼い私には、衝撃的であった。

 

それに今まで知っている悪いことをする人は「わるもの」であった。アンパンマンならバイキンマンであるし、バイキンマンはバイキンだけれど、瀬川おんぷはかわいかった。かわいくて、ずるをしていて、うまくやっていた。わるいこなのに、「かわいかった」のだ。

 

 

その後彼女は改心していろいろあってどれみたちの仲間に入る。絆は強かったが一方で相変わらず性格はキツかった。お菓子を作る回で彼女がチョコレートをうまく刻めなかった時、「こうやってやるの、こんなの常識でしょ?」と言ったももこに対して、おんぷは「なにそのいいかた、わたし人から命令されるのきらいなの、気分悪いからかえる!」と言ってのけるのだ。

 

 

言ってみて〜!!!言ってみて~!!わかるよ、私だって命令されるの大嫌いだもん!自分がかわいいし指示されたくないもん!!でもそれは悪い子みたいだから言えない〜!!

 

そしてこれが瀬川おんぷのすごいところなのだが、これをやってもかわいい、いやむしろこれをやるからかわいい。

 

瀬川おんぷは「かわいい」である。性格が悪くても、わがままでも「かわいい」は強いのだ。

それまで、どれみ、はづき、あいこ、の3人でやっていたMAHO堂。「明るいこと」、「優しいこと」、「おもしろいこと」、しかなかった世界に、初めて「かわいい」という概念が登場したのだ。「かわいい」というのは「明るい」とか、「やさしい」と同じように生き方のひとつとして成立するのだ。

 

春風どれみがいかにみんなに愛される素敵な女の子は かは知っている、だけれど、モテるのは瀬川おんぷだった。いつだってかわいいのは瀬川おんぷだったのだ。

 

自分のためにわがままなことが出来る瀬川おんぷなのだ。

 

私は小さい頃から一番好きなのはどれみちゃん、もうひとりあげるならおんぷちゃん、といえのが定番であった。

 

しかしわたしは気がついてしまったのだ。、本当は瀬川おんぷになりたかったことを。そのことを認めた時、私は気がつくとYouTubeを見ながら泣いていた。昨日の夕方のことである。

 

本当は瀬川おんぷが心底羨ましかった。自分が逆立ちしてもなれないことが、悔しくて眩しくてずっと認めたくなかったのだ。

 

どれみが好きだった。自分に似ていると思っていた。魅力的な彼女が私の憧れだった。

でもどれみのような生き方を選んだ子は瀬川おんぷにはなれないのだ。

 

どれみがほうきにまたがって空を飛ぶ時、おんぷはほうきに横向きに腰掛けていた。

どれみが魔女に憧れている普通の女の子であった時、おんぷはアイドルで既に特別な女の子であった。

どれみは誰よりも魔女になりたいのに魔法に悪戦苦闘するが、おんぷは魔女見習い試験に飛び級で受かる天才肌だった。

どれみが魔女を目指す直接の動機は「好きな人に告白する勇気が欲しい」から、一方のおんぷはクラスの男子から絶大な人気を誇っている。

 

「かわいい」というのは、もしかしたら生き方の一つなのかもしれない。「ダサい」とか「おしゃれ」とかではなく、「おもしろい」とか「やさしい」の分野にカテゴライズされるのかもしれない。

 

「かわいい」生き方ができる瀬川おんぷが心底羨ましかった。

どれみとおんぷの違いを書き並べたが、私はもう一つだけ知っていることがある。

おんぷが「じぶんのために」魔法を使う女の子であったのに対し、どれみは「人のために」魔法を使う女の子であったことだ。

 

「かわいい」って、どれだけ自分をかわいがれるか、ということなのかもしれない、自分を大事にすること、それだってきっと大切だ。

 

だけど私は春風どれみが大好きだ。

わたしが覚えている印象的なシーンがある。不登校の女の子が教室へ向かう気分が悪くなり、吐き気を催してしまう。すると、どれみは自分の服を引っ張って、「吐きたいならここに吐いて」と言うのだ。私にはできない、と思ったし衝撃的で、嫌いなシーンであった…はずだった。しかし、この年になってもこのシーンだけ異常に覚えているのは、きっと彼女の行動が、あまりにも刺さったからなんだろう。

「だれかのために」いつも一生懸命になれる彼女の姿は人々の心に訴えかける。

 

 

「かわいく」あるためには、「出し惜しみ」をしなくちゃいけない気がする。過剰なサービス精神より、ミステリアスさとかクールさとかわがままさとか、そういうものが必要なのかもしれない。

 

だから、春風どれみの魅力はそういう「かわいさ」からはきっと遠くにある。彼女はきっとすごくやさしくてあたたかい光を人の心に灯せる、でも、それは、前述した「かわいさ」ではないんだろうな、と思う。

 

私はどちらを選ぼうか。やっぱりそれでも瀬川おんぷになりたいと願うだろうか。

わからないけれど、わたしはこれを書いているうちに、どれみのことがもっと好きになっていた。

瀬川おんぷの生き方も正しくて、なれなくて、うらやましい。

 

だけど私は誰かのために走り回って、貧乏くじを引いて「私って世界一不幸な美少女だ」が口癖の女の子が、愛おしくてたまらない。

 

だから私は今日から「自分のためのまほう」と「だれかのためのまほう」が使える女の子になるのだ。

 

きっと今日からだって、まほうつかいにはなれるはず。

 

だって彼女達が20年前、私たちにかけてくれた魔法は、今もまだこうして、解けていないから。