なんの役に立つんだろうか、と思うと何もすることが出来ない。そういう大人になってしまった。
この本を読んだらなんになるのか、この映画を見たらなんの役に立つのか、美術は、音楽は、なんのためにあるのか。
そんなことばかり考えているうちに私は楽しむことを忘れてしまった。
なんのために生きているのか、という感覚は幼稚園くらいの頃から無意識にあって、それは「私がこの世界でなんの役にたつのだ」という意味ではなくて、「この世界自体がなんのためにあるのか」という疑問だ。毎日繰り広げられる日常がなんのためにあるかがわからなかったのだ。
だからこの世界はヒトより上の誰か見て楽しむために作ってんのか?と考えるようにしてたし、そうでも考えないと気が狂いそうだったのだ。
なんでここに「ある」のかがわからない、その空虚さが夜になると襲ってきて、それが怖くて、夜になると毎晩のように泣いていた。
(おかあさん、めちゃイケの件といい、訳わからないことで泣いてすみませんでした)
それはきっと自分が何かがわからない、という不安だったんだと思う。私が幼い頃から人一倍、他人からの注目を浴びたかった理由はそこにもあると思う。
だけど私は、映画を見る理由も、美術館に行く理由も、音楽を聴く理由も、生きてる意味も、全部「たのしいから」でいいことに、ハタチにもなってやっと気がついた。
思えばちいさい頃は本を読むのが楽しくて仕方がなかった。週末に地元のちょっと大きな図書館に連れていってもらって、袋がちぎれそうなほどたくさんの本を借りても、次の日には読み終えてしまう、そんな子供だった。(まぁ、それはいつからか「明日モテるための」ファッション雑誌に姿を変えていったけれど。)
いい絵を見た時や、いい音楽を聴いた時とかに訪れる、ぞわぞわとした感覚、そういう、そういう感覚のために今を生きてる、それで十分だったんだなぁ。だってたのしいし。
「ヘルタースケルター」に「忘れられるってことは、死ぬってことでしょ」というりりこのセリフがあるが、わたしにはとても印象深かった。
だけど、自分が生きてる実感は他人に求めるものではなくて、私は私が楽しむことで生きている実感を求めればよかったんだ。
音楽も美術も文学も、そんな、人が生きてる実感に関われるなら、なんて素敵で、人間を人間たらしめているものだろう。
きっといつか、全てのことを機械がやってくれる時代がくるだろう。そしたらその時人間がするべきことは、おいしいごはんをたべて、おもしろい映画を見て、好きな音楽を聴いて、好きな人たちと楽しい時間を過ごすことだよ。
文学部に来て、よかったなあ。