続・「ねるねるねるねがねだれないからいつセックスしていいかわからない」

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 これは私が昨年書いたブログの記事だ。ねるねるねるねが食べられないというのは私の中のカルマであった。着色料が入ってそうで、体に悪そう。粉に水を入れて混ぜて食べれば、周りが汚れるし、第一食べ物で遊ぶお菓子を買うと親はいい顔をしない、と思っていた。ただ、もちろん子供ながらに好奇心はあるわけで、①の粉と②の粉を混ぜてみたい、ふわふわとふくらんだ「ねるねる」をスプーンにすくって③番の砕いたキャンディーに思いっきりまぶして食べてみたい、と思っていた。ねるねるねるねを作った記憶があるので、おそらく一度か二度くらいはドキドキしながら買ってもらったことがあったのだ思う。でも、作っているときはなぜだか罪悪感でいっぱいでほとんど楽しくなかった。今この瞬間にも、リビングの隅にある子供用の机でねるねるねるねをかき混ぜていたときの気持ちを思い出すだけで、胸がきゅっとなる。あのプラスチックのプレートの隅についている小さな三角の器に「水を入れたい」というというのがなかなか言い出せなかったのだ。

 明確に「食べてはダメ」「見てはダメ」という母親ではなかったし(ただ、極端な心配性ではあった。)、私はとても甘やかされて育ったと思うけれど、おそらくその分無意識にいい子でいなくては、というとてつもないプレッシャーの中で生きてきた。(私が「めちゃイケ」を見たことを号泣して懺悔したのはまた別の話である。)そのことに気がついたわたしはこの「ねるねるねるね」のブログの記事を皮切りに「こじらせブログ」を書き始めた。両親との関係は良好であったがその分思い悩むことも多かったこと、自己演技的に生きることが癖になり周りの人間と心を通じあわせたことがなかったこと、自分にはおそらくADHD系の発達障害の気があるのだが、そんな自分がゲテモノのように思えて恋愛も出来なければ女として失格な気がすることなど、自分の背負ってきたものをひとつひとつ荷下ろししていくように文章にしていった。その作業は非常に心地よく、それを読んだ友人たちが「面白い」と言ってくれることで周りの人間はちゃんと自分のことを理解してくれるんだ、と思えるようにもなった。

 

 しかし、私は数ヶ月後にはブログを更新しなくなった。飽きたから、という理由は否定しないが、最も大きな理由は、このまま同じようなブログを書き続けても私は変わらない、ということに気がついたからだ。本当に幸せになりたいなら自分がやってこれなかったことをぐだぐだいって共感を得るより、その全てを捨てて自分を変えれてしまえばいいのだ。もちろん「こじらせ芸」で共感を得るのは心地よかったし、そのネタで永遠に書きけられる気すらした。でも、結局どの切り口からブログを書き始めても最後には「可愛く振舞えない」「真面目で損した」「がさつで辛い」といった同じ結末にたどり着くのだ。同じ話を例え話やエピソードを変えながら書き続けるのは馬鹿らしい。正直「こじらせ芸」はそれなりに面白いし、一定のこじらせてる人々はきっと同じことの焼き直しでも、それが生産される限りその界隈で消費してくれる。わたしもそんな「こじらせ」が大好きで「こじらせ界隈」で頂点になることを目指していたこともあった。でもその外に出なくてはならないのだ。この「こじらせ村」を最初に出て、わたしが最初に幸せになって、世界はこんなにも生きやすいところだと、みんなに教えなくてはいけないのだ。

 

そうして、こじらせ村の脱出を決めた私に、恋人ができた。そこに一切の妥協はないと言い切ることができるし、私は今までの人生で最もタイプだと思う男性と付き合っている。

初めて会った時からなんとなく好きなタイプだな、と思っていた。15歳上の人だったが、だいぶ若く見えたので、年齢を知ったときは驚いた。
小柄でやんちゃそうな雰囲気が好みで、小学校の頃好きだった男の子に似ていた。

といってももちろん、一回り以上年上の彼と付き合えるなんて思ってなかったし、だからこそ「うわ〜! 同級生にいたら、好きになってるタイプです(ヘラヘラ)」みたいなことも気にせず言えていた。年下の女の子から言われて、悪い気はしないだろうと思ったし、高校生の女の子が好きな先生を推すような感覚であった。

(これは、私が自意識をこじらせ過ぎて中高6年間ファンだった人気の古典の先生を周りの友達のように推すことすらできなかった過去への反省からの言動なのだが、それはまた今度話すとしよう。)


そんな私に転機が訪れる。彼が恋人と別れたのだ。(もちろんこの件に私は一切無関係だ。)

彼は恋人をとても大事にしており、そこも含めてとても好きだった。だからそれを知った時は、純粋に胸が痛かった。

 

しかし、だ。

その時やっぱり彼が好きだと確信したのだ。

ダメな理由なんてどこにもないことにも気がついたのだ。

 

「世の中にはこんなにも私好みでよく出来た男が存在すると思うと人生捨てたもんじゃないな、私もそんな彼氏を探そう」くらいのことを思ってた人の、隣のに座れるチャンスが自分の前に回ってくるなんて思ってもみなかった。

 

不思議なことに今まで15も年上で、交際相手がいる、「から」ないと思っていた相手がいきなりフリーになると、もう年齢のハードルなど、たいしたものではないような気がしていた。

 

私は幸せになりたいのだ。

自分の気持ちに素直になり、欲しいものを手に入れられる人になりたい。

心の奥底でずっと思っていた。

年齢が上だからとか、今まで歩んできた人生が違うからとか、自分に勝手に課していたダメルールから自由になって、

今の私に与えられたこの機会に全力で取り組みたいと強く思った。

 

それから私は「自分が今までしてこなかったことをする」というのをテーマに掲げ、慣れないことをたくさんやってみた。

酔っ払った勢いで甘えてみる、とか、ラインの会話や態度で好きなのを全面に出す、とか今までの自分では考えられないような、恋愛パターン改革を行った。(今までは好きな気持ちを押し隠し突然告白。相手を困惑させる、という手法の常習犯であった。)この改革はもちろん私自身の新戦術でもあったが、実際問題、良識のある人間であれば15も下の女の子に手を出すのはリスクがあるし、一回り以上年下の女の子からのアタックを、最初からは本気にはしないだろう。

だからこそ、「弄んでいるわけではなく私は本気であなたのことが好きです!」というのを通常の5倍くらいはわかりやすく出さなくてはならないと思ったのだ。

そんな私の物分かりの良さも彼の食指をひいたのであろうし、私もまたこちらからアタックしない限り絶対に手を出そうとしない姿勢に信頼を寄せた。

毎日のようにラインが続き、一緒に食事に行くことが決まった。

それから付き合ってもう半年を過ぎた。

 

明るく意思の強い女性が好きな人もいることを知ったし、

 

アボカドをショートケーキの上に乗せる人もいたし、私をアボカドだとみなさない人がいる人も知った。(アボカドだってショートケーキに乗りたかった - 美人ブログ)

全ては3割の真実と7割の思い込みであったのだ。

  

彼氏はどんな人?と聞かれれば、身長が低いとか三枚目だとか、いくらでも説明しようがあるだろうが、

 

自分の決めたことをやり抜き、

自分の言葉で語り、

自分の感覚を信じることができる、

 

そんな人だと、ここでは答えておこう。

 

1年前の私はまさか自分に彼氏ができると思っていなかったし、それが15歳も上の人になるなんて考えもしなかった。もちろんもとから気にしぃの私が、気にしないわけがない。しかし、そんなことでチャンスを逃したくなかったのだ。結局自分の感覚を信じることしかできないし、私は今、人生で一番好みの男性と交際ができて本当に幸せなのだからきっと正解なのだろう。

 

ちなみにこの恋愛改革により、さらなる改革も起こっていた。私は2年前には母が亡くなっており、だからこそ、15も上の男性と付き合っていることに罪悪感を持たずに済んでいるという部分も大きいと思う。幸い父親は寛容なので、彼氏ができたことは話していないが、帰りが遅くても文句一つ言わないし恵まれた環境であると言える。そうは言っても、実際問題娘が15上の男と付き合ってる、さらにはもし結婚なんてすると言い出したら嫌な顔をするのではないか、と心配していた。一応私の家は「自由」であることが提唱されているが、私は無意識に「自由」の中で父親と母親の理想を選んできたので真に自由であったことはなかった。例えば私は幼い頃から変わった子供であったので「将来は日芸に行って顔を白塗りとかにして変わった演劇でもやるんじゃないの?笑」などと母に言われていたが、実際そんなことしたら嫌がるだろ、と思っていた。小学生の頃から演劇部に入っていたが、例えば私が舞台女優になるなどと言ったら心配する母親であったと思う。だからこそ舞台女優になるような人生はダメだ、夢を追いかけたりしてはいけない、という思いがずっとあった。そんな私が15歳上の彼氏と付き合いはじめたある日、父親におそるおそる尋ねた

「うちってどこまで自由なの?」

「どこまでって?」

「んー、例えば私が舞台女優になるって言ったらどうする?」

「応援する。心から。」

「えっ、そうなの。占い師になるって言ったら?」

「当たるならいいんじゃない?」

「舞台女優になってよかったの。電通とかリクルートに入らなくてもよかったの。」

「ぜんっぜんいい、ぜんぜんいいよ。そんなのよりむしろ応援する。全力で。」

私は号泣した。決して本気で舞台女優になりたいわけではなかったけど、そういう風に生きていいと言ってもらえたことで、肩の荷が完全に降りたのだ。

「知らなかった。知らなかったんですー。舞台女優になっていいって、知らなかった……ずっとダメだと思ってた。そういう生き方。」

「お前の人生だ。好きに生きろ。」

「例えば私がすごい年上の人と結婚したいって連れてきたらどうする?」

「すごい年上って?」

「15歳とか」

「15…30の時45 40の時55 全然アリでしょ」

「どこまでオッケー?」

「んー、流石に俺と同い年とかそれより上連れてきたら引くけど…20くらいまでじゃない?」

「へー、バツイチは?」

「全然アリでしょ」

「子連れだったら?」

「お前が他人の子を可愛がれると思えないけどそれでもいいならいいんじゃない。」

「私のことよく分かってるね。外人だったら?」

「のぞむところ、ケニア人でもいいよ。未開の地とか世界の果てに住んでても、一年に一回Eメールが届いて写真と楽しくやってる様子が来れば十分だ。」

「あのさ、ママに高校生の時にウエディングプランナーになりたいって言ったことがあったの。それかゼクシィの編集者。私は当時から早稲田に行くつもりだったんだけど、娘の夢を応援しようと焦ったみたいで、突然ウェディングプランナーの専門学校の資料を取り寄せて私に差し出してきたの。その様子が挙動不審で、お嫁さんの要望に答えるの大変だと思うな、とか言ってたの覚えてる。私に大学に行って欲しいのが見え見えだったし、現に私は小さい頃から難関大学に進学しないと思った日はなかったよ。私はうちが自由だっていうのは子供に対して自由な選択肢を与える親でありたいだけだと思っていた。だからずっと期待する生き方をしてきた。」

「そうか、そうだな。パパはもっとうちは自由だと思ってた。気がついてあげられなくてごめんな。少なくとも俺は本気でお前に自由に生きて欲しいと思ってる。それが伝わってなかったのなら俺の反省点だ。ごめんな。」

 

私は泣いた。ひたすら泣いた。開放であった。涙が止まらなかった。

 

「気の済むまで泣けばいいよ。涙が出るということはまだそのカルマを出し切ってないということだから、涙が出なくなるまで泣いた方がいい。」

 

と父は言った。

 

 

 

慣れないことをするというのは人生に変化をもたらすための手段として本当に効果のあることである。

私は今、大好きな恋人と付き合い、父親と腹の底から語らい、心から幸せである。

 

 

 

ちなみに、私が初めて彼の家に行った日、彼が、

 

「俺も好きなように生きるから、お前も好きなように生きろ。お前の人生だ。」

と言ったのはまた別の話。

 

 

 

娘は父に似た男を好きになるという。