美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

今日の美人ちゃん「自意識と創作と」

 ええそうです。タイトルでわかるように、糸井重里さんの「今日のダーリン」のオマージュですね。

 

このところ(というかずっと)、ヘビーな記事を書くことを目的としていたこのブログでは、筆をとってはやめ、筆をとってはやめ、ということが繰り返し行われてきました。下書き欄にはブログになりかけた記事かふわりふわりと蓄積されてゆきます。

 

このまま、日の目を浴びることなく、私はいつかライターになるだの、エッセイストになるだのいいながら、書きかけの文章たちとともに一生を終えてくのではないかと思うと恐ろしくなりました。

 

中学の頃、教科書で読んだ山月記の李徴に、ただならぬ感情を覚えたのは、わたしの持って生まれた性格のゆえでしょうか。

 

「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉に冷や汗をかいたのを忘れません。

 

思えば、幼い頃からプライドの高さや、自分への期待値の高さを、自覚していました。

 

ものをつくることが好きでしたが、自らの未熟さ故に、自分の思った通りの形に作れない自分に常に苛立ちを覚えていました。その苛立ちは、時に私の実力を伸ばすエネルギーにもなりましたが、一方で私の芽をぶちぶちと引き抜いてきました。

 

私の性格を表すエピソードとして、小学2年生の時の国語の授業で物語を創作した時のことが挙げられます。

 

私は小学校に上がる前、絵を描くのが好きな子供でした。物語を作るのも好きな子供でした。絵本を描いたり、別府に住んでいるおばあちゃんと電話をしながら「つくりばなし」を披露したりしていました。

 

だから、国語の授業で「本をつくろう」という単元に入った時、私はできるに決まっていると思って、わくわくしていました。そうですね、それはちょうど、音読の時間に自分がすらすらと感情を込めて読みたいので、文章の中の「。」を数えて、あと何人でどの文が自分に回ってくるかを必死で数えてた時のような感じですね。なるべく長い文や「」カギカッコのセリフの文があたって「おいしい」ところを読みたいと思っていました。そういう目立ちたがりというか、自意識が強い子でした。

 

「本を作ろう」の話に戻ります。私は、張り切って画用紙を前にしました。すると、何を書いていいのかが全くわからない。どんな物語が「正解」かがわからないのです。何が喜ばれるのか、何をしたら褒められるのか。それがわからなくて、私は真っ白になってしまいました。結局二人の女の子(ドレスをきている)が冒険に行くというお茶を濁した面白くもクソもない作品を作りました。魔法の水とか飲んだりするんですけど。とにかく「かわいい」「女の子らしい」みたいな作品を書きました。それが理想の作品ではないことはわかっていたのですが、授業ですので、それなりに完成をさせました。

 

その後、クラス全員の本を学級文庫に置くことになりました。私は当時仲良しだったミエちゃんの本を読むことにしました。ミエちゃんは、お兄ちゃんがいて、「ちゃお」や「なかよし」よりも「コロコロコミック」が好きな女の子でした。帰り道が同じで、集団下校の時に、しりとりをしていたら「し」のところで「しんのすけ」と答えたミエちゃんのことがわたしはなんとなく好きでした。

 

ミエちゃんの絵本は、ひこうきくんが出てくる話でした。内容は忘れてしまったのですが、黄色い画用紙の表紙に、光り輝く飛行機の先頭(顔がついている)がゆる〜いタッチで描かれていたのを今でも覚えています。彼女の作品には才能がありました。面白かったのです。それに比べて自分の「あざとい」作品が陳腐に思えました。

 

ミエちゃんも私の本を読もうとしていました。私はそれが嫌で、取り返したくなりました。ミエちゃんが本を開く前に、私が引っ張って、喧嘩になりました。ミエちゃんと言い合いになったのは、後にも先にもこれだけだったと記憶しています。絶対に見ないでと泣きながら喚いた私を見かねた先生が、私に本を持って帰るように言いました。40人のクラスで、本を学級文庫に置かなかったのは私だけでした。

 

それほどまでにプライドが高い私は、なににしても「恥」がつきまといました。

 

毎日ブログを更新したいのに、完成系を書くには何時間もかかるので、継続できない。ライトなものは更新したくない。そんな日々を重ねていくうちに、埋もれてゆく。

 

そこで、「毎日書く」という日課を作ることにしました。わたしが書けない原因はわかっています。自分に対する「期待値の高さ」なのです。

 

それを払拭するためには、未完成でも発表する、ということが大切なのだろうと思います。もっと小さい頃、私は未完成のものをたくさん作っていました。

 

初めて針と糸を持った時のガラクタのようなマスコットたち。アップリケを縫いつけられず、接着剤でバリバリに貼ったポーチ、少しずれてるけど初めてつけられたファスナー。もっと昔なら、不織布をテープで止めたバッグ、ゴミ袋で作った服。描くこと自体が楽しかった絵。

 

そういうものの一つ一つが今作るもっと素敵な服とかに集約されていて、それは未完成のものが、積み重なった先にあると思うのです。もっといえば、それらのものは未完成だったのか、という話にもつながります。

 

たしかに、あの時幼少の私が、もっと集中していればより良い作品を一個、つくれたかもしれません。でも、あの時の私は、思い描いたことを形にするというそれ自体が楽しくて、四六時中何かを作っていたのです。質より量、量を作ることが楽しい、そういうのもまた否定されるべきではないのかな、と思います。

 

私はブログを書いてほめられるのが嬉しいです。才能があるような気もしてきますし、特別な気持ちになります。考えていることを理解されているような気にもなって幸せになります。

 

しかしその原動力は、今日の記事は面白くないと言われたらどうしよう。今日の記事は前回より良いのかな。とかそんな考えを生んで、結局自分を創作から遠ざけるわけです。

更新通知をツイッターにあげて、RTが伸びるのを凝視したりさ。結局追い詰められて何も書けなくなるという。

 

そのうちどこかでコツコツ書いてた知り合いとかが、新人賞でポッと小説家デビューとかしちゃって私は悔しくて発狂して虎になっちまうみたいなことがわかってるんです。わかってるんですよ心の中では。

 

長々と話してしまったけど、私は糸井さんのすごいとところは「今日のダーリン」を「毎日」更新してることだと思う。「ほぼ日刊」と言いつつもう20年も(!)1日も休まず更新しているそうです。すごいよね。

 

だから今日のダーリンの中には、これはいいぞ、絶対覚えておきたい!と思う日もあれば、これは微妙だな、と思う日もあって。でもそれは、私にとってそうなだけで、別の人には違うかもしれない。

 

このブログの中にも、ちょっとだけ他の記事とは毛色の違う記事があって。

アクセスも伸びていないし自分でも気に入ってなかったのだけど、Twitterの質問箱で、ある日、この記事が好きです。と言ってくれる人がいて、そうか、そんなものか。と思ったりもした。

 

だから書くこと自体に意味があるのだと思う。つづけることって大変だけど、だからこそ意味があるんだな。つづけるとボロが見えるし未完成な部分も見える。だけどそれはそれでいいじゃないか。もっと自意識の向こう側に行きたいな。

 

 

そうそう、その後ミエちゃんから小四の誕生日に、手描きのお米のマンガをもらったけど、あいつ、ほんと面白いよな。悔しくなっちゃうくらい。