美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

アクキーになるなや

マジで我慢してたんだけど、書きたい、書く。

 

2年くらい前に志磨遼平が購入特典でアクキーになってから、ちょっとずつ聞かなくなった。

 

手のひらの中におさまるなや、と思ってしまって、アクキー、マジか、と思っているうちに年月が経った。マジで自分の心の内側に留めておきたかったが、この前耐えきれずに、志磨遼平好きの友達とLINEしたときにモヤつきを共有してしまった。共有すると現実になりすぎて悲しい。

 

ここ最近はがっつりアクスタになっているようだった。なんか、ちゃうやん、と思うのだ。

 

アクリル板に存在をコピーされて、ファンの欲望の対象として消費されるのは、違う気がする。いや、ライブで客席にダイブした後「離せゴラ」と言ってたアンビバレンツな感じはどこいったつってんの。

 

尖り続けるのも大変だとは思うけど、それなら、ダサいことすんなつってんの、楽するなつってんの。別に売らなきゃいいじゃん、「最高以外は最低なんだ」とか歌っておいてクソダサい。

 

私たちの世界に、都合よく欲望を投影できるアクリル板に印刷された志磨遼平がいるんじゃなくて、志磨遼平が現実を突き破る世界に私たちが連れてってもらってたのに。主従ちゃんとしてないと嫌すぎ。アーティストの世界観至上主義がいい。

 

いやー「口紅から機関車まであいつと僕が手に入れる」って歌ってたけど、アクキーは、いらんよ。手に入れる側でしょうが、こちらの手に入ってどうするんですか?

 

アイドルじゃないんだから、概念になって拝まれるなよ。拒否しろ、拒否!

 

マジで思っちゃいけないかと思ったんだけど、耐えがたすぎる。ていうかだいたい、本当にアクキーもアクスタも売りたくて売ってるわけじゃないじゃん、流行ってるからとか収益が必要だからとかでしょ?舐められてんだよなー。

 

舐めないでください。マジで志磨遼平のアクスタもアクキーもいらねーーーーーー。

これで、「本当に素敵!志磨遼平が出したものはなんでも好き🫶」というのは、それはそれで志磨遼平好きじゃない気もするし、解釈違いというのもなんかよくないらしいし。

 

でも、まーーーーじで、アクスタとかアクキーになるロックスターってくっそダセェなと思っている。私がくっそダセェなと思っていることは思ってることなんだよ。

 

友達が、それはそれとしてダサいものをダサいって言わないと、それが集まってきちゃうってこの前言ってたけどさ。まじで、アーティストとしての好きな男(自我あり)のアクスタもアクキーも全力拒否。

 

概念になって喜ばせようと思うな。手のひらに収まるな、私の机にいるな。

 

数年前に、ライブ会場でTシャツ買ったら、『毛皮のマリーズ』時代の楽曲をリリースしてた自主?レーベルのJESUS RECORDSの袋に入れてくれたのが嬉しかった。自主レーベルの!袋!志磨遼平の国だったのに。

 

志磨遼平のライブT、私は、自分がちょっと緊張することやる時とか、やったことないことやる時に、お守りみたいに、後生大事に着てた。

 

人間だからしょうがないとか、盲信するなとかじゃねーの。美学語っといて手抜きすんなつってんの。ファンも自分も舐めプするなつってんの。まじでか?

 

自分の本心書くとめちゃくちゃ逆に気が引き締まるな。なんか、優しさとか責めちゃいけないことにして、私もいろんなこと手抜きしてたんだろうな。

 

ダサいかダサくないかってめっちゃ大事かもしれん。自分にとってのイケてるって何なのか、考えなきゃな。

関係性は言葉にしない方が美しい

弱い立場の人が、吹っかけてくる会話の約束ごとみたいなのが、すごく気持ちが悪いことに気がついた。私もするけど。弱さって変な引力を持っていて、かわいそうであることって、甘えたとかとはまた違って、その人なりの戦略とか強さだったりするんだと思う。

 

弱いのがダメなんじゃない、人を嫌ったり非難したいんじゃない、ただ、弱さの仮面を被った支配的な約束ごとや、ずるさが憎たらしいのだ。「粋ではない」と言って私が怒るとき、たぶんめちゃくちゃいやなんだと思う。粋ではないということは、私にとっては何かしらがピンときていないということだ。

この本には、会話は「約束ごと」の確認作業であると書いてある。

 

私は「親友」と言われると、興醒めして距離をめちゃくちゃ空ける、というところがある。何でだろう、私が好きだ、結果的に一緒にいる、と思う相手とは往々にして、「親友」という言葉を使わずにコミュニケーションしている。

 

私が「ちょっと惜しいな」と思う人たちに限って「親友」という言葉を使ってくるのはなぜなんだろう。陳腐だ。もっともっと私の深いところまで知ってる友人だっているのに!私はそういう相手を「親友」とよんだりはしない。なんで「親友」だと言い切れるの?みたいな人の方がよっぽど言ってくる。

 

たぶんね、言ってしまうことへの畏れがある方が、本当なんだと思う。言葉にすることへの畏れが、私は愛だと思う。結局のところ誰かに紹介するための言葉って、本物じゃないんだろうな、という気持ちがある。言ってしまうのが、怖くなってしまうものが、本物で、本物はあまり多くの人には見えないし、わかりやすくもない。そういうものに身を任せることへの、豊かさを私は、ちゃんと持っていたいと思う。人との関係性はエピソードと一緒に過ごした時間と、動いた感情であって、それらは他人に説明するためのものではないのだ。だから、何かしら相手に対して特別だというものを腹の底に信頼のようなものを抱えながらお互い何も言わないという関係性の方がとても、現実に近い気がする。その色気を破って、強引に何かしらの約束ごとを取り付けようとするのは、信頼性を失うことだと私は思うのだった。私も時々やっちゃうけど。

 

小学校が同じだった友人に、地元のサイゼリヤで「心療内科の先生に、地元の親友がいるから支えてくれて、幸せと言ってるんだ。」と言われた時に、ヴッ、という気持ちと、不思議な優越感が宿った。これは、呪いの言葉だ。気持ち良さと引き換えに、呪いを引き受けるのだ。だからね、ダメなんだよ。そういうのって素敵じゃない。そんな言葉では私は縛れない。友達だけど、幼馴染だけど、親友じゃない。

 

心の中にいろんな感情や思い出があって、それらはあえて言葉にまとめて関係性に名前をつけたくないのだ。それ、そのものとしてとらえるべきなのだ。言葉のまわりには、まとめきれない、すくいきれない、さまざまなものが宿っている。

 

中学の頃、国語の授業で、「名前のついていないものは存在するか」という議題で議論になった時、私は名前がついてないものも存在する側に立ったけど、その先生がその時教室で決めた答えは「名前がついていないものは存在していない」ということだった。

 

それならば、いっそ、死ぬまで言葉にせずに、漂っている何かは漂っている何かのまま、確信している腹の底の愛情は腹の底の愛情のまま死んでいった方がオシャレじゃないかと思う。『うる星やつら』のラストで「いまわの際に言ってやる」と諸星あたるが言うのは、やはり美しいのだと思う。関係性を約束事にしてはいけない、それは結果なんだと思う。私は最近自分の本心に愚直に生きることにして、無粋なものから距離を置いて、自分のなかのここは守りたいというところをちゃんとやっていこうと思っている。

 

私のことを親友と言ってくれたことがある人には申し訳ないけれど──まぁ、私が思うほどの意味では言っていないのだろうし申し訳なく思う必要もないのだが──私は関係性の中にある美しさを死ぬまで守りたいなと思う。それが世間から見たらどんなに面倒くさくても。心の内側の腑に落ち感を私は守りたいと思うのだった。言葉にしてしまう前に、人生が終わっていく。

自分の感性を研ぎ澄ませることは幸福に直結

 

又吉のYouTube動画を見ていたら、「人間は本質が変わらないんじゃないか」と言っていて面白かった。(まじでサムネとコピーが自己啓発的で、ダサいので、忌避したくなるが、又吉のトークの内容の質がいい)

youtu.be

 

又吉が小説の題材を探しに渋谷を歩いていた際、雰囲気が良くてピンとくる店があったそうだ。店内に入ると、ブラジル音楽が流れており、又吉はその曲がもとから大好きだったので、店員に「いい曲ですね」と話しかけた。店主も自分が一番気に入っているのはこういう曲なのだ、と喜んだ。話し込んでいるうちに、店主が、又吉が中学生の頃よく通っていた大阪の寝屋川のTSUTAYAで、当時働いていたことが判明する。特に、キュレーションとしての棚作りに創意工夫を凝らしていたそうで、又吉はその棚から渋谷系の音楽を知ったり、現在でも又吉が大好きなアーティストたちを知った。又吉の趣味趣向が決まるきっかけになったのだ。そこから何十年も時を経て、大阪寝屋川のTSUTAYAの棚と東京渋谷の店がつながる夜が、この世にはあるのだ。


その、元TSUTAYAの店員は、真摯に棚作りをしていたのだろうし、店をつくる時は自分の感性を大事に作ったし、自分が好きだと思う音楽を流していた。かつてその人が作った棚の音楽を聞いて育んだ又吉の中の感性がその店の佇まいに反応したのだ。そして店内で流れているブラジル音楽が趣味にあった。

 

奇跡って結構溢れてるんだよな。又吉は自分の感受性や好きなものに対して絶対的な自信を持って暮らしていたし、店主もまた然りなのだ。

 

シンクロニシティというか、この世界って、そうやってできてると思うのだ。神様のマッチングみたいなものがある。出会う人とは何度だって出会う。自分の感性に愚直であれば、その人に近いところにいけるのだ。自分が、自分の魂のあるべき形になっていくと、自然と”合う人”たちとの縁が浮き彫りになるのだ。

 

又吉、太宰読みすぎてたまたま借りた家が太宰の住所の場所だったという出来事もあり、基本的に、なんか偶然性が強くて怖い。自分の感性に近い物語を何度も反芻したり、音楽を反芻したりすると、それ以上のものが自分の中に滲み出てきたり、するのだろうか。

 

脚本家の中園ミホは、まだ脚本家になる前、有名脚本家に恋をしてしまい、ストーカーと化すもフラれ、国立国会図書館にお弁当を持って通い詰めてその脚本家の文章をずっと写経し続けていたら気がついたら自分も脚本家になっていたのだという。私たちが中園ミホ脚本のドラマを見るとき、その中にはかつての中園ミホが愛した人間とその狂気が浸み出している。この世に影響を与えているのだ。怖すぎる。これはなんか、偶然性の話とはちょっと違うか。でもまぁ、ねんりきってあるから。

 

私もいつか作詞家の安井かずみが暮らした川口アパートメントの同じ部屋に住みたいと思っている。叶う気がする。

結局のところ、人は感受性で繋がっているのではないかと思うことが多くあるのだ。むき出しのまま自分でいることが、感性を研ぎ澄ませることが、会いたい人にだけ会うための魔法のようなものなら、私はそれを怠りたくないと思う。まっすぐと、ただ自分が美しいと思うものに、素直でありたい。それがメジャーであってもなくても関係ない。私の中のメジャーはずっと昔から変わっていない。


自分に実直であると、必ず会いたい人のところに連れて行ってもらえる。

中高の時に好きだった古典の先生と、YUKIのコンサートで偶然会ったりとか。
何度も別の形で、さまざまな縁で出逢いなおしているイラストレーターの友人とか。
中1の頃人生で初めて、まだ1人だけしか覚えていない声優のお子さんが、同じ部活の先輩としていらっしゃったり。(親御さん声優って言われて1/1ってなかなかないよね。我ながら怖すぎる。サイン持ってる。)

 

あと、直近の奇跡の話をするね。自分もまだ高校生の頃、高校演劇の全国大会を見に行った際、ある学校の劇で主演をしていた女子学生の姿が忘れられなかった。印象に残る声で、惹きつけられて、再演の際は見に行った。でも、それっきり。先日、昔同じ学習塾で働いていた先輩から数年ぶりに連絡が来た。見に行った演劇の中で使われた曲があり、その曲を検索したらその曲をテーマにしたコラムが出てきて(私が書いた音楽のコラムの中で一番伸びてる)、そのコラムを書いてたのが私だった、ということで久々に連絡をくれたのだという。話を聞いてみると、女優と友達だったといい、その女優が、偶然私が高校の時にお熱だったその女子生徒だった、という結末につながる。一番好きな曲を、一番素直な言葉で書いておくと、ずっと忘れられなかった人に繋がることがあるのだと思う。

 

ていうか、特技がラブレターなので…志磨遼平にもファンになってすぐラジオで長いお便り文章読んでもらったしな〜〜♪♪

結局感性みたいな世界で人はある程度ぐるっとまとまるようになっているのではないだろうか。この前もそれぞれ全然別のコミュニティの友人たちが、同じ撮影に携わっているって連絡来たりしてたし。

 

忖度なしで、好きな人を好きといい、好きなものを好きと言って、感受性を鋭敏にしていた方が、自分にとってぴったりのものが授けられるんじゃないいかと思う。感性爆発させておきたい。自分のスタイルを持っておきたい。

私が全力を出して起こる結果は全て最善で誰も傷つかない

地元の飲食店に居場所がありすぎる。

 

以前ちょっとだけ働いていたんだけど、最近はネットとSNS周りの手伝いをしており、お小遣いをもらったり、賄い扱いでご飯が食べられたりする。今日も行ってきて、ちゃっかりビール2杯と、その上、ビールサーバーの洗浄前に出るコップ半分ぐらいのビールももろた。大好きななまこ酢も食べたし、常連さんがなぜか「参加型」と称して働くことがあり、手羽先の下処理をしていたらしい。その常連さんの隣で、手羽先の余った部位をカリカリと食べた。私このお客さん好きなんだよなー。

 

あと、ナス揚げたやつ食べた。ナスって美味しいから。

 

大谷と水原のニュースをインターネットの外で人と話すとなんか落ち着く。「身近な人に裏切られるなんて怖いよなぁ」と誰かが言い、「そうそう、今朝から私はそのことをインターネットではなく生身の他者と分かち合いたかったのだよ」という気持ちになった。これぞ、よさ。

 

私ががっつりカウンターで働いてた当時は、私とは全然バックグラウンドの違うバイトの女の子が常駐していた。多分病んでる女の子で、異常に厚い化粧と顔じゅうにあいたピアス、10センチはあろうかというヒールで働いていて、男運も悪く(警察沙汰になってた)、不穏な空気を出していた。私が他のお客さんに好かれたり、ママさんに好かれると、洗い物の音がデカくなった。私は人を傷つけたと思ってめっちゃショックを受けた。でもまあそんなこともあるよな、と今になって、だんだんわかってきた。

 

自分は商業高校でパソコンが使えると言っていた彼女が作ったメニューのフォントがポップ体でできてて、うーん、と思った。こういうものに出会うのは、正直私は初めてだったのだ。人って、出版サークルに入って、PhotoshopIllustratorを操ると思ってた。そういう人がこの世にはおり、私はそれほどはパソコンができない。

 

でも、メニューを作り変えることはできる。ママさんと相談して、一緒に値上げをして新しいメニューを作る。日本酒の銘柄のいわれになった和歌を調べて記載したりとか、数ヶ月カウンターに立った中で、「あ、手が込んでるな」と特に思ったメニューには、そのポイントを一言添える。頑張っている人の頑張ってることを書くのは得意。地元のおじさんに送信すると、地元のおじさんが地元の職場のプリンターでプリントしてくれて店に届くというハイパーローカル助け合いによってメニューができる。

 

でも、私のメニューの方が素敵だから仕方がない。そういうことで人を傷つけたんじゃないかとモゾモゾして喚かないことにした。この世の世知辛さが受け入れられなかったのだが、その、前のメニュー作った子は私より器用なところがあるし、人は適材適所なのだ。なんというか、ペーパーテストってやっぱなー、誰かを傷つけたという加害性がスポーツとかに比べて弱いから気が楽なんだよ。インドアで…。

 

店で見た豆あじの南蛮漬けとかすぐ家で作ってみるから、報告したら喜ばれるし。

 

 

しかもこの記事、今週のはてなに、選ばれたし、ラッキー。

 

なんか私がカウンター去ってからその子も辞めたらしい。事務職に転職したと聞くし、顔のピアスも外したようだ。もしかしたらその方が彼女にとってよかったのかもしれない。それがどんなきっかけになるかなんてわからないのだ。もしかしたら彼女の人生にとって良い展開になっていたかもしれないし、自分が力を発揮したことで、勝手に人を傷つけたと思う方が私の傲慢なんだろう。全てはなるようにしかならない! 私は、頑張っている人の美味しいポイントがより伝わるように品のいいメニューを作りたかったのだから、何も悪びれることはない。自分がしたかった善意以外のことを考えて発狂するのはやめよう。彼女の方が私よりできることは圧倒的にあった。まあでも愛され度は私のがあるな。彼女偏食だけど、私の方がご飯好きだもん。食いしん坊万歳!そうそう、あまりに苦しそうなブログばっか書いちゃうから、意を決して最近Oisix注文してみたら、他者の怖料理を食べさせられた恨みが減って、完全に傷がいえた。濃いめの牛乳ゴクゴク飲みながら、よつ葉バターを、極上食パンに塗り付けて全てを赦した。

 

話がそれた。最近入ったという従業員の子はなんだかすごくしっかりした公務員志望の女の子らしく、店から不穏な空気が減っていた。

 

私はその後も店と、縁が続いており(メニューもカウンター立つのやめてからつくった、基本的に不器用なのでこっちのが向いてる)、ママさんにも超良くしてもらっている。カウンターに一緒に立ってる時は「地主の嫁になりたいわねー!」とか言われて(仮にもフェ、フェミニズムを学んだこの私に!?なんだこの環境耐え難い!?)などと仰け反ったが、いい感じに役割が違えば素敵な関係性がうまれる。

 

私がカウンターに立ってた頃は、ママさんはマジで自分に鞭打って働きまくってたので、すごい勢いで病気になっており、「労りの係」として私は労わっていた。最近は身体に無理をせず休むことにしたようだった。心なしか穏やかに見える。

 

以前は「貧乏だから!うち!店開け続けなくてはいけないの!」と言いまくっていた。私は、(あー、言霊からダメになるぞー)と思った。男の客にすぐ「私なんかでよければ」的な自分を低める言葉を言う。私は、自分の運気を守るため、この店の運気を上げるため、(ロケット団の口上みたいだな)、孤軍奮闘していた。

 

ほぼ合いの手のように「ご飯美味しいです!絶対うまくいくしかない!ゆっくり休んでください!」「いえ、ママさんは一級品なのでそんなことは絶対に言わないでください」と、運気のコールアンドレスポンスを繰り返していた。

 

だんだんと店の空気が良くなったのか、私がカウンターには立たなくなってしばらくしたあと、お客さんたちが集めた本を置いた本棚ができていた。インターネットに疎い地元の人たち逆にめちゃくちゃ本読むらしく、ラインナップがかなりいい。ビジネス本がなくてめちゃくちゃいいんだよな。

 

私は、良くされすぎると申し訳ないのでだんだん足が向かなくなったが、連絡をいただいて伺うたび賄い扱いになる。食レポが上手いため…。あと料理をするのでひとつ一つの手間ポイントがわかる。贈与される人って、贈与のポイントがわかるんだよ。あと、よく食べるから。

 

かくして、地元の飲食店で好かれている。

ほくほく。やーやっぱ愛されちゃうなー。

利己と利他ってめぐってるなー。

 

あと、お店だから当たり前とはいえ、ご飯美味しいんだよな、この店。昨日のブログの答えじゃないけど、ご飯食べてる間に愛しちゃったのかもしれない。ご飯食べてた相手に裏切られちゃったらどうしよう!と思うけど、でもその時美味しかったら割りかしOKかもな。許すと決めたら全部許す以外無かったりすんだよなー。

 

相思相愛

相思相愛

 

愛してるから食べるのか、食べるから愛してるのか

人の手料理が好きなはずなのに、食べられない時がある、信頼してるから食べるのか、食べるから信頼してるのか、どっちなんだろうなー。他者に対する警戒心が強すぎる。

 

料理、上手下手じゃないんだよな。以前、めちゃくちゃ不器用な人が1時間近く台所に篭りきりで桃クリームチーズを作っていた時があり、私とその人の共通の知人に教えてもらったという一旦お湯につけて桃を剥く、という工程を挟むことによって、さらに遅れていた。

 

 

でも、ちゃんと待ってたら出来上がった。なんだかな、楽しかったんだよな。これだけ時間かけて一生懸命作ってくれたものを一緒に食べられてうれしい。上手い下手ではない。誠実だからだ。

 

でも本当にそれって「頑張った」かどうかなんだろうか。誠実かどうかだろうか。もしかしたら、すでに決まっているのでは?食べる前から多分その桃クリームチーズが美味しいこと決まってたんだと思う。その人が好きだから。

 

他者の受けいれの話をしている時に、よく思い出すのが以下のインタビューだ。

 

 

孫正義育英財団の1期生で、アーティスト兼キュレーターとして活動する丹原健翔の記事だ。

 

最初は人が入ったお風呂のお湯を茶室のような空間にもってきてお互いに飲みあうようなパフォーマンスを行いました。信用していない人のお湯って、飲めない人が多いんですよ。口に含んでも飲み込めなかったり、あるいは初対面なのに飲めると受け入れてもらえた感覚が生まれて泣き出したりする。

 

──『BE AMATEUR FOR THE FUTURE OF ART異色のキュレーター・丹原健翔は多彩な「アマチュア」として美術史を更新する』2022.01.25 (2024.03.21閲覧)

 

それな。難しいよなー。これ読んだ当時、私は結構他者の浸かったお湯くらいなら飲めると思っていたんだけど、これは「受け入れられないことが原因で事件が起きるくらいなら、無敵の人になられると困るので、まあ私がお湯飲むくらいなら…私も死なないし…」という気持ちだったな。やっぱり、「お鎮まりください」って愛じゃないんだよ。辛いことはできないな。ちょっと自分が持ってる側であることをわかってて「パンとサーカス」みたいな気持ちはあったな。大衆がちょっと怖くて、大衆をちょっと信頼している。

 

丹原は、血液飲むイベントとかやってるけど、血液は病気とかもらって取り返しがつかなくなるから私の全倫理がびっくりしてるけど、とんでもないことになっている。

 

もっと純度の高い儀式をつくりたくて、いろいろやりましたね。他人の血液をグラスで飲むパフォーマンスを行ったときは大変でした。人間は鉄分をうまく消化できないので血を飲むとお腹を壊しやすいし、ぼくのときは熱も出てしまって。でも他人を受け入れる覚悟ってそれくらい重たいものだよな、と。

──同記事

 

やっぱ宗教と壮大なおためごかしの中にある、倫理か?最後ってやっぱ言葉なんだよな。言葉って便利。竹内涼真が、配信で無数の「抱いてー!」ってコメントに、「抱く、抱く、全員抱く!」って言ってる動画を見たとき、宗教のはじまりを感じたけど、個人ができる限界って、あれだな。(あれか?) その後、竹内涼真が写真集でタオル巻かれてそれなりの受け身セクシーショットを撮られてる時に「いや、全員抱く気概はどこに行ったよ」と、思ったりした。難しい。

 

人を受け入れるって重いことなんだよな。中学の頃入学してすぐ行かされた合宿で、近くの人と2人1組になって、相手が力を抜いて倒れるのを受け止めなければいけないというワークショップがあり本当に嫌だった。先日そのことをふと思い出し友達と喋った。自分の身体をまだよく知らない同級生に投げ出して「はい!信頼できる相手ですね!」って学校の合宿でやるの、宗教儀式っぽくて怖くない?、とおもっている。相手が支えてくれなかったり、失敗して、怪我や障害を負ったら誰が責任取ってくれるの?と思うし、最悪支えられなくて、自分が何かしらの痛手を負ったとしても後悔がない、というくらいじゃないと、私は嫌なのだ。

 

「なんかさ、エロ漫画の広告にある、これからクラスの男女をペアにしてこれから保健の実習でセックスしてもらいます。みたいな、狂気がある。」と言ったところ、

友達が爆笑しており、「ハレンチすぎる気がしてきた」と言っていて、ウケた。

 

そうだよ、倒れ込むのですら、私は私の意思で決めたいから、全体で命じられたくない。もちろん倒れてきたものは、私は支えるけど。

 

でも、怖かった。多分12歳くらいの手の感覚がまだあって、相手は思いの外重くて。手にずっしりと他人の身体の重みが乗っかって、少し滑る。不器用だし、正直失敗したら、落としたかもしれない。全然やりたくない。

 

多分、信頼性の核心って、この数日言ってる「思いがけず」なんだと思う。目の前の人が倒れてきたら咄嗟に手が出る。でも、それを試すためにお互い倒れ合うというのはなんか逆に変だ。

 

あれだな、互いに向き合って「私はあなたを大切な人として扱います。」と言い合って対話するとかがいいな。

 

なんか、倒れて支えて、はい信頼ハッピー!って野蛮な気がするんだよな。ムカつく。そんなことで信頼が手に入ったと思うなよクソが。統制しやすいようにしただけじゃねーか。という気持ちがある。信頼ってそんな安いものじゃないんだよなー。「愛は行動」という言葉があるけど、行動するから愛なの?愛するから行動できるんだろうか。どちらにせよ、そこに意志が介在する余地ってあるのだろうか。

自然とそうなってしまう、ということはあるから。

 

ほかにはたくさんの人の尿を集めてバーという形で販売したこともありました。牛乳と一緒で尿も煮沸消毒すれば飲めるし、尿って人それぞれ味も舌触りも違うんですよ。農家の人の顔写真が添えられた野菜のように“生産者”がわかるようにして売っていたら、結局かわいい子やイケメンの尿ばかり売れていって、それも信用を考えるうえでは面白かったですね。乳牛が牛乳を生産し存在意義があるように、我々も一人ひとり生きているだけで存在意義がある世界があればいいようにって思って。

──同記事

 

個人の存在に意義があることを証明しようとしたら、かわいい子とイケメンの尿が売れるらしい。元も子もない。どうなんだろう、尿に創意工夫の余地が出たら変わるかな。顔は良くないけど、「いつもローズウォーターばっか飲んでます!」みたいな人が爆売れとかするのかな。逆に年齢を重ねた人の方がコク深いとか尿で勝負していく人もいるかもしれない。

 

でもそもそも、受け容れようと思って受容れるのって違うんだよな。

 

 

 

 

 

多分、受け入れよう、と思って飲む風呂の残り湯も、尿も違うんだろうな。人に対して分け隔てなく接することができる時って往々にして自分の調子が良い時なんだよな。シャンパンタワーみたいに。傲慢さだな。

 

クリームチーズが美しかったのは、その人が好きだったからかなあ。つくってくれたものが、誠実でやさしかったからかなぁ。鶏が先か卵が先かなんだよな。

 

とりあえず自分の心が豊かで、他者に感謝が湧く状態じゃないと、自然な形で受け容れられるものが減るんだよな。別に、究極尿は飲めないんですが、そこにはいてくだい、という状況くらいならなんとかなるからな。ライブのペンライトとかって、そういうものの反映でもあるからな。

 

なんとなく自分のスピリットが決めたことなので、それに従った方がいいなー。

 

耳にする言葉も食べるものも、触れ合いからも人は影響受けるから。

 

海外とか行って、ふれあいカルチャーだと、私困るかな。そういう場所に行ったら行ったで気にならなそうだけど。

 

好きな人の作った好きなもの以外たべないっぴ!そのことが相手を喜ばせる場合もあると思うし。素直に美味しい、食べたいと思う範囲で生きていくしかない。

んー!!極上!!!

 

極上!と思える日がある!こういう日のために私はカウンターに立っていると思う。

 

今夜はすごくいい日だった。最近自分が嫌だと思うことに嫌だと言って、欲しいものに欲しいと言うようにしてから、流れがめっちゃ変わるんだよな。本当にしたい話が人とできる。幸せだ。ごっくじょう!文面も安定しているね。

 

幸せってこういうことを言う!こんな感じで生きていきたい!しかもお金もいただけるし。いいのか?なんというかお互いにありがとうございましたという感じで。しあわせだ。

 

お客様の数は2人だったけど、前半サシ、後半サシで、全て私の思い通りか?と思う。

 

お客様のことあけすけに書くのもあれだが、一応エピソードとして書いていいと許可はもらったので、書いておきたい。

 

ひとりめのお客様は、もともと来店予定だったそうだが、ずっと親しかった方の訃報を受けて、気落ちしている中来てくださった。

そんな話から始まっていろんな話をした。人生は死ぬまでの暇つぶしなんだよね、と話していて、趣味だという花の写真を紹介してくれた。散歩先で一輪の花の名前が気になりそれを調べた瞬間、それが、自分の家の周りに十何年も咲き続けていることに気がついたこと。それ以来草花の名前を知りたいと思ったこと。自分の見ていた世界が変わったことを話してくれた。

特に面白いのはカラスウリの花は真夜中にしか咲かないのだという話。すごく繊細で綺麗だ。蛾を寄せ付けて、受粉するんだって。

 

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不思議だ。朝には萎んでしまうんだって。

 

その人は本を読むのが好きなんだけどいちいち買って、本が溜まると売るというのが煩わしくなり最近は図書館に行っているらしい。お金がかかってないと思うと本を読むことにもっと親しめるようになっていたと言っていて面白いなと思った。それから映画も好きらしくて、今度『オッペンハイマー』を見にいくと言っていた。その人は戦時中に実際に使われた兵器や特攻隊の歴史などを資料館に見に行ったりしていて、戦争の傷跡をリアルに感じることが多いのだという。

 

私は最近いろんな人と会うと、自分の考えてきたことが通じず、人々はもはや陰謀論に侵されて、戦争をおっ始めたいと思っており、国防と戦闘の区別がつかずそのまま世は暴力に飲み込まれらるかもしれない、くらい極端に思って、ワーとなっていたが大変元気をいただいた。痛みを見よう。この世の知性は敗北したか──そんなわけはない──と思われたがそんなことがなくてよかった。(よかった)完全に救いを見出した。

 

オッペンハイマーは原爆開発したあと、水爆には反対しているんだよね。『オッペンハイマー』、公開決まったから見るのが楽しみで。」

 

とのことで、安心できる話題すぎる、そうそう。「なかなか公開決まらなかったですもんね〜バーベンハイマーのスラングの時、まだ公開されてなくて。」

と私が返すと、

「ん?バーベンハイマー?なにそれ?」

と言われて、(あ、そうかそうだよな。)と思い、急に『バービー』とのミームの話うまく説明できるかな?と思ったんだけど「なにそれ、知りたい」と言ってくださったので、話したところ、

「それは自分は知らなかったし、周りの人に『オッペンハイマー』見に行くって言ったけどリアクションくれた人は1人もいない。ましてや自分が知らなかったことまで知ってるなんて。」

と言っていて、なんかめっちゃ喜んでくれた。

 

はて、私が半泣きでやばゼリーを食べたり、凍ったマッシュポテトを食べたりしてる努力なんだったんだ?私が普段通り生きているだけで、なんか助かりましたとか言ってもらえることあるんだなと思う。これでいいし、これがいい。

 

アカデミー賞7冠の話とバービーのネットミームの話してる人なんて自分の身近なところではいくらでもいるため、(外界がそうではないことは知っている)、ただそこにいるだけで私がその人の中のたった1人になってよかったねー。

 

ここ数日の記事で書いてたけど、やっぱり、利他って「思いがけず利他」以外ないと思うんよ。それからアンサングヒーロー(知覚されないヒーロー)。私が在りたいように在ることでしか、互いに救われがないんじゃないだろうか。私が『バービー』公開前にミームに萎えてたことですらtoo luckyになるんだよなー。

 

捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-「オールアラウンドユー」木下龍也

 

これなんだよな。やっぱり世界ってバランスでできている気がする。多分自分が「受け入れてやってる」「受け入れなきゃ」と思うものって不正解なんだよなー。カウンターの中に入ってると、時々変な巡り合わせが起きる。

 

それから、明和電機の話で盛り上がった。「オタマトーン!」と言うと「何でオタマトーンを!?!?知ってるの!?!?」と言われてすごい喜ばれた。なに一つ無理がないな。

 

 

オタマトーンのことはもともと知ってるのだ。なんなら友達が持ってて演奏してた。そんなことで人は喜んでくれる。私も楽しい。オタマトーンを演奏しそうな友達ばっかり。

 

帰り際に、大事な人を亡くしてさっきまで泣いていて苦しい日だったけど来てよかったと言って笑って帰って行った。「助けないよ。力を貸すだけ。きみが一人で勝手に助かるだけだよ。」じゃん。化物語忍野メメ〜。

 

私「癒さなきゃ」とか1mmも思わなかったもんな。その人も好きな演劇と映画と草花の話して帰って行ったし。その人が映画いろいろ見るきっかけになった、自己啓発本の著者のことも私偶然知ってて驚かれたし。「博報堂をやめて〜」って言われた時点でわかったし。中谷彰宏な〜。私が「スピのオーディブル聴いてて」っていう時この人のやつ。年間1000本映画見て博報堂入った人な。この人今は時間の全てを美術館巡りと映画鑑賞に極振りして生きてんだよな〜。経歴調べたら中谷彰宏早稲文でウケた。言ってることダンディズムの要素強くてあんまり合わないんだよな。そのお客さん、今度マティス見に行くって言ってたな。そうそう、マティスマティス。人ってマティス見に行ってるんだよな。あるがままあろうぜ。

 

「ヒトも街も宇宙も〜まわれまわる"タイミング"〜♪ 」ってブラック・ビスケッツが耳元で歌ってます。てか、『Timing〜タイミング〜』の作詞した森浩美って、SMAPの『SHAKE』も、『オリジナルスマイル』も作詞してるんだよな。全てじゃん〜。そうなんだよ、何かタイミングが合わないとうまくいかないんだよな〜。子どもの時から、なぜか二人三脚得意なんだよな。シンクロが持ってる力ってあるんだよ。神様が結びつけたみたいな時間が。

 

 

例えば、介護の時に、この人を動かそうと思うと向こうは動かなくて、力づくになると良くないんだけど、なんというか、ふわっとお互いの身体が浮くような瞬間が訪れる。そこに宿るのは、タイミングだ。どちらがやった、のでも、やられた、のでもないタイミング。なんかそういう夜って、個人の話同士でも起きるじゃないですか。私はそれが欲しいんすわ。

 

やたらとシンクロニシティ

やたらとシンクロニシティ

 

2人目のお客様もそれを強く感じさせた。前に来店した時の話を覚えてたら、すごく喜んでもらえた。たったそれだけなのに!

 

最初に、「自分が無理をして入ろうとしたコミュニティってその後続かない」みたいな話をしてくれた。それに、2人で話してるうちに、「私たちはそこに痛みがあることを無視しているのでは?」というテーマになった。痛さがあり、我慢をしているではなく、痛さがあることそのものが、発見されてないのでは?ということ。痛みとは自然なことの一つなのでは?ということがある。だから私から見たら「何でこんなに傷ついているんだ大変だ、血だらけに見えるぜ」みたいなことも本人の痛覚が鈍いとそうとわからなかったりして、ミスマッチが起こるんじゃないか、という話があった。痛がりは確かに迷惑だが、痛がりは優しさもあると思うんだよな。自分の価値を高く置いている人の方が基本的に人に優しいんだよなぁ。

 

その人が思っている自分の価値が他人の扱いに出るからなぁ。全ては鏡合わせなのよ。そのバランスが狂うと具合悪くなる。カウンター越しはそういうバリアがあるからなぁ。

 

なんか深いところまでいく会話をして、その人が何だか不思議な感じで嬉しい、照れる。と言っていた。そうそう本質的な対話って、性別よりももっとベーシックな人間と人間の対話になるんだよな。この感覚忘れてたわ。私はこれがしたい。

 

それからその人からもルーツに関わる話をしてもらって、いろんな話をした。最近「死を覚悟したことがあるか」の話をしたんだけど、その人が「地獄を経験したことがあるかじゃないですか?」といっていて、「あ、そうかも」と思った。「自分の力ではどうしようもない不条理を知っている」と言っていて、「あーそれそれ」って話をした。

でもその人が、安易にその話をすると、「なんとなくそういうのかっこいいと思って自分から地獄に飛び込もうとする人がいる。」と言っていて、極めて冷静だなと思った。

 

「痛みというのは忘れた方がいいのか」という話になった時に「私は痛みを忘れたらなにが大切だったかわからないんじゃないかと思う」という話をしていて。でもなー、生理痛とか無痛分娩とか和らげない方がいいって考え方には反対だしな。でも、心や身体の不調はなにかしらのメッセージだと思ってるからな。痛みそのものに注目した方がいいと思う。なにが痛かったを忘れたくないんですよね。でも、それに対して「覚悟であり強さだと思う」と言ってもらって確かにそうだなと思う。「痛みの中を突き進む覚悟をした方がいい。痛覚を無視しない。これも人に辛い経験した方が〜とかいうジジイになるので良くないが、YUKIは第一子を亡くしてるんだけど、その後から神秘性とか大きい何かに動かされてるって感じの曲も多くなってきていて、歌の系統が変わった気がする。

 

長い夢

長い夢

▲これ亡くなったお子さんのこと歌ってる

 

歓びの種

歓びの種

大きな何かに動かされてるんだよな〜。

 

あとやっぱくも膜下やってからの星野源はいいんだよな。

 

地獄でなぜ悪い

地獄でなぜ悪い

 

 

やっぱな、適度に他者への感謝が出てくるくらいがちょうどいいんだよな。自力と他力のメビウスの環がくるっとひっくりかえる。そこにいる。

 

昨日すごくいい夜だったから、なんかわたしが人生で「仕事した」って魂レベルで思う時って、人の力との呼応があった時だなと思う。今までそれが起こったのはいつだろうと思いながら終電に乗っていた。

 

やっぱり神様に愛されてるんだよな、私、どう考えても。心に余裕が出てくると、受け取れなかった贈与も、あ、思い遣ってくれたんだなってちゃんと思える。なんかほんと、悪態ついてごめん。自分に対する扱いをどんどん良くした方がいい。

 

やっぱ愛を受けた人基準で考えた方がいい。となると、愛の資本は循環する方向が決まってしまうんだよな。でもいいよな、食物連鎖の中で、アリとライオンがどちらが偉いという話でもないし。本当にしたい話ができてないと、私の中の愛が枯渇しておかしくなってしまう。バランスが取れない。

 

お客さんが「美人さんが思う、嘘のない場所をつくるしかないですね」と言っていて「本当にそうだな」と思った。

 

祝祭とcheer!感謝が込み上げるものって、今自分が自然とシンクロしている感覚なんだろうな。 結局、giftって才能。神から与えれたものだ。missionも、神から与えられたもの。

 

偶然性に背中を預けてみたいと思う。自然でいい。他の何にもならない。ただ、そこに居たいと思う。

TOEICを受けて元気になった。内向を愛している。

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TOEICのリスニングはマインドフルネスだからねー」と、私にTOEICを勧めた友人がシカゴピザをつつきながら、話をしている。

 

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旅先のノリでTOEICを勧められ、人生において久々の試験を受けた私は、その報告をしながら、一緒に夕飯を食べていた。全然予習をしなかったので結果は多分散々なのだが、心なしか、ものすごい安心感と、もうTOEIC以外やりたくない!という気持ちが込み上げていた。没頭できる、正解と不正解と秩序のある世界にきわめて安心感を覚えたのだと思う。私はそういう世界で生きてきた。TOEICには正解がある、的外れな解答を排除して、正しい解答を選ばなければいけない。真面目に努力をした方がいい。本当にそう。

 

設問を解いていくごとに自分が線になっていく感覚があり、今まで無理をして受け止めなくてはいけないと思っていた数々のことがふるい落とされていく。あー、TOEICのリスニング聞いてた方がいいな。地元の飲み屋で隣になったおじさんにアメリカのミニ四駆大会に行った話されたの、なんの落ち度もない話なのに面倒だったな〜。西荻の立ち飲み屋で無限に怪談話をしてくる人も迷惑だったなー。TOEICの勉強してた方が幸せだな。と思った。そんなことを思っていたので全然試験に集中していない。

 

自分が他人のことを気にしなくていいのだ。鼻に凄まじい量のティッシュを詰めたやばい青年がTOEICを受けていても、ここは私の場ではないので、ハラハラしなくていい。試験だけやってればいい。最高。自我を取り戻した。

 

ていうか模試の会場という場自体に懐かしさと馴染みの感じが込み上げてきて、なんだかいろんな記憶が湧き出してくる。忘れたはずの塾や学校の同級生たち。楽しかったな。中受時代の講師は性愛依存で狂ってたし、大学受験の時のカリスマ英語講師は、そのあと私たちがスタッフになってから自分の教え子だった女とオキニの女だけ集めて魚金に連れてった。なんか今思うとキモいんだよな。やっぱ、大人としてなんか変な人が多かったし、普通にちょっと社会とずれてて歪んだ支配力を持っている人が多かったんだと思う。

 

あー邪魔だな、ここでずっと試験ばっか受けてたかったなー。本当に外界ってうるさい。と思う。ケアと理性、難しすぎる。誰も見捨てたくないし、辛辣にコメントしたくないが、若干の危なさについてちゃんと自覚をしていないと、人生が危なくなっていく。どんなにイケてるカルチャーに近くても、大麻やってる人私やっぱダメだし(逮捕されると良くないので)、恋愛で警察沙汰になっている人は危ない(危ないから)。

 

マトモもマトモじゃないなんて、ないんだよ。というのは自由だけど、やっぱりマトモさというのはあるのであって、それを私が選択した面の一つに過ぎないとしても、私はマトモ面をプレイしたい。ただでさえ、生きてくのって一生懸命。基本に忠実な方がいいでしょ。

 

なんか、この数年色んなもの見て、やっぱ面白いもんってそんなないな、と思ったけど。

 

有名とか"大物"とかになるに従ってきな臭い世界ばかりなんだろうな、と思う。世、インテリも倫理もぜんぜん幅欠かせてねぇなと思う。効かせてる場所もあるけど。芸能人とかも変なのしかおらんのやろな、と思うから。ラランドとか、バキ童とか令和ロマンとか、オモコロが持ってる空気ってあちらのものだけど、なんかテレビに出てる人たちとか本当に輩も多いんやろうな、とおもう。普通にとんでもない話を聞いて、こちらも危害を被った人間たちが普通に活躍してたりするし、なんか、輩の世界なんだよな。斎藤工は大変倫理観があり素晴らしいです。人のことを倫理観で見ています。

 

あと、なんか、経営者の人たちも変で、私に大学院受験を勧めたり、やれ東大院とホクホクした顔で接したのに、「大学には嘘つきの教員がたくさんいる!」「大学生協はヤバい組織だ!」みたいなこと、突如、右寄りの極みみたいな話をしてキレてきて、こっちがオロオロしている間に「頭がお花畑なんだよ!」と言われて「ご飯の時に右翼の話するのやめてほしい😢みんな色んな考え方があるから、今はやめたい。それぞれ信じた世界の中で生きていくことが切実な人たちがいるから…。」といってぴえんしたこともあった。大人ってもう少しマトモだと思ってたんだよ。

 

発狂して自分らしさを発揮しようと、ミスiDに出たら、全てを受け入れすぎて倫理観が崩壊してしまった。

 

ささやかに暮らそうと地域のお店で働いてみたらこちらもこちらで倫理観がない上、自分がありのままいるだけでその差異で他者を傷つけたりするのを知って愕然ととしたりして発狂。

 

スナックにド下手な楽器を持ってきてとんでもない音量でトロンボーンを吹く、関係値そんなに親しくないおじさんの面倒は見られないし。カラオケを突然5曲連続で入れて歌いまくって、全ての曲にがなり声でハモるおじさんにオロオロしてたり、人間の欲って底なしで怖い。

手作りのローストビーフと凍ったマッシュポテトを、初来店で持ってこないでほしい。怖いから。あの時断れなかった。ローストビーフ、赤身も多くて怖いんだよう。自分が料理できるって自慢じゃん。せめて安全なのにしてよ。怖いよ。カラオケ5曲おじさんも昔別件で手作りの食べ物持ってきたな。差別はいけないんだけど、関係性のない他者の手づくり怖いんだよな。落ち着いて欲しい。

 

あと、何か企画に誘ったくれた人の会場に行ったらゆるいゼリーが置いてたこともあり「せめてマドレーヌとかクッキーであってくれよ」という気持ちもあった。なんで?私って結構人の手作りダメなんだな。心置きなく、友達と鍋がつつけた時代に戻りたい。友達のために、「天然水で米を炊きたい」って言って炊飯器にミネラルウォーター入れて米炊いてくれるのに?まあまあ関係値あるのに?それって承認欲求じゃなくておもてなしなんだよな。凍ったマッシュポテトを今すぐやめてくれ。泣きそうになる。何もかも受け入れられない。

 

また別の先輩たちと集まって、向田邦子が好きだったレモンのお鍋をした時間!大好き!ピーコックの日本酒棚を眺めて、一人が浦霞を手に取ると、「それだ!」てみんなで指差し合う瞬間。その後、深夜に先輩が作ってくれたプッタネスカ。オリーブとトマトのパスタ。大好き。

 

なぜ私は苦行で、ゼリーとヤバローストビーフを食べているんだ?世界を抱擁したいけど無理だよ。毒マフィンの事件に近いことが起こりつつあるんだよな。無邪気な有害さ。

 

お前ら恥と品性はないんか?と、問いたくなることばかりだった。これだけのことにNOと言えず自我が失われ発狂していた。だってこの人たちどこいくんだ?マジでどんどん嫌われていくぞ。

 

で、そんな様々な事態に困り果ててたんだけど、TOEICには居場所があった。ペーパーテスト大好き。この世からペーパーテストがなくならないでほしい。努力が正当に報われて公平なものが好きだわ。(そこに至るまでの機会の平等は別にして)。一応TOEICという軸足ができたので言いたいことを言えるようになった(画期的)。別に、彼らの料理が食べられず、音楽性が合わないからといって、人間みんなプランとしては愛してるんだけど、やっぱ無理だわ。

 

この前友達に「お鎮まりください」って愛じゃないからね美人ちゃん。と言われて。本当にそうだなと思った。

 

人間は能力じゃないが、能力値が低すぎて品もなくて辛い。ちゃんとやろう!やっぱ全部中途半端で舐めてるからキモいんだよな。そうだ!中途半端なものに中途半端って思うのは逆に相手を人間扱いしていると言っても過言じゃない。

 

それからその前日は、TOEICの勉強そっちのけで、大好きなseiren musicalの公演を見に行った。素晴らしかった。誰一人手を抜いてない。美しい。この世界の中で透明になりたいと思った。何かに携われるなら、自我を主張せずその一体になりたいみたいな、一部になりたいみたいな、美しい有機体みたいな空気があって、自然と拍手が出た。真剣にやってるものってすごいよ。これが好きだと思うからこういうものを見たりした方がいいな。

 

帰りにジュンク堂に寄って、本棚眺めてたら、和菓子の練り切りの作り方の本があって。中途半端な人間に慌てふためくより、真剣に練り切りとか練習してた方がいいんじゃないかと思った。高みを目指すことでしか人間、他者も自分も幸せになれないよ…。

 

TOEIC最高〜。人間嫌い〜!!

思い返すと、幸せだった記憶、小学生の頃は、ずっと欲しかった手芸本で赤いフェルトのバッグをつくりうさぎのワッペンをつけてた頃が楽しかった。中学の時はうさぎのぬいぐるみを作ったりしてたし、高校の時は受験期とブライス人形いじってる時が楽しかった。

 

大学時代、1年生の夏、ずっとセルフ監禁してファッションショー用のドレス作って、ジムに行ってエアロバイク漕ぎながらデスノート読んでだけどめっちゃ楽しかったからな。

ちゃんと、本の手順に従って、小さな過程も無視せずに試してみると、ビスチェの形が出来上がるんだよ。美しすぎる。

 

いいか!?他者、絶対に入ってくるなよ!!?!?という気持ちがある。あー、TOEICで自我が整ってうれしい。

中途半端なことを許してるとどんどん私も半端になるので普通に高いもの見て、自分も高み目指した方がいいな。

 

ハンパなもんで甘えるなっつーの!