美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

なぜ書けないのか考えてたんですけど

なぜ書けないのか、考えてたんです。

まったくもってあの頃紡いでた文章とは似ても似つかない私になってしまって、書くことを仕事にしようと、思ってたんですけど、そう思った途端、なんだか薄っぺらくて、説明的で、人生の本質を捉えていないハリボテみたいな文しか綴れなくなってしまったのです。

 

書ける文章が変わるということは、ものの見方や考え方も変わるということで、私はこの数ヶ月ボーッと、何も考えず世の中の「現実」とやらを見て過ごしていました。

 

お金がないと生きていけないこと、遊んでいては暮らせないこと、嫌なことを我慢しないと生活はできないこと、世の中は綺麗事ではできていないこと。そんなことを嫌という程教えられました。

 

いえ、実際にその現実を見て思ったわけではないのですけど、最近仕事でお世話になってる人にそう言われたのです。

 

お金を稼ぐのは大変だ、商売は厳しい、とよく言われます。おっしゃる通りだと思います。思えば私は一人で生きていくということを考えたことがありませんでした。

 

自分でお金を稼いで生活するということを現実的に考えたことがありませんでした。両親の期待に答え、中高では成績上位、生徒会もやりました。文化祭では率先して仕切りました。よい大学に受かりました。華々しい活動も1つや2つしました。よい会社に入ってそれなりにしてれば、それなりに暮らしていけると思っていたのです。1日も休まずに小学校に通ったように。毎日決まった場所に座って、決まったようにやっていればなんとなく、そんな風になると。お小遣いのように給料がもらえると。 

 

だけどそんなことは全くなくて、人に合わせたくない私はとことん社会性もなく、わがままで、発達障害特有の粗雑さを発揮し、社会において大変に面倒な甘やかされた「使えない」人間だったのです。

 

生きてゆく覚悟と責任が私にはなかったのです。いつも誰かが何かをやってくれると思ってきました。遅刻したら母が車で送ってくれました。忘れ物も届けてくれました。掃除も洗濯も洗い物もほとんどしませんでした。大学への入学届けも、母が書いてくれました。

 

ハタチになった2ヶ月後に母が亡くなったあと、私はなにもできなくなりました。年金の学生免除の書類も提出を間違ったまま放置してました。老後になにが起こるかわからないのに、なんとかなると思ってました。大学も卒業してない20歳に、お金を払うように言われるなんて、考えてもなかったのです。甘えてますね。

 

大人になれると思ってました。大人になれてると。しかし22歳になって、偉そうなエッセイで人生論垂れても、机上の空論にしかならないのです。発達障害なのか、性格なのか、教育なのか。そうは言っても大人になった以上自分のせいであることには間違いがないのです。自分で生きていかなくてはならないのです。

 

稼がないと、食ってかないといけないんです。じゃないと、私は私の人生を生きられないから。それはわたしがなりたい美人ちゃんではないと思うのです。

 

それを気づかせてくれたその方には大変感謝をしています。しかし一方で、厳しい現実だけが、世の中かというと、そうでもないと思うのです。

 

その人には、人生が楽しい人なんてほとんどいなくて、生きていくって厳しくて、人生とは辛いものだと、伝えられました。だからそのように生きてみました。そのような目線で生きてみました。

 

日々が凍りついてゆき楽しいものも、生きてる意味も見出せず、ただただ虚無のまま死にたくなりました。人生楽しいという父に、「人生は楽しくないのはマジか」、と毎日毎日問い詰めてやさぐれました。母がドロップアウトした世界でわたしは、楽しくないなら生きてる意味がないのです。

 

辛いことをしたくないというわけではありません。より大きな目標のためなら、降りかかる理不尽やストレスにも耐える覚悟はあります。父は自分らしく生きられる人が増える社会をつくるため事業を起こしています。なので、もちろん仕事において裏切りや、人間関係の問題や楽しくないこともあると思いますが、本人は楽しく生きていると胸を張って言えるのだそうです。わたしはこの人の娘なんです。ハッピーに生きる才能だけがわたしの取り柄なのです。

 

だけどそれは綺麗事だと、言われました。「人は現実を見ようとしない。現実は厳しくて辛いから。」と。私はその言葉によって、その世界に引きずられました。毎日毎日、世の中を疎んで過ごしました。

 

「世の中のごく一部の相性のいいカップルを除いて、結婚相手なんて誰でもいいものだ。」とも言われました。好きな人と夫婦になれないならこの世に生きている意味がないのです。私にとっては。

 

悪気のない「現実」主義者に、私のささやかでハートフルな楽園は潰されてしまいました。

人それぞれ生きる意味や、人生に必要としていることは違います。「現実」とはなんなのでしょう。私はその人が見た世界が「現実」だと思います。

 

私はこれまでのブログで綴ってきたことを読み返しました。誰にも理解されないと思っていた私は人と心を通わせることができるということ。私が持っている感情は馬鹿げたものではなく、意味のある実在するものなのだということ。綴ることで、読んでもらうことで繋がれたらことを思い出しました。

 

私はそういうことを忘れたくない、忘れたくないんです。

 

この前ブログ再開の投稿をした時に、ほとんど知り合いのいないクラスで「わたしは文才とかないからよくわからないんだけど、ブログ読んでる、応援してる」と声をかけてきてくれた人がいました。なんだかそういうことだけでその場で泣き崩れたいくらいの悦びを感じてしまいます。

 

私は人一倍感情や考えを伝えることがうまくなく、開いてるように見せかけて、自分の心の壁は分厚く高く塗り固めています。そうしたものをちょろりちょろりと漏れ出した文章を誰かに読んでもらえる時に本当の私が少しだけ誰かと繋がれたような気がするのです。

 

人の心や、豊かな愛や、感情の機微を大事にしたい。私は私の感じるそういうものを誰かに、何かに、伝えることで生きて生きたいなと思いました。感情だけではだめです。でも、「現実」だけでもダメだと思います。人は見たものになります。私は私の見たい現実を見ます。それはすでに虚構や逃げだという人もいると思います。でも、見たものが事実なのです。  

 

「美人」という人格はわたしがなりたい自分でした。ずっと。あの頃より人に対して異常な劣等感を持たなくなりました。恋愛も少しはできました。

 

わたしはあの頃見た世界に生きてます。悩みは尽きませんが楽しいです。

 

まだお金を稼ぎ、一人で生きてないからかもしれませんが。

 

「美人ちゃん」は私であり、いつも私の数歩先を歩いているひとです。

 

かしこく、しなやかで、やさしい。芯のあるひとです。私はきっと、一人でちゃんと生きていくと思うんです。

 

しっかり稼いで、感情を大切にして、誰かやみんなを愛せる、そして心から人生が楽しいと言える、美しい人に、わたしはなりたい。それを証明するために、辛く厳しいと言われる人生をもう少し生きてみようと思います。

お久しぶりです、美人です。

拝啓、読者のみなさま。お元気ですか?

 

久々の更新になる。ありがたいことに、このブログには更新がない間にも一定数のアクセスがあり、時たまSNSで記事がシェアされているのを見つけては、ニヤついていました。廃墟にならずに、常に誰かが訪ねてきてくれるというのは私の支えになっていた。もしこの新しい記事を見に来てくださる方がいるのであればここでお礼を言いたい。

 

そして、また始めたいと思いつつも今日という日まで先延ばしにしてしまったことを許してほしい。このブログを休んでいる間に、私は発達障害の診断をもらい、就活を諦め、それから東大院への進学を決めた。

 

ちなみに、東大院では魔法少女に関する研究をする予定だ。幼少期に視聴した魔法少女アニメが、子供の成長においてどのような影響を及ぼすのか、というものなのだけど。メディア論・社会学の分野で研究を進めていくことになる。

私が魔法少女で東大院に挑むきっかけを与えてくれたのは間違いなくこの記事だ。

 

toyopuri.hatenadiary.jp

 

いろんな人に読んでもらって、ツイッターでもたくさんシェアしてもらって、「瀬川おんぷ」で検索すると上から3番目に出てきたりしたこともあって、これで東大に行くんだというヤバい目論みが実現に傾くことになった。

 

大学院受験の予備校に通っていたのだけど、先生が試験の前に「あなたには、魔法少女のパワーもついてるから大丈夫だよ。今までの人生も困ったとき、彼女たちが助けてくれたでしょう?」と言ってくれて、泣いた。まったく、メルヘンワールドを理解してもらえて嬉しい限りである。魔法少女たちのご加護もあってか、合格は決まり、晴れて東大院生になる資格を得たわけだ。

 

さて、そもそもなぜ大学院に行く必要性があったのかというともちろん研究分野にも興味があったし、東大院に進学するという夢はぼんやりと抱いたことはあるけれど、それを実行することに至った直接の理由には、発達障害の診断が下ったことにある。

このブログで書いてきた、幼い頃からがさつで、いびつな個性を持った自分が辛かったという内容。たたずまいの綺麗な美人になりたいという願いを込めてつけたこのハンドルネーム。こうした、うまくいかないことすべてが発達障害によるものだったのである。

 

toyopuri.hatenadiary.jp 

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ADHD(注意欠陥多動性障害)私を知る人なら、誰もがその傾向に納得する節があると思う。

・がさつ

・落ち着きがない

・早口

・忘れ物が多い

・〆切を守れない

・時間を守れない

かとおもえば

・突飛なアイデアや思いつき

・エネルギッシュにそれを実現させる

 

ただ、これらの傾向は大なり小なり誰にでもあるもので、あなたはそういう節はあるけど、障害じゃないでしょ、とか、勉強はそれなりにできるから違うでしょ、また思い込みか、だとかいろんなことを言われる。だけど、診断名が下る前から、自分の中の恥の棚下ろしのようにしたためてきた私の上の2つの記事を見ると、私が小さい頃から感じていた違和感に、多少なりの理解を示してもらえると思いたい。

 

わたしはこれまでの22年間がさつで落ち着きのない自分が嫌で仕方がなかった。いつか治ると美人を目指して、自己啓発本や夢を叶えるノート的なのをつけていたのだが、どうやら脳の不具合なので治ることはないらしい。美人失格の審判が下った。

 

めちゃくちゃ可愛くて落ち着いた心理センターの大学院生のお姉さんの前で、積み木をやったりパズルをやったり、汚い字を見られた自分。惨めでした。

 

さて、本当に喜ばしくも残念なことに私は正真正銘のADHDであった。逆にこれで障害じゃない方が救いようがない。

 

この診断を受けたのは、発達障害者が身近にいた方からの勧めがあってのことだった。

その方に、わたしのような人間がどうやって社会の中で生きていくか、も含めてアドバイスをもらったんだけど、端的に言って、一般的な会社勤めは私には到底難しいらしい。バリキャリになれると幼い頃は信じてたけど、どうやら、汚い部屋から飛び出して、駅まで走って、プリントを無くし、アポをすっぽかし、締切を守れない、社会不適合者として怒られながら生きていくほかないらしいのだ。美人ちゃん、こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃないから美人ちゃんなのに。これではガサツちゃんである。

 

ガサツちゃんが美人ちゃんとして一定の社会適合力を持って生きていくには、文筆業なり、学業なり、起業なりで、生計を立てなくてはいけなくて、そのためにあと2年研究と文章を極めて、何か突破口を見つけるしかないみたいだ。

 

のんびりと、切実に。コンプレックスをつらつらと書いてきたこのブログにも、生活がかかった背水の陣で臨まないといけなくなった。

 

だけど、だからと言って何が変わるというわけでもなく、書かなきゃなー書かなきゃなーと思ってることをどんどん書いて、更新率を上げるくらいの話だ。

   

 

ここにしたためてきた「美人ちゃん」の言葉たちは、普段の私よりもよっぽど私の言葉で、ゆっくりゆっくり考えて、絞り出して織り上げた文章だ。たくさんの人に読んでもらって、たくさんの人に自分が考えてることを知ってもらって、初めて周りの人に理解された気がしました。ありがとう。すごく楽しくて嬉しかった。

 

これからも末永く、よろしくお願いします。

 

2018.11.15 美人

母とチロリン村

 

 

チロリン村」という妙な単語をたまに思い出す。

母が短大生の時、ナンパされた大学生たちと行ったキャンプ場の名前だ。

 

小さい頃何気なく耳にした思い出話が、21になる今あの頃の母と同い年になって、遠い世界のことのように感じる。

 

海で出会った彼らは大してかっこよくなく、彼らの慣れない運転で「チロリン村」へ行ったそうだ。メンバーの中で、一番かっこいい人が母のことを気に入っていたが、彼の友人のブ男が母のことを好きだったので、友人思いのイケメンが「俺、応援するよ」とブ男の肩を持ち、母は残念だった。というしょうもないエピソードを聞いた。

チロリン村がどんなキャンプ場かは知らないし、どこにあるかもわからない。

 

ただ、母の死後、アルバムを眺めると、「チロリン村」という看板の前に立つ男女の写真がしっかりと納められていた。

 

その時私は母の勘違いや幼い私の聞き間違いではなく「チロリン村」は本当にあったのだ。と思う。

チロリン村」とは私にとって「ラピュタ」並みの秘境であった。

 

海でナンパしてきたダサい男の子たちとキャンプをしたいとは思わないけど、ただ、母と違う青春を送っていることが、わびしくなる。

 

割と母はバリバリ若さを満喫してて、私はハタチを超えても子供のようだった。

 

小さい頃聞いていた母の昔話は、いつか叶うと思っていた。ココナッツクラブというパーティーの運営チームを仲のいい女の子たちで結成したり、海の家でアルバイトしたり、お祭りで地元のお城のお姫様になったり、かわいいと学校で噂になったり、ミスコンに出たり、車のショーレディになること。

 

華やかだな、と思う。羨ましい。

私にはその一握りもない。

当たり前のように聞かされていた昔話と私が違う道を歩いてるなと気がついたのは割と後の方であった。

 

私は芋で、高校生になり化粧を始めた時はなぜか罪悪感でいっぱいになり、水着で男の子の前に出てはいけないと思っていて、一軍ではなくて、道化を演じてて、キャラも違った。「ふたえ」と「ひとえ」の、言葉の意味がわからなかったが、母にはあるまぶたの線が私にはないことを知った。

 

小学生の時から「あやちゃんのお母さんはかわいいね」と言われていたが、私は美醜の判断もよくついていなかったのでその意味が本当にわからなかった。次第に母の見た目やキャリアが人とは違うことに気がつくことになるのだが。

 

高校生の時、母を見て「あやちゃんと似てないからびっくりした」と無遠慮なことを言った友人の母がいた。きっと家では「あやちゃん、あんな感じなのにお母さんかわいいね」と、言っているのだろう。平気で他の子の見た目や母親の見た目について品評しているのを私も聞いたことがあるから、私もそう言われてるのだろうと思う。

 

母が死んだ時、母へのコンプレックスと密かな尊敬と憧れが爆発して「ママみたいにきれいになりたかった」と泣きながら言うと、祖母に「なるよ、あやちゃんもママみたいにかわいくなるよ」、と言われて「あ、やっぱ祖母も私のこと母と違って微妙だと思ってたんだ。」と納得しながら絶望したのを覚えている。

 

 

見た目云々の話は、努力問題もあると思うし(母がしていたような摂生を私はしているとはいえない)、持って生まれたものだというのもよくわかる。(父がブ男なのだ)

 

SNSのない時代男女の出会いはナンパも普通であったと思うし、母の華々しい青春にはバブルの風が大きく影響しているとも思う。

 

 

ただ、私もちょっと「チロリン村」くらいには縁のある大学生でいたかったなと思う。

あのダサくて、母の青春のページにもうっすら一度だけ登場しただけの「チロリン村」。

その響きを忘れられず、今もまだ繰り返し続けている。

 

 

レコード

 

 

 暮らしは電子化していく。写真は画面で見るようになったし、音楽は小さな機器に詰め込むものになった。友情だって、全てネット上で見て取れる。そこに「存在した」はずのものが「データ」になってゆく。「ある」のは変わらないのに、「形」だけがなくなっていく。一見シンプルや、スリムになってるように思えて、実はその逆なのではないかと思う。一人が扱うデータ量も多くなり、しかもそのデータは媒体上にあり、それらひとつひとつが込められた「モノ」はない。雑念のように空間に浮遊するデータらを完全に掴み取ることなど到底できない。その煩雑さに私たちはどこか疲弊しているように思う。だから、データと「モノ」が一体化してあることは魂が体に入っているように、自然なことでしっくりくる。

 

その中でもレコードは特別である。

CDをほとんど買わない私は、レコードの魅力に惹きつけられつつある。データが記録された「媒体」と、物理的に音が刻まれている「モノ」というのは大きく異なる。目に見えない「曲」自体が手に取れる「モノ」になるというのは一周回ってすごいことのような気がする。だからきっと、今でもレコードはしぶとく息をしているし、これからも消えることはないと思う。だからと言って私はプレイヤーすら持っていないにわかなのだが、レコードが好きな人はそういうところが愛しくてたまらないんだろうな、と思う。

 

 

書きたいから書く 酒のせいにしないと書けないくせにね

なんでも酒のせいに出来る

体に火照るものと、霧のかかった意思を持ちながら、この記事を書いている。

 

お酒というのはよい。瞑想や禅を組むことなしに思考を止め頭をスッキリと(その内実は脳を麻痺させたモヤモヤに過ぎないのだが)することが出来る。

 

脳が多動であれやこれやと思考の止まらない私にとって酒に酔いながらブログを更新するのは思えば癖になっている。

逆に酒の力を借りないと文章のひとつもかけないのはどうかと思う。

 

思っていることを隠して過ごしてきた。

素直に人に甘えられない私は酒の力を借りて、「酒のせい」にして本心を語る。

辛い。かわいくそのままで他の人の胸に飛び込みたいと何度思っただろう。冷静さが常に隣合わせですべてを人に預けられない。

同性同士でもハグが気持ち悪い。

触れないでほしい。

私の中に誰も入ってこないでほしい。

愛想よくうまくやるから、入らないで。そんな気持ちが渦巻く。

本当はアクセスとかウケとか狙わず文章書きたいのに。浅はかで下世話なことばかり考える私。許して欲しい。もっと自由になりたい。

酒のせいにできる。ということを理性でわかって、その理性の私が泣いている。酒のせいに出来ることを確かに分かっている。記憶はある。酒のせいにして抱きつきたい人がいる、好きな人がいる、好きなものがある。したいことがある。この世に生を受けたのに、アルコール摂取しなきゃ、口にも出せない自分が消えて欲しい。

 

 

続・「ねるねるねるねがねだれないからいつセックスしていいかわからない」

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 これは私が昨年書いたブログの記事だ。ねるねるねるねが食べられないというのは私の中のカルマであった。着色料が入ってそうで、体に悪そう。粉に水を入れて混ぜて食べれば、周りが汚れるし、第一食べ物で遊ぶお菓子を買うと親はいい顔をしない、と思っていた。ただ、もちろん子供ながらに好奇心はあるわけで、①の粉と②の粉を混ぜてみたい、ふわふわとふくらんだ「ねるねる」をスプーンにすくって③番の砕いたキャンディーに思いっきりまぶして食べてみたい、と思っていた。ねるねるねるねを作った記憶があるので、おそらく一度か二度くらいはドキドキしながら買ってもらったことがあったのだ思う。でも、作っているときはなぜだか罪悪感でいっぱいでほとんど楽しくなかった。今この瞬間にも、リビングの隅にある子供用の机でねるねるねるねをかき混ぜていたときの気持ちを思い出すだけで、胸がきゅっとなる。あのプラスチックのプレートの隅についている小さな三角の器に「水を入れたい」というというのがなかなか言い出せなかったのだ。

 明確に「食べてはダメ」「見てはダメ」という母親ではなかったし(ただ、極端な心配性ではあった。)、私はとても甘やかされて育ったと思うけれど、おそらくその分無意識にいい子でいなくては、というとてつもないプレッシャーの中で生きてきた。(私が「めちゃイケ」を見たことを号泣して懺悔したのはまた別の話である。)そのことに気がついたわたしはこの「ねるねるねるね」のブログの記事を皮切りに「こじらせブログ」を書き始めた。両親との関係は良好であったがその分思い悩むことも多かったこと、自己演技的に生きることが癖になり周りの人間と心を通じあわせたことがなかったこと、自分にはおそらくADHD系の発達障害の気があるのだが、そんな自分がゲテモノのように思えて恋愛も出来なければ女として失格な気がすることなど、自分の背負ってきたものをひとつひとつ荷下ろししていくように文章にしていった。その作業は非常に心地よく、それを読んだ友人たちが「面白い」と言ってくれることで周りの人間はちゃんと自分のことを理解してくれるんだ、と思えるようにもなった。

 

 しかし、私は数ヶ月後にはブログを更新しなくなった。飽きたから、という理由は否定しないが、最も大きな理由は、このまま同じようなブログを書き続けても私は変わらない、ということに気がついたからだ。本当に幸せになりたいなら自分がやってこれなかったことをぐだぐだいって共感を得るより、その全てを捨てて自分を変えれてしまえばいいのだ。もちろん「こじらせ芸」で共感を得るのは心地よかったし、そのネタで永遠に書きけられる気すらした。でも、結局どの切り口からブログを書き始めても最後には「可愛く振舞えない」「真面目で損した」「がさつで辛い」といった同じ結末にたどり着くのだ。同じ話を例え話やエピソードを変えながら書き続けるのは馬鹿らしい。正直「こじらせ芸」はそれなりに面白いし、一定のこじらせてる人々はきっと同じことの焼き直しでも、それが生産される限りその界隈で消費してくれる。わたしもそんな「こじらせ」が大好きで「こじらせ界隈」で頂点になることを目指していたこともあった。でもその外に出なくてはならないのだ。この「こじらせ村」を最初に出て、わたしが最初に幸せになって、世界はこんなにも生きやすいところだと、みんなに教えなくてはいけないのだ。

 

そうして、こじらせ村の脱出を決めた私に、恋人ができた。そこに一切の妥協はないと言い切ることができるし、私は今までの人生で最もタイプだと思う男性と付き合っている。

初めて会った時からなんとなく好きなタイプだな、と思っていた。15歳上の人だったが、だいぶ若く見えたので、年齢を知ったときは驚いた。
小柄でやんちゃそうな雰囲気が好みで、小学校の頃好きだった男の子に似ていた。

といってももちろん、一回り以上年上の彼と付き合えるなんて思ってなかったし、だからこそ「うわ〜! 同級生にいたら、好きになってるタイプです(ヘラヘラ)」みたいなことも気にせず言えていた。年下の女の子から言われて、悪い気はしないだろうと思ったし、高校生の女の子が好きな先生を推すような感覚であった。

(これは、私が自意識をこじらせ過ぎて中高6年間ファンだった人気の古典の先生を周りの友達のように推すことすらできなかった過去への反省からの言動なのだが、それはまた今度話すとしよう。)


そんな私に転機が訪れる。彼が恋人と別れたのだ。(もちろんこの件に私は一切無関係だ。)

彼は恋人をとても大事にしており、そこも含めてとても好きだった。だからそれを知った時は、純粋に胸が痛かった。

 

しかし、だ。

その時やっぱり彼が好きだと確信したのだ。

ダメな理由なんてどこにもないことにも気がついたのだ。

 

「世の中にはこんなにも私好みでよく出来た男が存在すると思うと人生捨てたもんじゃないな、私もそんな彼氏を探そう」くらいのことを思ってた人の、隣のに座れるチャンスが自分の前に回ってくるなんて思ってもみなかった。

 

不思議なことに今まで15も年上で、交際相手がいる、「から」ないと思っていた相手がいきなりフリーになると、もう年齢のハードルなど、たいしたものではないような気がしていた。

 

私は幸せになりたいのだ。

自分の気持ちに素直になり、欲しいものを手に入れられる人になりたい。

心の奥底でずっと思っていた。

年齢が上だからとか、今まで歩んできた人生が違うからとか、自分に勝手に課していたダメルールから自由になって、

今の私に与えられたこの機会に全力で取り組みたいと強く思った。

 

それから私は「自分が今までしてこなかったことをする」というのをテーマに掲げ、慣れないことをたくさんやってみた。

酔っ払った勢いで甘えてみる、とか、ラインの会話や態度で好きなのを全面に出す、とか今までの自分では考えられないような、恋愛パターン改革を行った。(今までは好きな気持ちを押し隠し突然告白。相手を困惑させる、という手法の常習犯であった。)この改革はもちろん私自身の新戦術でもあったが、実際問題、良識のある人間であれば15も下の女の子に手を出すのはリスクがあるし、一回り以上年下の女の子からのアタックを、最初からは本気にはしないだろう。

だからこそ、「弄んでいるわけではなく私は本気であなたのことが好きです!」というのを通常の5倍くらいはわかりやすく出さなくてはならないと思ったのだ。

そんな私の物分かりの良さも彼の食指をひいたのであろうし、私もまたこちらからアタックしない限り絶対に手を出そうとしない姿勢に信頼を寄せた。

毎日のようにラインが続き、一緒に食事に行くことが決まった。

それから付き合ってもう半年を過ぎた。

 

明るく意思の強い女性が好きな人もいることを知ったし、

 

アボカドをショートケーキの上に乗せる人もいたし、私をアボカドだとみなさない人がいる人も知った。(アボカドだってショートケーキに乗りたかった - 美人ブログ)

全ては3割の真実と7割の思い込みであったのだ。

  

彼氏はどんな人?と聞かれれば、身長が低いとか三枚目だとか、いくらでも説明しようがあるだろうが、

 

自分の決めたことをやり抜き、

自分の言葉で語り、

自分の感覚を信じることができる、

 

そんな人だと、ここでは答えておこう。

 

1年前の私はまさか自分に彼氏ができると思っていなかったし、それが15歳も上の人になるなんて考えもしなかった。もちろんもとから気にしぃの私が、気にしないわけがない。しかし、そんなことでチャンスを逃したくなかったのだ。結局自分の感覚を信じることしかできないし、私は今、人生で一番好みの男性と交際ができて本当に幸せなのだからきっと正解なのだろう。

 

ちなみにこの恋愛改革により、さらなる改革も起こっていた。私は2年前には母が亡くなっており、だからこそ、15も上の男性と付き合っていることに罪悪感を持たずに済んでいるという部分も大きいと思う。幸い父親は寛容なので、彼氏ができたことは話していないが、帰りが遅くても文句一つ言わないし恵まれた環境であると言える。そうは言っても、実際問題娘が15上の男と付き合ってる、さらにはもし結婚なんてすると言い出したら嫌な顔をするのではないか、と心配していた。一応私の家は「自由」であることが提唱されているが、私は無意識に「自由」の中で父親と母親の理想を選んできたので真に自由であったことはなかった。例えば私は幼い頃から変わった子供であったので「将来は日芸に行って顔を白塗りとかにして変わった演劇でもやるんじゃないの?笑」などと母に言われていたが、実際そんなことしたら嫌がるだろ、と思っていた。小学生の頃から演劇部に入っていたが、例えば私が舞台女優になるなどと言ったら心配する母親であったと思う。だからこそ舞台女優になるような人生はダメだ、夢を追いかけたりしてはいけない、という思いがずっとあった。そんな私が15歳上の彼氏と付き合いはじめたある日、父親におそるおそる尋ねた

「うちってどこまで自由なの?」

「どこまでって?」

「んー、例えば私が舞台女優になるって言ったらどうする?」

「応援する。心から。」

「えっ、そうなの。占い師になるって言ったら?」

「当たるならいいんじゃない?」

「舞台女優になってよかったの。電通とかリクルートに入らなくてもよかったの。」

「ぜんっぜんいい、ぜんぜんいいよ。そんなのよりむしろ応援する。全力で。」

私は号泣した。決して本気で舞台女優になりたいわけではなかったけど、そういう風に生きていいと言ってもらえたことで、肩の荷が完全に降りたのだ。

「知らなかった。知らなかったんですー。舞台女優になっていいって、知らなかった……ずっとダメだと思ってた。そういう生き方。」

「お前の人生だ。好きに生きろ。」

「例えば私がすごい年上の人と結婚したいって連れてきたらどうする?」

「すごい年上って?」

「15歳とか」

「15…30の時45 40の時55 全然アリでしょ」

「どこまでオッケー?」

「んー、流石に俺と同い年とかそれより上連れてきたら引くけど…20くらいまでじゃない?」

「へー、バツイチは?」

「全然アリでしょ」

「子連れだったら?」

「お前が他人の子を可愛がれると思えないけどそれでもいいならいいんじゃない。」

「私のことよく分かってるね。外人だったら?」

「のぞむところ、ケニア人でもいいよ。未開の地とか世界の果てに住んでても、一年に一回Eメールが届いて写真と楽しくやってる様子が来れば十分だ。」

「あのさ、ママに高校生の時にウエディングプランナーになりたいって言ったことがあったの。それかゼクシィの編集者。私は当時から早稲田に行くつもりだったんだけど、娘の夢を応援しようと焦ったみたいで、突然ウェディングプランナーの専門学校の資料を取り寄せて私に差し出してきたの。その様子が挙動不審で、お嫁さんの要望に答えるの大変だと思うな、とか言ってたの覚えてる。私に大学に行って欲しいのが見え見えだったし、現に私は小さい頃から難関大学に進学しないと思った日はなかったよ。私はうちが自由だっていうのは子供に対して自由な選択肢を与える親でありたいだけだと思っていた。だからずっと期待する生き方をしてきた。」

「そうか、そうだな。パパはもっとうちは自由だと思ってた。気がついてあげられなくてごめんな。少なくとも俺は本気でお前に自由に生きて欲しいと思ってる。それが伝わってなかったのなら俺の反省点だ。ごめんな。」

 

私は泣いた。ひたすら泣いた。開放であった。涙が止まらなかった。

 

「気の済むまで泣けばいいよ。涙が出るということはまだそのカルマを出し切ってないということだから、涙が出なくなるまで泣いた方がいい。」

 

と父は言った。

 

 

 

慣れないことをするというのは人生に変化をもたらすための手段として本当に効果のあることである。

私は今、大好きな恋人と付き合い、父親と腹の底から語らい、心から幸せである。

 

 

 

ちなみに、私が初めて彼の家に行った日、彼が、

 

「俺も好きなように生きるから、お前も好きなように生きろ。お前の人生だ。」

と言ったのはまた別の話。

 

  

 

うまいブログも書けなくなってしまった。

思ったことだけを書こうと決めたのに。

大事なことだけをしぼりだそうときめたのに。

 

そうして始めたこのブログも、どんどんダメになってしまった。

相変わらずのマシンガントークであるし、折角生み出した「美人」のキャラクター性も崩れてしまった。

 

思えばこのブログを始めたころ私は今よりずっと自分に自信がなかった。

 

ありのままに生きていいことを知った私は変わってしまったのだ。

今はエネルギーが溢れてしまってどうしようもない。言いたいことも止められない。

「美人」はいなくなってしまったのだ。

 

今はどこにいるのかわからない「彼女」を私は待たなくてはいけない。

 

また「彼女」は戻ってきてくれるだろうか。

今の私ももちろん好きだけど、やっぱり「美人」になりたいのだ。人の話に耳を傾け、諭すように話す、気品のあるひとに。

ひとつひとつのしぐさが丁寧で、ちゃんと相手のことを待てるひと。

なれるかな。なれるかしら。

 

ちょっとずつでもなりたいなあ。

書けなくなってしまったからね。