昨日の続き。
かつて私は相手が自分に抱くイメージ全てを、私が操作できると思っていた。どう見せるかは自分の腕次第だと思っていた。
でも当たり前だがそんなことはなくて、私が相手のことを心の中で色々厳しく見たりするように、他人だって私のことをいろんな目で見ているのだ。
私が深く考えているのと同じくらい考えている、そんな存在と対峙し合うなんてコミュニケーションとはなんて恐ろしい行為なのだろうか。
だから、このこと(前回の記事)に気がついてもなお、なるべく相手の心を考えないようにするクセか抜けない。
自分のことをコミュ障と言う人が相手の感情を考えすぎて話せないのだとしたら、私は耳を手でパタパタふさぎながら大声で話しているような感じだ。
そうすれば相手の心を考えなくて済むから。
私は相手の感情を「ないもの」と扱いすぎている。
私がこんなことしたからこいつ今嬉しいんだな、なんか悲しいんだな、とか、自分の感情がそれほど単純で無いのと同じ様に、他人もそうであるはずなのに、相手の感情を適当に上からラベリングして、バカにしてる。
そしてそれを今反省している。
私がよく、人の話を聞かないと言われる原因もそこであろう。
でもこわいのだ、気を張り詰めて、相手の感情を考えないように、とりあえず喜ばせておけばいいかと、マシンガンを放つの私の戦い方だ。
それを下ろしてしまったら、途端に弱くなってしまう。マシンガントークは私の防具でもあるのだ。
もちろんただおしゃべりなのもあるけどね。
考えたくない。相手の感情を考えよう、とすると肩の力がふと抜ける、でも怖くて、身体中の筋肉に力が入る。脳までリキんでる。
まだ逃げている。
私も立派なコミュ障だ。
他人の感情を読み取るのが怖いから目も合わせられない。
耳を塞いで騒ぎ立てるだけ。
私の耳にも瞳にも一度も他人が写ったことはなかった。目隠しと耳栓をしていつも一人ぼっちで暴れ回っていた。
なかなか治らない。治そうと思って1年経ったけど、また忘れていた。
だけどこうして文にしたら、あの時の気持ちを思い出せた気がする。
まあ、いいんだ、また忘れたらこれ読んでやり治せるように、今日はブログを書いた。そんなにすぐは治らない。
みんなの話、今度はちゃんと聞かせてね。