美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

人生の清算をするために、大人がしてくる話に私は傷ついてしまう

 

私のためを思って大人のしてくれるアドバイスはその人の生き方が詰まっている。


幸せな人も、幸せになれなかった人も、後悔のない人も、後悔だらけの人も、それを振り返って22歳の私へ語りかけてくる。


私が持っていて彼らにないのは若さであって、それは彼らが振り返っても手に入れることができないものだからだ。そして、それを彼らはかつて確かに持っていたからだ。それは同時にわたしがいつか失うものでもあるということだ。


私に大人たちが語りかけるとき、それはわたしにではなく、若い自分に、言いたいことを言っているのだと思う。


私という、若い人形を通して、彼らが見ているのは若い自分自身なのだと思う。


そして今の自分を肯定したり、あの時の後悔を無くしたりしたいために、私に語りかけるのだと思う。


私は悪気がない彼らのアドバイスに真剣に耳を傾けて、彼らがしていく 人生の無常な答え合わせに、深く傷ついてしまう。


協調や平穏が大事で我慢してきた人は、それが大事だと説く。あまり幸せそうじゃないけれど。


好きな人生を生きなかった人は、好きな人生を生きない大切さを説く。


大学院に行った人は行ったらいいというし、4年で就職した人は馬鹿らしいという。


一番好きな人と結婚したけど、結婚はそういうものではないから、二番目に好きな人にすればよかった。一番好きな人はやめた方がいい。


そんなことを言われても、それは一番好きな人と結婚したから言えるセリフであって、それが羨ましい。冷酷なネタバレをするのはご法度だ。私はそうなりたくないけれど、なったとしたらなったとき考えればいい。

 


脆くて壊れやすい私は、そういうことで生きるのが楽しくなくなるのだ。たまらなく無意味に感じる。

 

もちろん人生楽しいことばかりではないのはわかるけれど、楽しく豊かに過ごそうとしている人の話を聞くのが好きなのだ。そういう人たちの多くは、ああしておけ、こうしておけ、と言わずに、やってみろ、好きにやれ、というのを私は知っているし。

 

私にああしろこうしろ言ってくる彼らの多くには悪気はなくて、私に幸せになってほしいという気持ちから言ってくれることなのだろう。

 

だから、その気持ちを受け取る、というのが正しい選択肢なのだと思う。私はこんなブログを書いて、自分の考えを持っているようだけど、脆くてぐらつきがちで、自分の生き方と異なる生き方をしてきた人の声を聞くと、ブレてしまう。

 

だからこうして、言葉にして、残して、覚えておくことしかできない。ひたむきだけどささやかだけど確かに、自分を幸せにしてあげられる哲学を、あたためたいとおもう。

 

今度から大人にそういう話をされても、川の流れの中でどっしりと構えた岩のように、おおらかにあって、わたしの生きる歓びが、削り取られないような、態度でいたい。