美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

理不尽や悪意が許せないし、アンパンマンは来てくれない。それなら私は、最大限に魅力的な私になることしかできないし、それが真理なのかもしれない。

理不尽に耐えられない。昔飲食のチェーンで初めて働いて、ホールに出て5分でお客様を通す順番を間違えて(これは私が悪い)、後ろに並んでたおじさんが大声で怒鳴って、そのままお一人なのに、4人用のテーブルにドカンと座って怒ってしまった。店長が出てきて、謝罪をしていた。

 

慣れるものなのかもしれないが、私はそのお店を他の事情も色々あり、逃げるように辞めたので慣れなかった。2年前の出来事なのに、未だに胸が締め付けられる。弱すぎる自分の心が嫌になる。周りの友達はそんなチェーン店のクソみたいな大人とのやり取りも受け流して、社会に溶け込んでいくのに、私は、ひとつひとつのことが嫌で露骨に傷ついてしまう。

 

思えばわたしと接する大人の人は、いつも優しかった。私は子供で、大人は父や母の知り合いだからだ。私は社会の一員として大人と触れ合ってきたことがなかった。大人はいつも真面目で、社会のルールを守り、子供より優れているし、間違ったことをした奴は誰かが叱ってくれると思っていたのだ。

 

子供の頃見ていたアンパンマンのいい子にしようねビデオがあって、それはドキンちゃんがスーパーでワガママ言って泣いたりわめいたりすると、アンパンマンがたしなめる、皆よいこにしようという内容だった。

 

アンパンマンが教えてくれたほど、世の中はまっすぐじゃない。アンパンマンのビデオで4歳の時に教えてもらったことが体現されてない。大人は理不尽なことを言っても、今の社会システム上、アンパンマンはたしなめてくれないし、素直に聞くしかない。(個人営業主、頑固オヤジの学生街の定食屋とかは、気に入らない客は追い出すしいいと思う。あと八百屋のおっちゃんと、おばちゃんの間柄もフラットな気がする)

 

ひとつひとつの正しい、正しくないのジャッジがされずに受け流す、末端の人間が我慢をする。そのことが効率的なんだろうか。

チェーン店は大きなシステムから逆らうことが出来ない。マクドナルド化する世界、というのは社会学の領域で叫ばれたりするけれど。

 

飲食チェーンでのバイトは私は、3店舗の管理をさせられてるクマだらけで今にも死にそうな店長、病み散らかしたパートのおばさん、そしてADHDマルチタスクが極端にできないわたし、理不尽な客ショックが治らない、などの問題で2ヶ月ほどで辞めてしまった。根気がないと言うだろうか。そんな理不尽もよくある事だと、どうして慣れられなかったのだろうか。

 

アンパンマンが来てくれない。アンパンマンは来てくれない。

 

 

なんで私はこんなことを思ってしまうんだろう。甘やかされて育てられたからであろうか。私は父や母の「気分で」怒鳴られたことは無い。多分それがとても恵まれて来たことであるのはとてもわかる。一人の人間として、注意したり、叱ったり、たしなめたりしてくれた。何かあったら聞いてくれた。

 

だから、たまに駅とかで子供を「いい?だめ!わかった?こっち来るの!」と犬に言うみたいに声を荒らげることや、強く揺することで言うことを聞かせようとするお母さんを見る度(彼女たちが大変なのはわかるけど)胸が痛くなる。

 

私の常識が社会の常識ではないし、社会の常識はアンパンマン子供向けビデオのように出来てる訳では無いけれど、社会や人間、大人に対する一方的な期待や理想が大きすぎて、胸が痛くなる。

 

大人は正しい、余裕があって、悪口は言わないと思ってきた。大人になればそういうふうに自分もなれると思ってきた。(小学校の先生がいつも正しいわけでもなく、理不尽な事で怒ったりしたことに私はムスッとしてたことを思い出せばそんなことは違うとわかるのだけど。)

 

でも、大人になれば、立派になれると思っていたのだ。素敵な、ディズニープリンセスみたいな、心豊かなレディに、みんななっていくと、ぺたんこの胸と、どろびいた丈の長いドレスを着て、いつかヒール付きのガラスの靴を履きたいと思っていた私は信じていたのだ。

 

剛力彩芽が、素敵な彼を見つけた。お金もちだし、前妻がいるのも分かるけれど、私はあの彼の笑顔や雰囲気を見てると、17の年の差を超えて彼女が彼の人間性に惹かれるのは感覚として分かる。だいたい、お金目当てとか、初めて付き合って舞い上がってるとか、そんなことは外野が言うことではなくて、前澤氏が構えたカメラに写る彼女の顔をみたら言葉なんていらないだろうと思う。だって、めちゃくちゃに可愛くないですか?

 

オスカーの中で25歳まで恋愛禁止のルールを守って(そもそもこのルールがどうなんだという話はさておき)めちゃくちゃ好きな人と、めちゃくちゃ楽しいデートしてて、とっても可愛いじゃないですか。

 

交際の様子を見せびらかすことをワイドショーで、コメント欄でおっさん達が袋叩きにして、楽しそうな投稿を全部消させたり、剛力彩芽バーキン持ってるだけで、「バーキンが可哀想」とか、「こんなにバーキンが似合わない人初めて見ました」とか、コメントつくだけで、なんだか私が傷ついてしまう。

 

めちゃくちゃに傷つく。本当に悲しい。剛力彩芽バーキン持って彼氏とデートすることが許容されないの本当に悲しい。大人ってそんな人なんですか。私は悲しい(今現在も書きながら泣いてる)

 

てかなんだよ、払ったお金が剛力彩芽とのデート代になるならZOZOで買い物したくないって…うるせえええええ!!!!

めちゃくちゃにきれている。この剛力彩芽を叩いたことについては、1年くらいキレてる、全然関係の無い私がずっと悲しい思いをしている。勝手に悲しくなってバカみたいなのに悲しいのだ。人を信じすぎたのだ。

 

半年くらい前、はあちゅうがしみけんとの結婚生活を漫画にしているインスタアカウントのストーリーに写真を載せたら「顔デカ!」という返信が来て、はあちゅうは耐えられずそれを晒したのだけど、私はその悪口を言ってきたアカウント(鍵)のアイコンが、6歳と4歳くらいの女の子と男の子が抱き合っているものだったことに衝撃を受けて、思い返しては定期的に暗い気持ちになっている。

 

大人はいつも立派だという幻想以上に、母親はいつも正しく母性に溢れなくてはいけない、という幻想は、母親たち自身を苦しめてきた。それは100も承知だ。

 

悪口を言ってくる独身男性、独身女性より、子供のいる女性の方が酷いというのは、レッテル張りであると思う。

 

でもこんなに可愛い子供が2人もいるおかあさんが、はあちゅうにDMで顔デカっていうんだ、、、、ということで、私は悲しいと思ってしまう。多分このお母さんは自分たちの子供にはルールやモラルを守ったりお友達をいじめないようにとはそれなりに注意をすると思うからだ。

 

完璧な人間はいない。そのお母さんも普段は二人の子供に手をやきながら一生懸命生きてて、ふとはあちゅうに「顔デカ」って送りたくなったのかもしれない。そう思うことにした。

 

だけど、わたしは、アンパンマンが小さい頃教えてくれたようには社会は出来ていないという事実が納得出来ない。たとえそのルールを守れない人がいても、みんながアンパンマンになって注意して欲しい。大人はアンパンマンを見ないんですか?大人にも見せてください。

 

人の悪意や理不尽に傷つき、リアルな世界で生きていくことが出来ない。多分私が信じる世界の方が虚構で、現実の世界で理不尽があり、悪意があり、それを認めて生きる方が、「正しい」とも言える。

 

だけど私は信じてるのだ。もっと優しく、しなやかで幸福に満ちた社会であることを。それは一方的な理想像を押し付けているに過ぎない。勝手に世の中のいろんな人に期待して、それと違ったからと言って自分に向けられてもいない悪口に勝手に傷つく。

 

世の中のものひとつひとつを裁き正せるほど、私は偉くない。アンパンマンでも無い。そもそもアンパンマンバイキンマンを殴ってるけどアンパンマンはなぜ正しいんだろうか。

 

そんなことを考えるほどみんなは暇ではなくて、社会に出て働いていて、大学院に進んだ私は平日の昼間から天井見つめてこんな文章書いている。

 

私は何をしたらいいか。それは多分、私は理不尽を言わない、人に傷つけることを言わない。そういう自分になることしか出来ないんだろうなと思う。その佇まいこそが最大限に幸福を産んでいく、方法なんだろうなとおもう。

 

私だって母にたくさんの理不尽を強いてきた。今まで私は誰かに1度も理不尽な態度をとったことはないだろうか。口には出さない迄も、嫌いな芸能人 ブス で検索したりしたことは?その心に通うものの違いは? 心の中で人を見下したことは?

 

ここまで追求すれば私は宗教家にでもなるつもりかと思われるかもしれない。だけど私は小さい頃に憧れたプリンセスのように、ただ自分1人の佇まいだけでも、そうした理不尽のある社会をヒーリングできるのではないかと思う。

 

この前アンミカがモデルという職業は内面がハッキリと出る仕事ですと言っていたけれど、それは一人一人に言えることで、ものすごく神聖な雰囲気だったり、全てを受け流すような寛大さを持ってる人に出会う度に、私達は自らの小ささを感じることがある。

 

そういう雰囲気こそが、まとえたら、素敵なことだなと思う。

 

私はそういう猥雑とした人の汚い部分に目くじらをたてる前に、もっと綺麗なもの、自然、美術、文学、おいしいものを食べて、豊かな人間になるしかないなと思う。だってみんなコントロールできるのは自分だけなのだから。

 

悪口を見ない、言わない(たとえば同期と仲良さそうにしている新卒同級生のストーリとかを見て、わたしには無理だわーwとか心の中で思って社会に出た人達への嫉妬と焦りを、自分は変わり者だからというdisで、尊敬しないなどということを辞める)(美人ちゃんは心が美人で無さすぎる)

 

という綺麗事の結末に行き着くとは思わず書き始めて、もうすぐ4000字に至る。でも、私は文章を書きはじめると、最後にはこうしよう、私はこうしたかったんだ、というものが自然と浮かんでくる。

 

瀬川おんぷになりたくて気がつくと私は泣いていた - 美人ブログでもそうだけど、最初はおんぷちゃんになりたい!という怒りと悲しみと嫉妬から巻き起こっていた気持ちを通して、私はそれでもどれみちゃんが好きだしそう言う生き方がしたいんだということに気がつく。

 

書く、というのは自己との対話だ。答えはいつも自分が知っている。コーチングをするように、私は今何を思ってるの?何に怒ってるの?わたしは何が出来るの?そう思って絞り出すのとが私の中の本当の答えなのだ。

 

まずは人に説教する前に、自分の部屋をピカピカに磨きあげたい。自分を磨くことしか人生は出来ないのだ。佇まいで、理不尽をぶっぱなせる人になりたい。

 

もちろん不条理には怒ってもいいし、追い詰められたら辞めてもいい。自分が最大限に幸福になることを望んでいい。悠然とすることにコストはかからないけど、忍耐はコスパが悪い。

 

人生は自分との対話のためにあるのだ。