美人ブログ

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新海誠『すずめの戸締り』を見て 前編 〜父なるものと母なるものを返した先で、私たちは~

母なるものと父なるものを超えて、私たちは何になるんだろうか。

 

新海誠監督の『すずめの戸締り』を見た。

この作品は視聴前から想像していた通り、『君の名は。』『天気の子』に続く新海誠三部作のマスターピースであり、完成形だと思った。この作品によって、新海誠は彼が描き出し、開け放った世界の「戸締り」を完了させたといえる。

 

家畜人ヤプー』と『すずめの戸締り』

主人公の男が椅子に姿を変えられる作品として想起されるのは1956年から『奇譚クラブ』に連載された、沼正三の小説『家畜人ヤプー』だ。私が『ヤプー』未読なのが、この文章を書くにあたって、本当に忍びないのだが…。日本人の男性が女性上位の未来帝国に迷い込み、身体改造をされ人間便器になり恋人の白人女性に"全面服従"をするという、SF・SM小説である。

英文学者の河野 真太郎が文藝春秋のコラムの中で、『ヤプー』に触れているし。((3ページ目)『すずめの戸締まり』男性キャラが独特だが… 作中最大の謎・ダイジンの「正体」を考える意外な“ヒント” | 文春オンライン)

 

また、新海誠の配偶者である役者の三坂知絵子は、『家畜人ヤプー』が舞台化した時の初演のキャストを務めている。(国際暗黒プロデューサー・康芳夫が語る“怪優業”と『家畜人ヤプー』を書いた覆面作家の正体!!|日刊サイゾー)(三坂知絵子 misakachieko on Twitter: "月蝕歌劇団公演「家畜人ヤプー」、本日初日です!三坂は今回は出ておりませんが、16年前の初演に参加し、とても思い入れのある作品です。是非!10月30日19時半、31日14時と19:15、11月1日14時と19:15。ザムザ阿佐谷にて。 https://t.co/C793gpbDGI" / Twitter)

 

やはり、『すずめの戸締り』に『家畜人ヤプー』の影響が一切なく、新海誠がこの作品を全く知らないことは考えづらい。

 

新海誠はインタビューで、

やはり笑いの要素もあるエンターテインメント映画にしたいという思いもあったので、少女の隣に立っているのはかわいらしかったり、動いているだけで微笑ましくなるような存在にすれば、エンタメとして成り立つんじゃないかと。そうして考えていく中で“3本足の椅子”が生まれました。

映画『すずめの戸締まり』公開記念インタビュー。新海誠が「いまでなければ間に合わないと思った」、作品に込めたテーマを語る【アニメの話を聞きに行こう!】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

 

と答えているが、本当に少女の隣にいる動いていると微笑ましくなるキャラ、として「3本足の椅子」を抜擢したのだろうか。

 

私は、椅子の足が4本足ではなく「3本足」で「欠損」を抱えてる点も含めて、不完全な男性の自己侮蔑のイメージとして機能しているように思う。上記のインタビューで新海は「無機物をパートナーに選ぶ」という選択肢として「牛乳パック」が存在したということも明かしているが、やはり牛乳パックでは「お役目不足」だろう。

 

足が一本足りないながらも精一杯「女」を支える「男」の描写は、やはり独特の性的なニュアンスを持っていて、巫女の口噛み酒でトリップし、ラブホテルで世界と彼女と俺のことを考える新海誠にしか描けない気持ち悪さだったと思う。安定の気持ち悪さである。

 

作中には、椅子になった草太がすずめに抱えられて、座られたり、踏み台にされたり、「すずめの椅子」宣言をされたりと、大いにフェティシズムを感じる描写がある。「子供達に愛されるマスコット」として草太(椅子)をアピールしながら、全国ロードショーが敢行される新海誠映画の持つ影響力には慄くばかりだ。

 

なぜ草太は椅子になる呪いをかけられたのか

男性主人公である草太は猫のダイジンの「お前は…邪魔!」という言葉を受けて椅子になってしまう。(予告40秒〜)

私はこの猫には不釣り合いの名前の「ダイジン」を父性の象徴だと見ている。

 

 

英文学者の河野真太郎も、週刊文春オンラインの記事で「ダイジン」と父なるものの関連性を述べている。

((5ページ目)『すずめの戸締まり』男性キャラが独特だが… 作中最大の謎・ダイジンの「正体」を考える意外な“ヒント” | 文春オンライン)

 

河野は本作における「父の不在」を示すのが「ダイジン」の役割であり、この国の政治における大臣=政府(男性的政治)への希求が存在していると述べている。

 

たしかに、その側面もあるだろうが、「ダイジン」は「父の不在」というよりも、私にはむしろ「父性の権化」のように思える。また、『すずめの戸締り』という映画自体が、この国の政治や終わりゆく街や廃墟を描きながら、新海誠自身の物語を綴っているように思えてならないのだ。


もう一度予告の草太が椅子に変えられる場面を見てみよう。ダイジンは「すーずめ!好き! お前は…邪魔!」という言葉を発し草太に呪いをかける。このセリフは、青年が「父なるもの」を凌駕し「母の奪還」を叶えることができず、男性としての未完成さに不甲斐なさを抱いていることを描いているように見える。「椅子になる」というシチュエーションは、単に異形の姿に変えられてしまう、というだけでなく、マゾヒスティックな自己侮蔑の象徴でもある。父なるものを越えられなかった「大人の男性」になれなかった存在こそ、椅子になった草太なのではないだろうか。

 

草太の家系は閉じ師としての代々伝わる仕事を持っている。作中で入院している草太の祖父に会いに行こうとするシーンがあるが、「こんな姿では会いに行くことができない」と閉じ師としての仕事に失敗し、椅子になった自分の姿を恥じ入る。自分の今の状況を家長に見せることができない、というのは家族の中で代々望まれてきたような「大人の男性」になりきれなかったことの暗示でもある。

 

 

新海誠の実家は長野で建設会社を営んでいるという。父親が3代目で年商70億円もの会社に築き上げた。父親がインタビューで語るように、新海誠は4代目としてこの家業を継ぐはずだった。大学卒業後は、父の斡旋した住宅メーカーで働くはずだったが、それを断りアルバイト先だった日本ファルコムに就職し、退勤後に自主制作でアニメを製作し始める。(

「君の名は。」父が語る新海誠監督 “家業を継がせるつもりでした” | デイリー新潮

 

『すずめの戸締り』の作中で草太の友人の芹沢は、草太が教員採用試験の2次試験を受けなかったことに驚いて家にやってくるが、草太は椅子になってしまっているので受験などできるわけもない。

 

「椅子」には「不完全な男性性」というメッセージの他に、本作では「母性」と「つくること」というメッセージが付与されている。すずめが探し続けている「母親」が遺した、「すずめの椅子」。そしてこの椅子は母親の手作りである。看護師で、手先が器用でなんでも作ってしまうような母が遺した椅子の思い出を思い出す時、すずめは「大事なもの、いつまで大事にできていたっけ…」と呟く。物語の終盤、すずめが自分の生まれた土地に帰り、掘り起こした缶の蓋には「すずめのだいじ」という文字が書いてある。絵日記には、母に椅子をつくってもらった日の出来事が記されている。新海誠の母は、県の美術展で入選するような絵を描いており、母親似なのだろう、と新海誠の父は語っている。(「君の名は。」父が語る新海誠監督 “家業を継がせるつもりでした” | デイリー新潮

 

「椅子になった」草太は、母から受け継いだ「つくること」を諦めきれなかった新海誠自身のことではないのだろうか。祖父に顔向けできず、教員採用試験をブッチし、それでも「だいじ」が手放せなかった、自己侮蔑を含んだ椅子。

 

「閉じ師」の仕事とは一体なんだろうか。インタビューで新海誠は日本の中の終わりゆく土地や場所を弔う映画にしたかったと、述べている。

映画『すずめの戸締まり』公開記念インタビュー。新海誠が「いまでなければ間に合わないと思った」、作品に込めたテーマを語る【アニメの話を聞きに行こう!】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

 

しかし、新海誠は本当に「終わりゆくもの」を弔おうとしているのだろうか、とも思う。人々が忘れ去った「聖域」に忍び寄るミミズをすずめと草太が、その地にいた人たちの声に耳を済ませ扉を閉じる時、「鎮める」と言うよりもむしろ、「護る」というイメージを受けた。

「戸締り」という言葉は、終わりゆくものに対して行うというより、家の中を外から守りたい時にするものでは無いだろうか。侵入してくるミミズは、マチズモや男性性、父権性だと言える。その聖域を護り、1人で閉じてきたけど、これからは、天の岩戸を象徴するお嬢さんと僕で閉じていきたい、という要望が詰め込まれているように思う。思春期の男女の恋愛を永遠のものにしたい、というニュアンスは、歴代と新海誠作品からも十分に伝わるのでは無いだろうか。

 

つづく