美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

親が死ぬまで自我持っちゃいけないと思ってた

ママとパパが死んだら、ものを書く人になろう、と思っていた。そのことを明確に思い出す。10代の初めの頃ぼんやりと妄想したことだ、神話の中で扱われる「親殺し」と言われる儀式が存在することを知らなかった私は、親が死ぬまで待たないといけないと思った。

 

私が40歳になったら親、70歳かー何歳から書けるかなと思って、親がいつになったら死ぬか考えたことがあった。だから想像より早く母を亡くしてしまった時に、私がそんなことを考えていだからかと、心苦しくなった。今日、ふと、母は亡くなり、父は新しいパートナーを見つけ、実質そんな状態になったじゃないか、と思って、ぞわりとした。私が少し考えてしまった未来が、20代半ばで叶ってしまった。

 

子どもの頃から、いつか、エッセイを出したい、いつか、小説を書いてみたい、と思っていたけど、それが親の目に触れることを思うと、私はものを書くことができなかった。

 

パパとママが気に入らないものを書いてしまうと思ったから。本当に思っていることを書いたらパパとママを驚かせてしまう。特にママはだめだ、ママが認知しない自我を生きていることがバレてしまう。なるべくバカで何にも考えないふりをしていることにしたい、ママよりものを考えているのがわかってしまうのは罪深いと思った。

 

いつか〇〇になりたいと思って何もしない人はよくいる。私は、子供の頃いつかエッセイを書きたいと思っていたけど、何か文章を書いたり、執筆をするということをこのブログを書くまで、一度もせずに歳を重ねた。それはいつか自然にそんなことが起きるかもとか、挑戦して敗北が現実になることが怖いとかそんな段階の話ではなくて、創作そのもの、特に文章を書くことで、自我があることがはっきりするのが申し訳ないと思っていたからだ。そもそも、文章による創作行為自体に罪悪感があり、それ以上の夢を見る余裕がない。自我に気がついてしまうのがこわかった。本を出すことを目標にするよりも、それを嬉々として親が読む、手に取ることを想像すると物書きを目指すことなんて考えられたことがなかった。なんだろう、ものを書くことは、内面性のAVデビューみたいな感じがあるからだろうか。しかもなんか歓迎されて読まれたりとかするじゃん。親親族にあんまりバレたくないと思うんだよな。親に自分が書いたもの絶対に見られたくなかった。まあ全然親が読む文章書きますが。

 

親には読ませられない、どうせ理解できないと思える文章の方が本物かもしれないよね。母は私の部屋勝手に清掃していたのでノートに原稿を書くという行為は現実的でなかった。母が死んだ後、私が捨てたはずのノートからページを切り取ってファイリングしててゾッとした。

 

私の中高って成績別のクラス分けなんだけど、好きな人と一緒のクラスになりたいから勉強頑張りたいって書いてたページだった。もしそういうページを見つけても、あえて見なかったことにする美徳を持って欲しい。私は最近母の手帳を処理してるが、あんまり熟読せずに思い出だけど潔く捨てたわ。母の行動は、美しくない。

 

母の手帳は新婚当時の父の機嫌がいい♡かわいい♡とか帰りが遅い心配!とか、ままごとみたいな内容しか書いてなくて、メルヘンな自我キッツ、と思ったりした。このまま大人になるのは私は苦しいと思う。父も──ていうか私たちもこの自我の女性の言葉の世界に囚われるのはものすごく大変だったと思う。幼い。

 

母がいるときは、自分で何かものを書いてみようという気は起きなかった。どうせ原稿なんか見つかって読まれるし。別に本当にやりたきゃパソコンで書けばよかったんだけどさ、親に見られたくない自我を隠し通せる感じがしなかった。そもそも、自我があるの申し訳ないと思っていたのよ。グロい何かを書くとかより、エロい何かを書くというより、それ以前に知性の方が私は怖かった。親を超える知性があることが申し訳なかった。

 

想定より何かを知っていると思われることが怖い、子どもだから大人よりものを知らないと思われているので、いつもそれを超えないことを心がけてきた、いつだって本当は分かっていたけど、ごまかしてきた。そういう話を何回かに分けて書こうと思う。

 

幼い頃から、人はなんで死ぬのか、人はなんで生きているのか、私はなんでここにいるのか、そんな疑問が湧いていた。だから不安だった。でも、母親はそれに答えうる自我を持っていなかったから話さなかった。だって、聞いたことなかったけど、もし、「なんで生きてるの?(我々は何故生き、死んだら無になり、それが怖い、夜になるたびに心細い、という気持ち)」って聞いたら、「それはパパとママが美人ちゃんに生まれてきて欲しいって思ったから!美人ちゃんが大好き(ぎゅー💓)」みたいな雑メルヘンマザー返しをされることが目に見えていた。そんなことを想像していたのは弟が生まれる前だから、まだ幼稚園児くらいだったと思う。

 

仕事が忙しく父長期不在のマザーワールドにおいて話がめっちゃ噛み合わん人が他者としているのが怖かった。ていうか私は母をあんま噛み合わん他者だと思っているのに、母は私を他者だと思っていないから互いに遠近感がバグってて、私はものすごく孤独だった、背後にはいつも夜と死が迫っていて訳もなく号泣をした。母はそんな理由なきヒスで泣く私に手を焼いた。

 

小学3年生のとき、「モチモチの木」を読んだときに、夜になると雪隠(せっちん)にいけない豆太を見て自分と同じタイプの人間か!?と思ったけど、違った。残念ながら豆太はトチの木が怖かった。ちげーんだよ、トチの木とか具体的な怖さじゃないんだよ、この木がお化けみたいで怖い!とかそういうありきたりな話じゃないんだよ!もっと根源的な不安とか恐怖とかこの世に生きている心細さとかが夜になると襲ってきて、そういう怖さで雪隠行けなくなるかと思った。豆太と恐怖は分かち合えなかった。

モチモチの木は小学3年の国語の教科書のかなり「トロ」的な部分で重点的にやる。最後は小2の形に向けて紙人形で人形劇をやったりした。モチモチの木が月に照らされて明るく光る描写、勇気を振り絞っておじいちゃんのために医者を呼ぶ豆太のシーン。割り箸にくくりつけられた、色画用紙で作られた明るいモチモチの木、その脇でひょこひょこと動かされるかけ出す、こちらも割り箸にくくりつけられた豆太の絵を思うたびに、豆太だけ具体的な恐怖を克服して、幸せになって、恨めしかった。私はずっと、豆太に対して「木が怖いとか具体的すぎてダサすぎる、根源的恐怖について考えろ!」と思っていた。

 

だって私が豆太と「夜、雪隠行けなくない?」って話題で盛り上がって、こっちは、この世に生まれでた不安とか、いつか終わる日のこととか、自分の存在意義(自分なんか役立たずだ!とかではなくてそもそもなんでこの世にいるのかみたいな居心地の悪さ)について共有できるかと思ってワクワクしてるのに、豆太に「トチの木が…」って言われたら、ショックだけどバレないように適当に相槌を打つと思う。同じ悩みを同じ視点で共有できない地元の友人みたいな感じのリアクションになる、私は豆太と友達になれないし、この世界に一人だけの気持ちになって、さらに孤独を極めるだろう。そして私はこの出来事を「トチの木ショック」と命名するだろう。

 

この世に「いる」って感覚何をもって確かめたらいい?「死んだら無になるのかな?」という「この世のレビュー」みたいなことを共有できる人をずっと探していた。自分だけがすごく遠くにいるようで、怖かった。そのことを子供が疑問に思っているなんてみんなミリも疑っていない、犬猫などの愛玩動物のように、純真無垢で何も考えていない存在だと思って扱われていること、半人前だと扱われていることが怖かった。

 

この世に「いる」って不安についてどう考えてる?ということを共有できないと、私は動物といても孤独かもしれない。──もちろん、動物はそんなことを受容れて、しばしば人間が気づかせてくれない時間の過ごし方を教えてくれる存在であることもあるだろうけど──私は温もりより、不安を知って欲しい気持ちの方が強い。だから多分、動物より、本の方が好きだ。あと人間の方が好き。子どもより、大人の方が好き。温もりは私の不安の救済にならないときがある。作ったり、書いたりしているときは楽。読み手がいてくれると嬉しい。子どもや動物は、読めないから。あと、翻訳したり語学を学べばいいかもしれないけど母語での言語表現で世界を認知しているから、国際交流みたいなものにも興味がなかった。動物の温もりより、肌の温もりより、読み、書き、の方が安心感をくれる。薄情な感じがして、それが今までずっとコンプレックスだったんだけど、認めようと思う。私にとっては近い言葉の世界にいるかどうかというのがとてつもなく大事だ。

 

幼稚園の時に仲良しの3月生まれの女の子が、年長さんになっても字が読めなくて、周りの子に読んでー、と言っていたのを聞いた時に、ものすごいショックを受けたことを覚えている。それまで彼女が字を読めないのを知らなかった。言葉を選ばずに言えば同じ人間だと思えなかった、動物が幼稚園に混じってると思った。それはあまりに衝撃で、今まで何年も仲良くしてきたのにその子がとても遠い存在に思われて、なんだかものすごく裏切られたような気持ちになったのだ。それは私は言葉と文字によって世界を認識していたから、字が読めなかったことは、彼女は同じ世界の中に居ない感じがして、今まで仲良くしてきたことが信じられなくなってしまった。言ったらいけないと思ってたことだ、今初めて書いた。

 

嫌すぎるこんなことを考えてしまった5歳の私が嫌すぎる。こんな話が…続きます…。