美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

想像力と、面白さを見出す力ってしあわせに生きる根源的エナジー

 

「ま、敵うわけないわな…。」と思い、1人ため息をつき、私はアンティークのインテリアショップの前に佇んでいた。目の前には、1950年代、60年代の米国のカルチャーを模した、ポスターや看板が並ぶ。それからインテリア用の昔の空き缶や空き瓶も並ぶ。私の脳内では、「アイフィ〜ル コ〜ク♪」と、1980年代の日本のCMが流れている。

 

 

ま、このCMをつくった人たちの憧れの源泉には、こういうアンティークショップに並んでいるものがあるのだろうな、と、勝手に想像を膨らませる。

 

福生に来たのは、私が好きなユーミンに縁のある土地だったからだ。多摩で生まれ育ったユーミンは学生時代、親が米軍基地に勤めている友人のツテで、横田基地に潜入し、アメリカの洋楽のレコードを買って音楽的素養を育んでいた。今年六本木で開催された、ユーミンミュージアムでも当時基地で買ったレコードたちが、展示されていた。そのレコードたちは、深夜多摩の実家を抜け出し、六本木の飯倉片町まで1人向かい、華やかな音楽業界の大人たちの興味を惹く素敵なプレゼントにもなった。

 

そんな、私の好きなものの源泉が、福生にはあるような気がした。冒頭の、「敵うわけないわな…」という心の声は、前回ブログに書いた出来事に登場する、私より7つも上の青年についてのことである。

 

このブログの中で軽く触れた、彼が狂おしいほどに嫉妬し憧れていた、とある音楽イベントを主催していた人のことを思い出していたのだった。

 

「あの人たちのイベントが東京ディズニーランドなら、こっちはナガシマスパーランドじゃ!」とコンプレックスを大爆発させていた。前回のブログを読んだ友達が、勝手に彼を「ナガシマ」と読んでいたので、私はここでは、ナガシマと呼びたい。

 

ナガシマさんが狂い嫉妬してしまうイベントを主催した彼と私は、直接の面識はない。わかりやすくここではトウキョウさん、と呼ぼうか。しかし、以前そのトウキョウさんが、とあるメディアに自室を公開していた際に、1950年代60年代テイストのアメリカのポップな雑貨も並んでいたことを思い出したのだ。だから、そのアンティークショップの陳列を見て、あ、トウキョウさんの部屋には置いてそうなものだな、と思った。

 

トウキョウさんは、80年代の作り手たちが好んだアメリカの50年代60年代のカルチャーも取り入れられる人だ。うっすらとしか思い出せない彼の部屋の様子を辿ると、その趣味からはほのかに福生のニュアンスがした。私は今日初めて福生に来たけど、この辺りのお店のことも、名前くらいは知っているのではないか。しばしばメディア取材を受ける昭和の日本の音楽が好きな若者たちって、部屋がアイドルのレコードとか、ファンシーグッズに行きがちで、アメリカのアンティーク製品まで到達している人ってそんなに多くない気がする。あとイギリス由来のレトロな感じ…。すごく雑な言い方だけど、スウィンギング・ロンドン的な文脈のものたちも可愛いと思うし、ユーミンが好むものでもあるけど、そこと歌謡曲カルチャーが地続きな人もあまり多くない気がする。

 

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先にも述べた、今年の初めに六本木で行われていたユーミンの展示に、現在のユーミンの部屋を再現していたブースがあり、クリムトの「接吻」の表紙のノートや、英国産の顔がついた可愛い掃除機、ヘンリーを模した鉛筆削りが置いてあった。それから、「クリエイティビティが湧く」とユーミン自身の強い意志のこもったキャプションのもと、金属のバッジのようなものがたくさんついた謎のシリコン素材の帽子も飾ってあった。まあ、そういうこともあるよな、と私は思うタイプなので、しばしば思い出しては、にやついている。ヘンリーの掃除機も欲しくて、今は貯金中である。可愛いよね。吸引性もあるらしい。

 

 

私はユーミンと、ユーミンを好きな人が彼女の曲と共に持つ思い出と、ユーミンが少女時代から現在まで好きだったもの、全て地続きで、興味があるのだ。あまりにユーミンユーミン言うと、バブルのハイソカルチャーかぶれ大衆迎合ガールだと思われるが──まあそうですが──ユーミンの作品は、私小説であるし、聞いている人にとっての私小説でもある。だから、時代に物語を与えた彼女の目に映ったものを見てみたいのだ。「私小説を極めてみたい」──これは私のテーマでもある。生活が、好きだ。人との出逢いや、一緒に過ごす時間や、食べること、繕うことや物語ることが大事だと思う。個人の思い出が、触れられるものが、なにか大きなシステムに一矢報いるところをこの目で見てみたいと強く思うのだ。

 

この町で少女時代のユーミンは何を見て、何を感じたんだろう。私の肩からぶら下がるピンクハウスの50周年記念展で買ったクリア素材のポシェットの中には、ユーミンのエッセイが入っている。手にぶら下がる可愛いロゴの入ったビニール袋には、ガーリーなアンティークショップで買った1960年台のファイヤーキングというブランドのミルクガラスのマグカップを手に入れた。

 

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こういうものが好きだから、偉いというわけでもない、ただ、好みだな、と思う。別に、私も最初から知ってたわけではなく、素敵だな、好きだな、と思う友達や、大人たちから教えてもらった趣味やテイストたち。彼女たちがくれた本とか、プレゼントとか、連れてってもらった場所から少しずつ知ったニュアンスだったりする。

 

マグカップを買ったアンティークショップのインスタをフォローしようとしたら9000人ほどのフォロワーの中に、私とほぼほぼバディのような感じで仲の良い友人がいて、「ああ、まあそうですよね。」と思った。まあ、そうなのである。結局趣味趣向というものは、ある程度の共通するバックボーンや、みている世界観が影響するのである。と、思う。

 

大学院で中途半端に社会学をやったせいで、すぐ、文化資本とか、階級闘争のことばかり考えてしまう。好きなものを好きなように好むと比較的親から愛され人間の好きなものとか、親豊め人間の好きそうなものとか、親のあれこれとは関係なくても、ずばぬけて頭がいいとか、好奇心旺盛とか、単にセンスがいいとか、あとは都会育ちとか、そういういろんな要素。はーぁ、不平等不平等。ほんとかわいくないもの好きですいませんね。と思う。いや、私の好きなものはかわいいのよ?ここでの「かわいくない」とは、「いけすかない」と思われる可能性のことである。文化資本、について私は常に考えている。それは、「ない」ふりをしながら強烈に意識してしまうから。

お金があれば良いわけでもない。『東京カレンダー』や、タワマン文学みたいなのは好きじゃない。『danchu』とか、湘南のおうちのことを考えるのは好き。てんちむYouTubeは嫌い。杏と森星のYouTubeは好き。自分は「何が好きかわからない」、と言いながら、ひとたび好きなものがわかれば今度は自分がなんでそれを好きなのか考え始めて止まらない。だって、好きなものがあるって、何が嫌いかもわかる。

 

福生から帰ってからも、ボーッとベッドに寝転び、私は先日のナガシマさんのコンプレックスを叱りつけた事件について考えていた。ナガシマさんが憧れる、トウキョウさんは、有名大学を出て、エンタメ的な世界と近いお仕事をしていて、ちょっと小洒落たものが好きで、趣味の仲間たちと華やいだイベントを主催する。

 

以前メディアに出てた時、確かに私も彼のインテリアに「オッ」と思った。でも、私の"あっ、この人趣味ある側の人だな"って感覚と、ナガシマさんがトウキョウさんに持っている嫉妬や羨望って、もしかして、雲泥の差があるんじゃないだろうか。私が福生のインテリアショップで私がボーッと、店内のレイアウトを見ながら「こりゃ、ナガシマさんは敵わないぜ…この領域にいないもん…トウキョウさんのイベントに携わってる子たちは、背後に漂うこのカルチャーの匂いに誘われてるのもあり、はなから勝てっこないよ」と思ってしまった感覚のようなささやかな趣味の中に漂うテイストの機微なんてナガシマくん自身は全く把握していないのだろう。

 

有名大学卒で華やかな仕事をしていることとか、人気者なこととか、年下なこととか、なんかもっともっと、気にすることがあったのだ。書きながら私は人のコンプレックスについてこんなに書いていいのだろうかと思う。意地が悪い。個人情報も結構書いちゃったから、このブログはそのうち非公開になるはずとだけ、断っておく。

 

私は、多分生まれ持ったものやここまで生きてきたバックボーンはナガシマさんが狂おしいほど嫉妬してたトウキョウさんに近いと思う。それに、80年代のバブルの文脈に出てくるような、ちょっとオハイソ目のカルチャーが好きだし、単に金銭的なラグジュアリーさとかではなく、当時のアーティストたちが見ていたものを見たいと思う。それは歌詞の中に出てくるレストランや、演劇や、映画や、文学に触れたいと思うことだ。

 

私は、自分をナード側っぽく揶揄することがあるけど、実際の趣味趣向はかなり教養高め文化度高めエリート志向だわな、と気がつく。まあそりゃ当たり前ですよ…。上には上がいるとして、私が多少なりともそっち寄りじゃなかったら誰がそっち寄りよ…と思う。だから、私は私の領域を極めるのみだわ、と、思う。そう、私はユーミン安井かずみが歌詞の元ネタに使ったような事物に触れて生きていくのよ!はなから違うのよ!同じ音楽が好きだからって同じものを好きとは限らないじゃない!──先ほど読んだばかりの激しい口調のユーミンのエッセイに影響を受けたので、私は完全にエリート強者志向に心のハンドルをひねる。

 

──あー!!!もう!!!なんか景気がいいもん見たいな!よし!紅白のフィナーレでユーミン桑田佳祐がバカ踊りしてキスしてた動画見よう!あれ、景気がいいからね、風神雷神図屏風みたいなパワーがあるからね!

 

と思い、ベッドにゴロゴロして動画を検索し、再生する。ふと、関連動画のところに、桑田佳祐ユーミンが一緒に歌った「Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)」」の動画があった。これは1986年と1987年に放映された「Merry X'mas Show」という音楽番組がありその時に出演者全員が歌ったエンディングテーマだった。

 

それは、ナガシマさんが、教えてくれたものだった。「美人ちゃん、桑田佳祐ユーミンがやってた『Merry X'mas Show』って番組があってそこで『クリスマスだからじゃない』って曲を歌うのよ」って話してたのを思い出した。彼が『クリスマスだからじゃない』と、『Merry X'mas Show』の話をよくしていたことを思い出す。あ、私、ナガシマさんがいなかったらこのこと知らなかったんだな。私なんて、ナガシマさんが知ってること全然知らないよ。

ナガシマさん、ライブイベントにこだわってたの、これがやりたかったのかもな…と、やっと気がつく。彼のコンプレックスの部分ばかりつついたのは、それが私の囚われでもあるからだ。前回のブログを読んで共に大激怒してくれる女友達たちは、皆、努力家でストイックでそれは自分のコンプレックスを克服してきたから、向き合う力のない人間をこき下ろしたくなるのだった。私がそれに囚われているから、彼のそれが気になったし不愉快なのだ。

 

ベッドに仰向けになりながら考える、私がナガシマさんより、持ってるのは何?実績、学歴、教養、頭の良さ、ユーモア、人気、がむしゃらさや胆力──考えているとだんだん自分に自信が出てくる。私は常に足りない感じがするから足りないものに向けて努力で埋めようとするから、他の人に腹が立つ。「私は十分持っている」と思うと、余裕が出てくる。考える。彼の方が私より持ってるものは何?私が今持っているものではカバーできない、彼が圧倒的に持っているものはなんなのか考えた。

 

昔のテレビ番組への愛、特にテレビの話は、ものすごく詳しい。それに、ローカル局の話とか楽しい話たくさん聞いた。あと地域の飲食店や商業施設を大事にしている。長年やってた商業施設の閉館を見送った話も良かったなあ。あと、知らないことがあると、話の途中で手を上げて「〇〇ってなんですか?」知らないことをちゃんと言えて人に聞けるところ。

 

これらのことは私はこれから努力しても、彼に絶対に敵わない、と思う、私は私が持っているものをちゃんと見つめた時に、はじめて自分が絶対知り得ないことや持ち得ないものを持っているところがわかる。だから、下手な謙遜よりも正しい自負とプライドは持っておこう。あ、この人のそういうところを活かせなかったのは、私のせいだわな、これは、私が悪いな、と思った。

 

ゆったりと、じんわりと、さっきまでの考えが、どんどん凪いでいく。──これで良かったんだっけ!?!?本当に!?!?──私はガバッと起き上がり、本棚にある、都築響一のおかんアートに関する本を取りだす。

 

──なんか違う!なんかちがうかも!

 

おかんアートとは各地のマダムがやっているなんというかちょっと田舎くさくてダサいのだが時折いとしさも込み上げる手芸作品のことだ。愛らしくていじらしくてなんだか面白い。純粋に手を動かすよろこびがそこにはある。

 

 

この本の裏表紙に、都築響一は「ハイブローでもローブローでもない、ノーブローの明るい衝撃」というコメントを載せた。私はそれを指でなぞって確認する。

 

ただ、前だったらなんの迷いもなく「おかんアート最高!」って思ってた。でも、もう、実際身近に微妙なおかんアートを渡してくる人がいてもそんなに仲良くなれないこともわかってる。わかってきた。それを嬉しいフリをするのは無理している。いらないし、私は基本断捨離ガールなので、ひょっとしたら捨てる時もある。一緒におかんたちとものづくりをして楽しいかというと微妙かもしれない。

 

そう思うのは、最近地域のローカル飲食店でも働いていて──これは、私の修士論文の結論が、家事や食卓、他者との対話やつながりなどの領域が社会の中でもう少し居場所を持ってくれてもいいのではないか、そして中央の大きなものの都合で小さな選択肢や、ささやかに日常を手作りしている人たちが振り回されるのはおかしいのではないか、ということに至ったからだ。その答えを探すためのフィールドワークの真っ最中で、自分が過ごしてきたカルチャーとあえて違う人たちの輪の中に飛び込んでみたりしてる。馴染めなさも、重なるところも身体いっぱいで感じている。こう、渋谷公園通りギャラリーで都築響一がキュレーションするおかんアートと、実際におかんアーティストと私の日常がなじむかと言えばきっと違うこともわかる。

 

でも、断捨離の鬼のわたしが数多のものを処分しつつ、なぜか愛しくて捨てられず多分うちの納戸にいるのは小学校の時区民館のお祭りで手に入れた軍手の指先にワタを入れられた、五匹の猫になってるなんかかわいい置物である。おかんアートの中ではメジャー作品だという。おかんアート展で似た作品を見つけた時「あ、うちにもおるやんけ」と思った。なんなら「あたしも一個作ろうかな」って思った。憎めないのだ。その五匹の表情はHarrodsの熊のぬいぐるみより、珍妙で、誇らしげで、記憶に残る。ときたま世界はそういうふうにできているから面白い。

 

都築響一が、渋谷公園通りギャラリーでのおかんアート展で解説をするインスタライブをしていて、彼の話を聞くと、その全てが愛しく思えるから不思議だ。え、ちょっとこれ大丈夫!?みたいな作品だって、彼の目を通せば面白く、愛おしくなる。

 

詳しく忘れてしまったけど、端切れと、高級ブランドのリボンで作られた、金太郎の前掛けとか、謎すぎるんだけど、「これ見て、このリボンが〇〇のなの」と言いながら、微笑む都築響一を見ると、私も人が生きることとか、手を動かすこと、ただつくるのが面白いと思う気持ちを思い出してくる。おかんアートって、素晴らしい!でも、私はYouTubeで高級ブランドの紙袋をバッグにアレンジしたり、スタバの紙袋でブックカバーを作ったりする、おかんアート界のニューカマーには、びんぼったいな、ダッセーとか思ったりする。人というのは、げにげに難しい。

 

都築響一を知ったのは、2020年に開催されたドレス・コード?展である。

 

ハイ・ファッションやオートクチュールの実物が並んだ展示の後、都築響一による様々な人たちの生き様を表したようなファッションの写真と、彼の文章が添えられる。バブル期のトチ狂ったボディコン、異色肌のギャル、平日OL、それ以外はパンクロッカーとして活動する女性──髪の毛を逆立て、Tバックを履いていていてお尻の片方ずつに「売」「女」たら書いている、衝撃的である。地下アイドルの部屋、フェチ系のラバーファッション、てんこ盛りであった。

 

それらのポートレートについたキャプションの言葉(QRを読むとスマホで見られるようになってた)は私の心に直接話しかけてくるような衝撃があった。文章に心にコリコリと刺さってくるような感覚は、私は今のところ雨宮まみに出会った時と、都築響一に出会った時くらいしかない。それほどまでに、私の心を抉った。

 

「広島太郎」というホームレスの男性の写真も、その展示の中にあった。──上に引用したリンクのサムネイルになっている──自転車に大量のぬいぐるみを巻きつけたなんとも異様な風貌のその男性の写真を見て、一緒に行った友人はなんの迷いもなく「すご!なんでも持ってんじゃん!」と言った。「すご!なんでも持ってんじゃん!」のひとことを、そういうことをあの写真を見てすぐに言える友達がいることがどれほどしあわせだろう、と何度も思い出しては、心を抱きしめられてきた。ありがたい。そうなのだ、広島太郎は何でも持っている。

 

都築響一は、まだ平凡出版であった頃のマガジンハウスに出入りしており、POPEYEや BRUTUSの創刊に携わった。当時の編集部の方針は、割り当てられたページを各ライターが自由にテーマを決め、責任を持って編集する。何を扱おうが、スベっても、ヒットしても、自分の責任だ。そうやって、会議を通さずに、各々が独断で「よい」と思ったものを集めて雑誌をつくる。極めてストリート的で冒険的な雰囲気があったという。このあたりのことは『圏外編集者』に載っていて、私はその帯の

 

多数決で負ける子たちが、

「オトナ」になれないオトナたちが

周回遅れのトップランナーたちが

僕に本をつくらせる。

 

都築響一『圏外編集者』帯より

という言葉をよく思い出す。

 

 

都築響一は、何が本当に格好のいいことなのか、問い続けている。以下の記事は、バレンシアIKEAのバッグや運送業者のDHLの制服を模した高額商品を販売していることに対する嫌悪感の表明である。

 

庶民の感覚からすれば「高く見えるのに、ほんとは安い」のがうれしい商品だが、「ラグジュアリー・ストリートスタイル」はその正反対に「安く見えるけど、ほんとは高い」のをヨシとする。これほど醜悪なスノビズムって、あるだろうか。

 

編集後記 | ROADSIDERS' Weekly

 

私たちが「何となくイヤな感じがする」と思うその感覚を、都築響一は、「醜悪なスノビズム」という言葉で一蹴する。

 

先ほどの「醜悪なスノビズム」に戻れば、ストリートで生まれたスタイルをハイファッションに取り込むことが(そしてそれに高い値段をつけることが)、いま世界を席巻する新資本主義へのアイロニカルなメッセージだという見方も成り立つ。でもそれはすごく小さな――20万円でIKEAそっくりのバッグを買えるような――ソサエティの中でしか通じない知的遊戯だ。

 

編集後記 | ROADSIDERS' Weekly

 

都築は、なにもラグジュアリー全般を否定しているのではない。彼のブランドに対するリスペクトは、非常に誠実で、その本質を語っている。

 

かつてハイファッションとは、ブランドとは、最高の素材と最高の技術でつくりあげる、庶民にはとうてい手が届かないけれど憧れざるを得ない、優雅な「夢」の象徴だった。

 

編集後記 | ROADSIDERS' Weekly

 

結局、ハイクラスでも、圏外にあるものでも、「そこに宿る美を見ること」「舐めた態度で関わらないこと」があるなら、そこには一級品としての価値が宿る。

 

「圏外」と「編集」、というキーワードが、頭の中にこだまする。ナガシマさんが以前送ってくれた地元の商業施設の閉館の様子を捉えたビデオ、とても洒落てたな、と思う。従業員の人たちがその施設への感謝の言葉を述べて、お辞儀をして、客たちは拍手で見送るのだ。そんなの、福生のアンティークショップや、ちょっとした豊かさの香るカルチャー部屋に、ボディブローを喰らわせられる可能性なんて十分にある、と思う。もし、その魅力を引き出すことができなかったのなら、それは私の編集責任であるよ、とおもった。

 

そうだな、私が悪い。本棚には分厚くてまだ読めてない──しかもサイン会の時に前の人と名前が入れ違っちゃったから私の名前が入ってないがそれもまた一興の──都築響一が編集した『Neverland Diner――二度と行けないあの店で』がある。閉店してしまった飲食店の思い出をさまざまな人たちが綴った本である。これに近いニュアンスを、多分、ナガシマさんは、持っていたはずだ。東京ディズニーランドになくて、ナガシマスパーランドにあるなばなの里は彼がつくるのではなく、私が見つけるべきだった。それかもしくは、私は東京ディズニースパーランドをつくれる力があるはずだ。

 

 

いつかいつか、ではなく、あ、私、これをそろそろちゃんと読もう、と思った。そして、私もそういう忘れたくない場所の思い出や誰かの記憶に対して書こうと、思った。何がしたいかは、はっきりした。

 

部屋の片付けをしながら聞く、ユーミンPodcastからは、福生付近の雑貨屋で、1900円の(おそらく靴下)値段にうげーっ!高い!と驚いたり、某アメリカのキャラクターのフィギュアを買っているロケ音源が流れている。それから、別の放送回では、収録の事情で池袋のホテルに前泊することになり「私は神に誓って池袋に泊まったことはないんですが」とか言っている。はいはい、雑居ビルばっかでごめんね!

 

かと思えば、「私はZAZYが大好き!」と言って、ホットパンツに金髪ロングに、羽をつけている珍妙なな風貌と奇妙なリズムを刻む芸人を絶賛していた。

 

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これはユーミン自身が「私そんなこと言ったっけ?」と言っていたから真実は定かではないんだけど、ZAZYが、ユーミンにどうやってネタを作ってるか聞かれて、作り方を答えたら、「私が『春よ、来い』をつくった時と大体同じ」と言われたらしい。面白すぎる。さらに、「あなたは"サブカル"ではない、"オーバーカルチャー"である、"オバカル"だから」と言われたらしい。

 

ZAZYからの希望もあり、苗場のユーミンライブに出演させた時のことを振り返り、ユーミンは「私のお客さんって、ZAZYについて来れる人と、置いてかれる人がいてさ、ツボにハマると面白いんだけど、ポカンとしてる人はポカンとしてる。そういうのが面白いよね。」と語っていた。誰もが口ずさめるメジャーポップスの女王だって、ZAZYという珍味を面白がっている。アクが強くて好きな人と嫌いな人が別れることって面白い。「誰にでもわかる」ほど面白いことってないんじゃないかと、思ったりする。

 

そのpodcastは、ユーミンの「ヒレヒレダレノガレ〜♪」という謎の言葉で終わっていた。ZAZYのネタらしい。

 

私は、ユーミンが"神に誓って泊まったことがない"池袋で面白いものが見つけられるだろうか。地元の飲食店でここにしかない、輝くものものを見出せるだろうか。ま、結局全ては私の力次第ってところ、めちゃくちゃ格好良くなりたい、どんなものからも格好のいいものを見出せる人になりたい。その過程で自分のセンスを信じられなくなったら終わりなんだと思う。

 

格好のいいものになりたい、どんな場所にいても、どこで何を見ても、格好いいとにんまり笑える目と、言葉、それからクリエイティビティを持って世界と関わりたいと思う。

 

ごめんね、ナガシマさん。いつか私があなたの世界をもう少し上手に描けるようになったら、その時に。それまで、私は格好の良いものと美しいものを見つける修行をするね。