美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

慈愛

 

結局、私も含めて、愛されたいという欲求の方ばかり、人は抱いているんだよな。

愛されたい側が多すぎる、みたいなツイートをしたら、「なんか、隣人愛的なものが足りないですよね」という(そうそれ!)なリプライと、「ワイもほしい、モテないおじさんなので」というリプライがつき、はぁ、と思う。知らんがな。

 

ンー、なんかさ、そういうんじゃないんだよな。もう少し、もっと、もっとあったかくてやさしくて、利己的じゃないものを求めている。まじめにやりとりしても無駄だとかではなくて、なんというか、まあ、人に期待しないというが…

 

いい年こいた人が愛の話する時に自分がモテるかモテないかの話題出すの。苦しいよ…。助けてくれ。まあまともな人なので、別に本当に真剣な欲求で笑えないやつでは無いのはわかるけど、いや…冗談でも笑えんな…。ヒューマニズムとか、あなたを気にかけている人がいると言うもっとシンプルでぬくもりのあるもの。

 

私も含めてみんなが愛されたくていっぱいいっぱいだ。若さは永遠では無い。長年にわたって多くの人から、魅力的だと思われ続けるのはのはとても大変なことだ。でも、大切な人数人からずっと美しいと、思われることだってなかなか大変だ。老いは焦りになる。失った何かを、取り返せないと思ってしまう。なんか、若さに執着してばっかだ、みんな。

 

昨日、水商売をやっていた女性が、彼女と結婚を望んでいた男性に刺されたな。オペラの『カルメン』みたい。ドン・ホセは、衛兵の伍長から、盗賊団にあっという間に、身を堕とし、最後はカルメンを殺してしまう。こう、人の営みというのは根底のところではそんなに変わっていないのかもしれないなぁ。こういうのって、仮に結婚できていたら手に入れたいことになるんだろうか。人の心の中に誰がいるかなんてわからないのにな、と思う。

 

風と共に去りぬ』でも、スカーレット・オハラの心の中には、ずっとアシュレーがおり、夫のレット・バトラーは最後はそのことに耐えられなくなって、スカーレットの元を去る。それほどに人間の心を惹きつけ続けるというのは大変なことだ。スカーレットはアシュレーが欲しいし、レット・バトラーは、スカーレットの心が欲しい。愛されたい人ばっかりだ。ただ、その中でメラニーの慈愛だけが全員をつつみこんでいく。それくらい慈愛、ムズいな。

 

ハウルの動く城』でも、おばあちゃんになった荒れ地の魔女が、ハウルの心臓が欲しくてたまらなくなってたしなぁ。『ジブリの教科書』というジブリ批評本の『ハウルの動く城』の綿矢りさの寄稿がたまらなくいい。

 

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ソフィーとは反対に、若さや美しさに並々ならない執着心を燃やしているのが、荒地の魔女ハウルだ。荒地の魔女は、自分自身が美しくあり続けたいというより、美しいものを手に入れたい願望が強い人。若い心臓が好物の彼女は、現実の世界においては、あけすけに言えば老いても性欲が旺盛な人、みたいな位置づけなのだろう。サリマンに若作りの魔法を強引に解かれて、すっかりきょときょとした、ちょっとモウロクが入っていそうなおばあちゃんの姿になっても、まだカルシファーにうっとりしたり、ハウルの心臓に執着を示す。

 

荒地の魔女がソフィーの懇願によってようやく、ものすごく欲しがっていたハウルの心臓を返した時、正直ハウルが生き返った時よりも戦争が終わった時よりも感動した、自分が盗ったくせに「大事にするんだよ」となぜか上から目線でソフィーに心臓を返すあたりが相変わらずだなと思いつつも、「ありがとう、おばあちゃん!」とソフィーが喜ぶのと同じくらい、うれしかった。年を取りまくってからでも成長できるんだな、本人が望めば、と荒地の魔女がもっと好きになった。

 

(『ジブリの教科書13 ハウルの動く城綿矢りさ 「本物の美しさとは何か」p11〜12)

 

いいんだよなぁ〜。この文章の中で綿矢りさは、さらに、ハウルは過剰にナルシシズムに溺れており、ソファーは過剰に卑屈ということも指摘している。突き抜けててもめり込んでいても面倒臭いのだ。みんな自分のことに精一杯。

 

もっともっと、ゆるくてやわらかい、愛情がほしい。与えたい。ベーシックな。結構それって、人間そのものに対する信頼性とか、バックグラウンドとか、教養も含めて、今まで簡単だったことが、むずいんだよなぁ。それはまあ裾野を広げたからで。

 

近い人たちのところにいたらそうはならないんだよな。だから、直球で言えば、最終セックスできないけど人に優しくする意味あんのかな?無意味?みたいな話だ。これはマジでむずすぎる。ケアの応答要請と、性欲の境目ってなんなんだろうな。メサイアコンプレックスとか、私の承認欲求の問題とか、自分のトラウマ克服みたいなところあるし、あまりむき身の素手で人の心に触んないほうがいいな。

 

例えば、数年前バイトしてた時に、お兄さんがずっと虚空に向かって「俺が母親に愛されなかったから?」「俺が母親に愛されなかった話?」と言って全員に無視られてるので聞いてあげたほうがいいかな、と揚げ物しながら聞いてた。

なんというか、見つけた人間の心の穴を見なかったことにしていいんだよな。こういうものを無料で聞いてると大変なことになるし、バイト代より、別の仕事のが割がいいからな。

 

中受時代の塾講師に、セックスしてくれないと自殺する(もう少しマイルドな言い方だったけど)とか、言われてるし…。(性依存症だったらしい、ちゃんと治療した方がいい、縁切った。何度も思い出してマジで辛いので中受時代の友達ご飯に誘って今度話聞いてもらう)。

 

多分心がガバガバすぎたことが、問題。

もっと心の身持ちを硬くせんといかん。

 

肉欲もあるが、セックスしてもいいと思われるくらい他人に受け入れられたいと、セックスしなくてもいいと思われるくらい他人に受け入れられたいの心のキャパの奪い合いみたいな話めっちゃあって。これ永遠のほこたてだよな。

 

思ったよりいろんなことがむずいな。俗世を離れた人間にしか、ケアは無理。この前お坊さんと話したけど、真夜中に「日蓮が私を侵してくる」って病んだ信者から電話かかってきたりするらしい。慈愛むずすぎる。別に我欲はあってもいいが、なんかもっとベーシックな愛の話しようよーって思ってるんだよなぁ。

 

いやーーー、だからさ、この前遊びに行った対話大事にするバーの店員さんに、「美人さんは国家や福祉ではないからマジで無理しなくていい」と言われて、本当に、と思ったんだけど。

そこのバー本当に居心地が良かった、私が発達系の自虐話したんだけど、誰も笑わなかったんだよな。切実にみんな話聞いてて久々にびっくりした。よいところだった。回復した。

 

でも一方で人間って危なくてキモいんだよな。びっくりした〜。人生で会う人、いる世界を狭めていきましょうね…。運気が悪くなるから…。

 

過剰に自分に夢中になって髪色失敗して緑の液体でヌメヌメになったり、過剰に卑屈になってしわくちゃになったり、してる場合じゃないんだよなぁ。なんかでもそうやって、髪色で武装したり、老いぼれてる時ってどちらも不自然なんだよな。自然体でいても大丈夫なところにいましょう!カルシファーとあそびたい。

 

あーーやめたやめた!気楽な人のそばにいる方がいい!なんか、「してあげた方がいいかな」は「したい」ではないんだよな。本当に好きな人たちなら、「したい」って思うから。均衡が崩れない場所で、慈愛を。愛することは愛されることなんだよな。