美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

何に傷つかが、何を大切にしたいかでしょ

 

 心の中で誰が好きでもいいんじゃないかと思う。

読み返したけど、たぶん、めちゃくちゃ好きなんだよな。殺傷力が強い。でも、今世で、今の社会常識の中ではどうやら悪いことだからなー。平安時代なら、ずっと和歌のやり取りしててもなんのお咎めもねーのに不公平だよな。

 

てか、好きだし、なにも求めないけど好き。これ以上近づくと明確に何かを傷つけてしまうから、もう連絡取らない。でも、好きだよ。心の中に充てる言葉に嘘をつくと自分の人生がどんどん嘘になっちゃうからな。やだなー、心の中に好きという確信があるという状態。でも、誤魔化してた時より晴れやかだな。ぜんぜん、叶わない恋とかでもなくて、明確に私がめっちゃ好きという自覚を持っていると、幸せなんだよな。心の中のお守りって、あるから、めちゃくちゃ好き!それって幻影なのかもなと思うけど。

 

「自分の感性で感じたことは間違ってない。美人さんは、自分の感性を信じられるようになったわけで。次はそれを証明するフェイズなんだよ。」

 

と言ってくれたことを思い出す。

 

私がこれから先何かをするたびに思い出すと思う。私のする行動にその言葉が、その出逢いが生きてるからなあ。今会ったら違うかもしれないし、1番美しい時間は続かないかもしれないけど、感性を信じることに、私は、保証が欲しい。別に、それが虚言でもいいんだよな。だまくらかされてもいいと思う!いや、そうなんだよな、この人にならだまくらかされてもいいと思う時に、たぶん惚れた弱み的なところがあるんだよな。だまくらかされてもいいや!ってなることが好きってことかもな。私にとっては。

 

私の文章がまあまあちゃんとしたメディアで掲載された時に、紹介のされ方がdisだったんだよな。傷ついたし、ムカついた。それで私が掲載元にキレたら、ちゃんと褒めてくれた。別に、懐深くも、器も大きもないが、尊厳を守ることにかけて超一流で、自分のことを宝物(欠けのある)だと信じてる人にしかできない言動が多かった。一緒に怒ってくれたしね。あの時泣き寝入りして、あのメディアに書き続けてても、合わなかったと思う。自分の尊厳を守ることが、人生の第一目標になってる。

 

あ、書きながら思ったけど、その人が自分のことを宝物みたいに扱うところが好きだった。こんなに自分のこと大事に思っていいんだ!!ってレベル。でも、自分のことを大事にしている人じゃないと思いつかないことを思いつく。自分をかけがえなく思うのは、他者をかけがえなく思うことと同義であり、だから一緒にいると楽しかったんだろうな。自分がかけがえのないことには根拠がない。それまで愛されてきたこと、だけでは足りない、信じるのには勇気がいる。でも、最後の最後で、この人、自分が大事なのを捨てられないんだろうなと思った。自分が大事なのを捨てられない男の人は、特に大変やなぁと思うんだけど、本人が、「自分がめっちゃ大切です」って存在で言い張ってるから仕方ないんだよな。

 

これは、恋じゃなくていいのかもな。本人に対する嫉妬と依存だ。私もそんなふうになりたかったんだよな。自分を大切に扱う勇気がなかったから、相手の価値観に依存した。一緒にいると自分も宝物になったような気分になるから。それは私はその人の勇気をかりてたことになるな。言語化と知性は力。やっぱ、盲目的な状態って、別に他者に対する好きじゃないのかもな。前半部、なんだったんだ?

 

すっごい大事なものをもらったんだよな。自分のこと宝物みたいに扱おうね、ってことやな。

 

わたしは自分のことを宝物みたいに扱うのが怖い。根拠がないからね。だからその人のことを好きなことにしてると、楽なんだよ。なんで特別なの?なんで自分のことがそんなに大事なの?って言われた時に答えられないんだよな。

 

やっぱり、その人と私のキーワードは「感性」であって、一緒に過ごした時間めっちゃ楽しかった。ひとつひとつ何か相談したり、言葉を選ぶ時に、感性に響いたかどうかを重視する。響いた瞬間、私は「泣いちゃう!」と言った。わからないんだけど、胸の奥の方がズドンとしてそれからゆらゆらと揺れて少し涙が滲む。それがクリティカルヒットの決定打なんだよな。たぶん、官能に近いものがあると思うんだよな。なんか不倫とかどーでも良くなってきたな。私は「泣いちゃう」があるかどうかを大事にしてて、あれがずっと欲しいよ。ま、感覚あるから1人でやればいいんだけどね。心の奥から腰のところに響く、「泣いちゃう!」。

 

感性って、身体性と一致してるんだよな。自分を異常なほど大事にしてて、自分が宝物である核心って、感性に敏感になることだ。感じることと痛みは大事だ。痛みは主体を思い出させると思う。この前生理痛で動けなくて発狂してた時、なんか自分の身体性のこと、久々に思い出したしな。身体的なものもそうだし、心もそうだ。なんか、傷つかない方がいいってのはある。失恋で傷つくのは、相手を自分の一部だと思っていたからで、たぶん境界線を重んじるなら、失恋で傷つくこと自体が間違いなんだと思う。

 

だけど、なんか、何にも傷つかなくなったら、何を失ったかもわからなくなる。何を失ったかわからなくなると、何が大事だったかもわからなくなる。私は痛みに対して目を逸らしたくないというマゾ的な欲がある。何が痛かったが私だから。何に痛みを感じるかが個性だ。

 

私は好きだった建物がなくなると痛みを感じるし、人が意地悪してると痛みを感じるし、人がコンプレックスを感じている時も痛みを感じるし、スキャンダラスなことも苦手である。事件は少ない方がいいし、恨みはなるべく買わない方がいいからな…。邪気って怖いから…運気的に…。

 

それらに痛みを感じると言うのは、結局のところ私の感性なんだよな…と思ったりして、「感性で感じたことは間違いじゃないんだよ」を頭の中で繰り返している。結局私がその人みたいになりたかったって話でしかないんだよな。その人もまあ私がこんだけ沼ってるってことは、本当に色んなスキャンダルが多い人でもあり、何かを一緒にやるにあたってリスク要因ではあったんだよな。やっぱりね、なるべく恨みは買わない方がいいのよ、シンプルに。好きだった好きだったと騒ぎ立てながら、この辺私冷静だからなー。

 

感性を信じること、自分を大事に扱うと、他の人を大事にできる行動や発想ができることを教えてもらった人だな。私めっちゃ影響受けたよ。私は私の「泣いちゃう」に正直に生きてたいなー、マジで好きだったので。

 

愛してたよー!🫶