美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

過去を重んじるということは、時間を重んじるということ

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思い出と過去を重んじない人は、自分が生きていたバックグラウンドとかを大事にしてないイメージがある。生まれた場所を捨てて旅に出ることは大事だけど、なんだか違う気がするのだ。

 

偶然性とか、意識的だったのかはわからないけれど、自分の人生に登場したものをひとつひとつ大事にすることは、この生を愛すためにとても必要なことだと思うのだった。

 

執着は少ない方がいい、身軽さは新たな縁を招き、幸せを生む。私は高校までの成績表や、気に入らないグループからもらった寄せ書きや、卒アルも捨てている。過去に留まっていると、何か前に進めない気がしたからだ。

 

一方で、悼むことや祈りみたいなものにこそ、人の生きる意味があるのではと思っている。そこにいない人や、あった建物、食べられなくなった味について思い出し、時に狂気的なまでにそれに焦がれたりする。私はすぐ新海誠のようなことを言うが、新海誠は、世界の大切な記憶とかこの世界の約束事のトリガーにすぐチープな性欲を使うので、なんか急に陳腐になりやすい。そんな話はまた別の時にすればいいんだけど。

 

目の前にあるもの以外を欲すること、何かを極めて好きだと思うこと、他の何かでは嫌だと思うことが、強く自分を自分たらしめているのではないかと思うのだった。この前、aiko好きの友人が、aikoの歌詞を引用して「あなた、を愛することによってあたし、というものが生じてこれは実存で…」と話していたことをふと思い出す。そうだよな、何を愛し、ケアするかが、その人生の固有性を高めていくよなと思うのだった。

 

ケア、について学んでいた時に、私が1番おもしろいと思ったのは、ケアとはtake care ofの、careであり、注意を向けるとか、気にするとか、意識をする、ということだった。それが、すでにケアの一環らしい。なるほど、なだめたりさすったり優しくしたりというだけがケアではない、意識的にしろ無意識的にしろ、私たちが注意を向けていることは、広義ではケアしているといえる。

 

だから、なくなった場所でも、亡くなった人でも、会える人でも、会えない人でも、気にかけたり、幸せでいてほしいと祈ればそれはケアしていることになるのかもしれない。

 

例えば、私はもうあの友達とはあんまり仲良くなかなったんじゃないかな?とか考えてるだけでも私はもうケアしちゃってるのだと思う。

 

私がついケアし続けてきたものってなんだろうなと過去を振り返って考えたりする。そういう人たちのことを、場所のことを思ったりする。

 

土地が好きで人が好きで、それらを自由にカスタムできないと、発狂してしまう。愛する事物との距離を外界に奪われることが、私はめちゃくちゃに嫌なのだった。それは私にとって死んだも同然である。

 

気に掛けられる人数も事物にも限りがある。そのことが残酷でもあり、美しいとも思う。だって、なんでもあることは何にもないことと同じだからだ。限りがある中で自分のケアを研ぎ澄ませていく。自分が自分になっていく感覚というのをちゃんと持っていたいと思う。