このタイトルをつけたまま3本ものブログを書いたけど、肝心の諸星あたるについて触れるのが遅くなってしまった。
先生から後日電話がかかってきて、私は死なれたら困ると思って出てしまった、というかなんだかんだ、昔のような感じでうまくバランスの取れた関係性に戻せるのではないかと、ほのかな期待をしたのだった。
懐かしい塾時代の思い出と、昔の音楽の話。先生は確か理科の他に音楽が得意で、むしろそちらの方が専門だったというのは、以前にも聞いたことがあった。そんな話とか、私が小学生の頃から今も昭和歌謡が好きなこととか。私は昔のものが好きで、『うる星やつら』とかも見てたなーという話になった。私はあまり深く考えて話さないから、「あ、諸星あたるめっちゃ好きなんですよね」といつも『うる星』の話題が出るときのお決まりの流れで言ったら、
先生が「諸星あたるって俺じゃん」と言ってきた。
私は
「諸星あたるは、死にたいとか言わないので」
と返す。
先生はそのあと
「『うる星』は押井守の『ビューティフル・ドリーマー』が〜」
と、うんちくを話してたが、別にそんな話はどうでも良かった。
諸星あたるは、悪運が強く、どんなことがあっても絶対に死なない生命力がある。女の子と遊べなくなったから自死を匂わせるのではなく、死んでしまうと女の子と遊べなくなるから1日でも長く生きているタイプである。だから、この連載の冒頭で新『うる星』の諸星あたるが1話の開始2分で「女の子に振られたくらいで死んでたまるかー!」と言っていて、嬉しくなってしまったのだ!ほらね。
先生とは、そのあともう一度昼間の高田馬場で会ってしまった。ビックボックスの中のカフェで会った。確か雨が降っていた。先生が傘を持ってなくて、駅からビクボまでの短い区間だけど、ひとつの傘を分け合った。これめっちゃなんか違う感じするなと思った。あれ、私が傘を持っていなかった線も濃厚である。そんな気もする…。
この前の夜、お店で先生から聞いたことがリセットされますように、リセットされますように。と思って何事もなかったかのように振る舞ったけど、ひとしきり話したあと、「で…あの本当に、これで最後にする、彼氏とはその…うまくいってるの?…もし潮とか吹いたことなかったら…」と言われた。
私は断ち切るように
「私が先生とすることはないです」
と言った。
「わかった、ないのね」
「はい、絶対にないです。」
先生は
「はい」
と申し訳なさそうに頷いていた。なんか本当に参ってたし哀れだった、死んだらどうしようかと思ったけど、ないもんはない。
昼間のビクボのカフェドクリエでなんて話をするんですか!?
私も若かったから、今改めて書き直してみると、普通にどうしようもないおじさんが、飲み屋に来て、電話ですがってきて、昼のカフェでもすがってきただけの話なのだ。だけど、私に投げかける言葉にも傷ついたし、一方で長くは生きられない辛いと言われたから先生が思ってる50倍くらいは心配してしまった。ペラッペラになった50歳の理科教師にここまで気を揉んであげて、わたしも本当にバカでお人好しだと思うけど、そういう自分が好きだ。別にわたしが寝なけりゃいいだけなのだから、できるところまでは寄り添いたかっただけだ。でも、言われた言葉には傷ついてしまうから、割りに合わないな、先生がしていたこととか、舐めた態度とか、なんかずっと刺さってる。わたしは最後どんな人も赦すことと愛すことに決めてるからその間にわたしが傷ついた分だけいつも損をするなと思う。でも、赦さなかったり嫌いになったりするほうが、わたしにとってはもっと辛いのだ、楽しかった思い出も一緒に傷つくから。
あと、やっぱり母を自死で亡くしたのもあって、何かここで見放して死んでしまったらどうしようという感覚が強い。ていうか、母を自死で亡くしたって話してるのに、俺は死ぬかもしれないで気を引こうとするの、やっぱり卑怯だよね?と書きながら思うのだった。
そして、先生はここまで明確に「ないです」って言ってる相手が、こんなに電話をしたり、カフェに来てくれることにもっと感謝してもいいでしょう。あなたの提案に対して意に沿わないどころか大不愉快なのに、相手してますからね。あなたにとってはわけわからんかもしれないけど。
もっと冷静になって、おじいちゃんになって精魂尽き果てたあたりで思い返してほしい。いい生徒ですよ。それに、先生がさ半分くらいボケたらさ、また会おうや。オリオン座の星の名前をもう一度教えてあげる。青いのがリゲルで、赤いのがベテルギウス。柿を切ってあげるから、一緒に食べよう。そしたら種子の断面の中に子葉が見えて、その周りが胚乳って話をしよう。
結構大事に思ってたんだから。
今でこそこんなことをあっけらかんと書いてるけど、長い期間ずっとこのことを気にしてたし、傷ついてたし、心配だった。23の時に、まあまあ女の人にだらしない友達ができた。ある時、「押井守の『ビューティフル・ドリーマー』が〜」と言い始めたので、急にその理科教師のことを思い出し、「この人になら言えるかも!」と思って、初めて人に話した。
「そういう人は、死なないから大丈夫」と、その人は言った。「そうなんだ!」と思った。今なら「そりゃあそうだろ」と思うけど、先生が仕事も辛いまま自分の人生を良くないものだと思って孤独なまま死んでしまうことや、先生が死ぬまで先生がしてきたことを友達に秘密にしなきゃいけないこととかいろんなことでいっぱいいっぱいだったので、わたしはそれから「そういう人は、死なないから大丈夫」を何度か思い出した。死んでも私のせいじゃない気がした。他の人が死なないから大丈夫って言ってたしと思えることが、なんとなく、気楽に思えた。
25歳になった。私はまた別のスナックに立ち始めた。その友達が来て、隣のお客さんの恋愛相談に乗っていた。
私は客たちに背中を向けて、洗い物をしている。
その友達が「ほら、女の子落とす時ってこの子にはこんな感じでいけるかなーとか、そう言うの考えるじゃないですか!」
と言っていて、私はガクン!となった。「あー!理科教師のあれ、たぶん私の善意に漬け込まれたのか!」と思ったのだ。だから、「あー!!先生全然死にたくないんじゃん!」と思って、何かよくわからない責任とか不安とかが昇華した気がした。私が抱える事でもないのだけど。すこし膝の力が抜けてしまい、シンクに体重を預けて手元のグラスをギューッと握った。4年も経ったわ。馬鹿。
ちなみに前回より書き方が柔らかくなったのは、私がアカデミア的なところとは一旦区切りをつけることになったので、あまり正しさとか正しくなさとか社会的な正義みたいなところで断罪しなくても良くなった、論文より小説の中で生きてたい、みたいな精神的な変化がある。
繰り返しになるけど、もうね、どんなことがあってもね、私は人を赦すことと愛すことは決めてるんです。自分が傷つきたくないから、恨む人間が多いと、しんどくなるし、負けた気がするから。結局先生と過ごした過去の時間が嫌な記憶に変わるのが嫌だから、私が赦すのよねー。心の娼婦の適正はすごくあるんだろう。
でもその途中で私が受けた傷は傷のままだから、久しぶりに会った友達が「あれひどいね!」と言ってくれるのは嬉しかったりする。
久しぶりに先生のSNS(普段は友達切ってる)見たら、「受験屋という仕事、気に入っています」と書いていた。ほんとそうだよ、いい仕事だったよ。
なんだよ、本当にね。いいよ、赦す!