美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

諸星あたるは生き残る3

先生は、私のブログを読んでくれていた。SNSに投稿したこの記事を読んで、リアクションをくれていた。

 

toyopuri.hatenadiary.jp

 

先生は自分のページでもこの記事をシェアして、私のことを「取扱注意なところもあったけど、記憶に残る生徒でした。読ませるエッセイです。」と紹介した。「誰かの記事をシェアしたのかと思ったら、アヤが書いたの!?」と言ってくれた。そうだよ、私昔から国語と理科が得意だったでしょ?

 

先生は、ただただしょうもない話ばっかりしている。

 

「最近受け持ってるクラスの小5の女の子、絶対俺のこと好きだと思うんだよね。この前わざとパンツ見せてきたもん。」

 

先生、現役の小学生は…さぁ…いい加減私がどんな話でも聞いてくれると思ったら大間違いですよ、と、思う。

──と、書いているのは26の私なので、21歳の私はもっと戸惑ってたと思う。だけどそんなの顔に出したくないから「そんなわけないでしょ」とか「へー」とか適当に相槌を打ったような気がする。

 

私の過去の時間がただ崩れるだけのこの夜に、高田馬場で飲む1杯600円ほどのお酒はあまりに安すぎるんじゃないかと思う。はぁ、早く夜が明けてくれないだろうか。過去の私も一緒裏切られているような気持ちになる。どんどん崩れる。

 

この話を仲のいい友達にした時に、「あ、美人ちゃんのSNSにコメントを残していたのなんとなく覚えています。」と言われた。幼い私のことをよく見ていたであろうその言葉選びと、距離感が、記憶に残ったのかもしれない。

そして、彼女と一緒に今先生がいる塾のHPに載っている顔写真を見て、「ああ、なんとなくこの感じわかりますよ。」と言った。

顔がいいわけでもなく、肌艶がいいわけでもなく、惨めさを漂わせたその風体は、彼がしてきた様々な出来事の説明には十分なり得る何かがあった。

 

これは個人のブログだから、フェミニストとしての倫理と社会的な正義からは、はみ出してしまう何かについても、無視せずに書きたい。心底軽蔑しているのに、私がこれほどまでに筆を進めてしまうのは、先生の望む形ではなかったけれど、愛と興味が尽きなかったからだと思う。そして深く傷ついたからでもある。恨みでもあり、裏切りでもあり、やり場もなく私だけが傷ついた感情なのだった。

 

私が愛を抱いていた先生がこの世にいないことがただただ憎い。余計なことを言いにきて、私を舐め腐る怒りは、かつて私が愛したかった先生の姿が存在したからこそ生まれるものなのに、私が失ったものと私を傷つけたものが、その存在そのものだからつらい。仕事にも生きることにも絶望して、教え子に暗い性欲を振りかざして縋り付く、その生そのものへの憐れみと不安が、私は悲しい。

 

先生の罪状の吐露と、私の相槌。先生は、なんとなく寂しそうに、「俺が死んだら君は俺のことをどこかに書いていいよ」と言った。書くほどのことでもないと今なら言える。それに、この言葉が私のある部分の欲を大いに満たしうること、気を抜けばペシミスティックなロマンチシズムが蔓延しそうになることがわかる。その頃の私はこのことはきっと誰にも言ってはいけないと思ったからいつか先生が死ねば、誰かにいつかこのことが話せる、私が知った罪や暗さのことを引きずらずに済む日が来るのだということが救いになった。先生が心から心配なのに、先生が早く死んで私がこれを書いて楽になる日のことを夢見ていた。別に、こんなこと、間違っているとその時すぐ声高に言ったり書いたりしても良かったのだ。この言葉は、ずるい。先生が死ぬまで私が先生の秘密を守ることも意味している。ずるい呪術だ。

 

こういう言葉をかけられた子どもは(21だったが相対的に子ども)、罪を共有してしまう。それ以降、塾に通ってた頃の友達と会っても、私だけがこのことを抱えていて、楽しめない。あえて私が嫌な話をすることで、友達の思い出まで壊すことはない。このブログを読んでくれているような友達には言えることが、言えない、縁のない友達というのも私にはいるから。彼女たちと飲んでいても、自分だけが別の世界にいる感じがする。私だけが先生に抱えさせられた重荷と秘密がある。大人になるということがこういうことなわけがない。なんで私だけがこんなに楽しくない気持ちにならなきゃいけないんだろう。先生は私に指一本触れなかったけれど、何か心の面でずっと犯された気がしている。

 

ずるい男の人は、本当にずるい。こちらの想いなど顧みずに、力づくで、なおかつ自分が傷ついているみたいな顔をしながら、私の大切にしている心まで傷つけて道連れにしようとする。

 

私は、男の子たちが父性を請け負わないボーイであることをperfect truthとしているけど、根源的に自信のないボーイもどきは普段はめちゃくちゃボーイぶるくせに姑息な性欲を発揮して、時々楽して大人の男のふりをする。そういう人たちは、自分より下の力が弱い女の子をなんとかしようとする。そういう輩は、ガールとは対等に話さない。本当は強くないくせに自分が相対的に仮の父性みたいなものを発揮できる相手に漬け込んで、父性を勝ち得たふりをする。本当の父性というものは、どうしようもない現実と戦うことや、終わりのない知や体力や創作とかに挑んで、己の小ささを知ることや、一人で何かをやり続けられることだと私は思う。自分の教え子と、教え子の親としか寝れない人はモテではない。柔らかさと姑息さは表裏一体で、結局、弱い自分が支配できる弱い女の子を探してるだけなんですよ。私はそれは、歪んだ支配欲であって性欲ではないと思うのだ。

 支配欲が性欲に絡むならもっと本気のやつがあるはずで、ハンデ付きのイージーモードで自分を慰める前ににちゃんとやれやと思うんですよね。ダサい。全てにおいてその自分が支配できそうな人しか狙わずに性に溺れる俺をやるのは本当にダサい。私はモラルを問うよりも、結局ダサいということを口にしていきたい。だって先生が嫌なことを知っているから。ダサいね。中身、おっさんのくせに少年ぶるなカス、と思うのだ。大人になれなくていいから、柔らかさを持ったままでいいから、強くなくていいから、なんもするな。そのままで好きだったのに!尊敬してたのに!不安を安い性欲にむけたり、そのことを私に吐露して罪深さの無理心中を図るな。

こんなふうに言えるのはやっぱりそのあといろんな人に会った26の今があるからであって、私はこれまで書いてきたように、当時先生に話されたことがずっとずっと苦しかった。先生は私と関係を持たなかったけれど、私に重りを結んで、一緒に仄暗さの中に沈めようとした。仄暗いロマンチシズムは存在するけど、明るさの中の愛の方が好きだ。生活が好きだ。

 

先生に死んでほしくないという気持ちと、先生が死んで早くこのことが書きたいという気持ちで揺れる数年があった。この記事はまだ続くのだけど、まあ、結局先生はそういうふうにこの世を生きていて、死ぬ気配もないし、私が何か先生の死に負う必要なんてましてや寝てあげる必要なんてこれっぽっちもないことをはっきりと言い切れるようになった。

 

バカバカしいと今なら言える。先生が死ぬ必要もないし、あっけらかんと生きればいい。先生が生きている間に書いてしまおうと思ってからも数年が経っていたけど、その時からもう書く言葉は決まっていた。

 

書いて先生が死ぬのだ。死んだから書くのではなく、書いたら、先生が死ぬ。「俺が死んだら書いていい」を私はそう、受けとった。墓場まで持っていこうとしていた罪状をここに書いて、それがしょうもない姑息さであると言い表すことで、そういう先生が死んだことにしようと思っている。もしまた会う日がきたら、このことの一切を水に流す。これを書くことで、姑息でしょうもなくて嫌な先生はいなくなったことにしようと思う。私の傷つきも、無かったことになる。

 

大丈夫。

書くことは破壊することだから。

笑いとか、批評とか、書き表すことには、壊す力がある。

私のことを子どもの頃から知ってる先生が、洗いざらい話して、「死んだら書いてくれ」と言ったのだ。

そういうことなら私は、承りましょう。

愛はもっと深く、奥のところに宿っている。