美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

祈りを生きる

 

祈りの領域にしか生きることができない。

祈り続けることは、自分の救いになるから。

 

私が、文章を紡ぐ時も、縫い物をする時も、料理をつくるときも、催し事をする時も、そこには、必ず祈りがある。それほど欲張らないから、こういうものが大事にされてほしいな、とか、こういうものが無事であってほしいな、変わらないでほしいな、慈しまれてほしいなと、強く願いながら、手のひらから何かが生み出すことが、私にとっての生きることであるし、それをやめると、心が先に死んでしまう。

 

失われてほしくないものに、たった1本の薪だけど、とっておきの願いを込めてくべてみたい。何にもならないかもしれないけれど、何にもなったりすることが往々にしてあるじゃない?

 

好きなミュージシャンが、私の書いた投稿を、ラジオで読んでくれたこと。この人の内面に話しかけようと思って書いたことが、いつも歌声でよく聞いていた声で読まれること。

 

とある施設の催しがとても素敵だと思ったから、そのことについて念を込めて、記事を書いたら、施設の会報誌に掲載されて、感想が寄せられたこと。

 

 

もう会えなくなったはずの友達と過ごした時間が忘れられず、彼女と話していたような自我でブログを書き始めたら、あの子が美人ちゃんという名前でブログをやっていると、彼女の耳まで、風の噂で、ちゃんと届いて再会が叶うこと。別にまた会えなくても、私は彼女と過ごした時の自分でいたかっただけだから。

 

今日は私が19歳の時に、はじめて作ったドレスを着てくれた人が紹介してくれたオートクチュールの服を作る女性に出会った。お針子さんを探しているとのことで、白羽の矢が立った。かねてよりやりたかったことが叶いつつある。

 

私のドレスをショーで着てくれた元モデルさんと再会したのは、半年ほど前、家に置き去りになっていたドレスを、もういらないかもしれないけど、彼女に渡してみたからだ。エゴかもしれないけど、また会いたかった。美しい人だったから。

 

ドレスの試着の時に彼女が泣いてくれたことを思い出す。彼女の中にも彼女のストーリーがあり、そこに至るまでにいろんなことがあったというのは半年前に聞いたけど、でも、私が一夏かけて作ったものが彼女のなかに伝わったということは事実のひとつでもあるだけで、そういう一瞬を思い出すだけで別にこの先どう生きてもいいや、大満足!と思う。

 

数日前、数年前に書いた、好きな曲に関するコラムのURLが、もう7年近く会ってないバイト先の人から送られてきた。「これはあなたが書いたの?」と言われたので、「そうです」と答えたら、「友人が出ている演劇を見に行ったらその曲が流れていい曲だと思ったので、検索したらあなたのコラムが出てきた」と言われた。

 

彼が名前を挙げたその女優さんは、私が高校時代見に行った高校演劇の大会でたった1人名前を覚えて帰った高校生だった。ずっと忘れられない、また会いたい人だった。彼女は今でも役者を続けていて、また彼のラインを通じて出会うことができた。彼が本人に伝えてくれて、もうすぐ公開される彼女の出演映画を見て、近々飲みに行くことになった。数年前に書いた文章も、半年しか続かなかった予備校バイトも無意味ではなかったと、思う。

 

そうやって、願いを込めて何かを身体の外側に送り出したものが、また別の形の願いを叶えるために戻ってきてくれることがある。ありがたい。祈りを生きていることは無意味ではない、私がそう思う、ということは決して無駄ではないのではないか。主観が私の身体を突き破って誰かの客観や主観に変わっていく。

 

祈るのをやめたら明日を生きることができない。ただまっすぐ素直に祈っていたい。祈りは強さで現実だと思う。