美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

自分の中の定規が鋭利になっていくことに耐えられない

 

「25歳すぎた頃からかな?自分の中の定規を研ぎ澄ますような感覚になってきたんだよね。」と知人が言っていた。

 

その通りかもしれない。と思う。

 

「美人さん、本当はわかっているよね。それくらいの言葉を使って言い表せるなら、もう答えは出てるよね?」

 

と、また別の知人に言われたこともある。

 

そうなのである。気がつきたくなかったこと、わかりたくなかったこと、知りたくなかったこと、全部心の底ではわかっていることが多い。わかる、というか、まあそんな言葉は傲慢で、深く知りたいと思えば思うほどこの世界は複雑かつわからないことだらけであるのだけど、この世界に不思議がいっぱい、と目を輝かすには、大人になりすぎてしまった。

 

人が好きだった。だから、色んな人を見たくて、見に行ったんだけど。お金を持っていてもずっとコンプレックスが拭えない人とか、新規事業の話をしながら永遠にセックスの話しかしない男性陣からするリベンジの香りとか、定年後にまだ社会と関わっていたいと藁をもつかむ思いで本当は自分の依存心のためにやっている社会貢献活動とか、男運の悪い女たちとか、私の人生には出てこなくてもいいものをたくさん見た。

 

何が嫌いかわからないと、何がほしいのかがわからない。年齢や職業、学歴や顔で人を判断したくない。スワイプで人を選別するなんて、やっていいことではないと思っていた。とあるマッチングアプリで、パスする側にスワイプすると「イマイチ」という文字が出てくるUIがあると知った時、私はあまりの下品さに烈火の如く怒ってしまったが、さまざまな人たちと会ったせいで、私自身はもっとえぐみのある人の選別を行うようになってしまった。

 

私だって誰かにスワイプされて生きているけど、なんというか、顔が好みじゃない、とか、定職についてない、とか、そういうことで判断されるより、よっぽど、自分の中のスワイプの基準の方が底意地が悪い気がする。それが、尖れば尖るほど、寛容さを欠き、鋭利になり、悲しくなる。

 

それが本当にあっているかはわからないけれど、この女性は不幸ぶるのが好きだし人におもねるフリをしながら内実人のことを馬鹿にしており、その舐めた態度が自分にも跳ね返ってきて損ばかりしているのだろうな、とか、この人は40年以上生きてきているのに根源的に人を信頼できず、美女をとっかえひっかえしている自慢を大学生の小娘に話すくらいには満たされていない。同性の男友達はおらず、ビジネスセンスはあるものの生涯にわたって寂しげである。量の話をされたところで、安定した関係性を長期間にわたって続けられないのは、生育環境とリベンジ欲求に基づくものだよなと思ったりする。

 

とか。あんまり考えなくてもいいことをいろいろと考えるようになってしまった。こういうことを人に対して思う時、私もまた人からいろいろ思われているということだから自意識がはたらいてしまう。

 

全ての人は平等であるが、人付き合いは選んでいいとか、こことここはレベル感が違う、みたいなことも冷静にわかってきた。いや、わかってたことをいままで優しさで誤魔化してきた。誤魔化してきた、良いところを見つけようとしてきたということは、それは本当は誰よりも何を誤魔化したかに気がついているということである。

 

思ってしまう、気が付いてしまう、その気がつきも私の主観でしかないのだけど。でも、私の人生だから私の主観に基づいて行動しても良いと思うのだ。

 

年長者に対しても、この人なんかいま病んでる、すごい距離詰めて来ようとする!とか、ナルシスティックでエゴイスティック!取り込まれる!とか、ケアを要求されてる!とかかなり敏感にわかるようになってきて、なんとなく、なんとなく、それはかなり機微を捉えている気がして、間違っていないと思うのだ。もっと幼い頃に戻って、単純に可愛がられている頃がよかったかったなと思ったりする。

 

人って、年齢ではないから。見えたくなかったものを見て、全く正しくない世を生きて、自分がここに注力するぞと思った人間関係を選んでいい。選ばれていい。遺していい、捨てていい、新しく手に入れていい。好きなものと嫌いなものがはっきりしてしまった。こんなにも嫌いで、嫌いで嫌になる。

 

炭火焼きの塩の焼き魚に、ポン酢をジュッとかけてしまう人が、私は嫌いなようだ。こんなことすら、気がつきたくなかった。