私が好きになる人たちはいつも作為がない人を愛する。頭がいいが故に作為のなさや無垢さを愛する。私は我慢と作為と操作に満ちているから、なんとなく、分が悪くなる。
本当のこととか、魂の無邪気さを美しいと思うこと、そのことを好むことが、眩しいのに、その光に追いつこうとすると、途端に魂が曇る。
どうすればそこへ、と思いながら、私はそういう人たちの文章とか、ユーモアとか言葉を眺める。頭がいいから、作為が読めるんだよな。その上でふざける、いちばん真実とか、悲しみとか、現実とか、わかっているから遊ぶのだ。
遊びがうまい人、ちゃめっ気がある人、二枚目より三枚目が好きであると、私がよくいうのは、少し、寂しそうな顔をするからである。全部が見えてる人が、なにかこの世界に託すように演じる道化が子どもの頃から好きで、そういう人は、悲しさの分だけ世界に色を見出したり、色をつけていくのが上手だった。
根源的なところで、根っから(表現が重なるけどこの言い方がいい)ふざけていることがもつ寂しさが好きだ。根っからふざけることができるのは何かものすごい寂しさと表裏一体になっている気がするからだった。明るい人は暗い人である。暗い人は暗いだけの人だと思う。
明晰であることは暴力性を生む。
明晰さから逃れられない。嘘をつかない。真実を見て、暗いものも見て、なおのこと自分と世界を信じられるかみたいなところで戦ってる人のことが私は好きである。
全てが見透かされるような恐怖と対峙させられてしまうような人と会話をしてみたいと思う。見透かされたり、見透かしたり己の小ささを感じたり、むしろそんなものを超えた何かで闘ってみたいと思ったりする。なんというか、作為って難しいな。加害的だからな〜。極上の自分でいたら作為を超えられるだろうか。