美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

結局COOLでセンスがいいかどうかって話

数年前、10代の頃から一緒の友達が、バンドのCHAIがテレビに出てるのを見て初めて知ったという話をしてきて、ルッキズム丸出しの話をされてまじで引いた。

 

別に、ルッキズムそのものを否定するつもりはないが──美は力なので──その美は力だということそのものを、別の尺度でひっくり返そうとしていることそのものを彼女が読み取れていないことにびっくりした。

 

 

 

『N.E.O』は、「NEOかわいい」というコンセプトであるが、「あんなこと言っても結局綺麗事だよね〜。」と言われるなら、まだ、わかる。あと、「私はなんだかんだで見た目のいい人が好きだからああいうのよりこういうのが好き」と言われるならわかる。でも、何が前提にあって何を覆そうとしているのかもよくわからないなら──そりゃあ興味ないもののコンセプトについて人は別に注意を払わないよな──、あんまり合わないかも、と思ってしまった。それから彼女とは疎遠になった。なんでこんなことで!?と思われるかもしれないんだけど…。どうしても…。エッ!とおもって。私はCHAIのコンセプトも表現も、センスがあると思ったから。

 

だけど、今日Apple musicでCHAIを聴いていたら「”コンプレックスはアートなり!”という斬新な価値観を掲げ、彗星のごとく現れたCHAI」という紹介文が載っていて、「なるほど〜〜〜〜!!!斬新なコンセプトだったか〜〜〜〜〜!!」と思って猛省した。そうだ、注目を集めているのは、ユニークで新しかったからだ。

だけど、私はこれを斬新だが「上手にやったたなぁ〜絶妙にセンスがいい」と思っていたため、困惑した。いわゆる文化系の人たちなら、なんとなく「こういうもの」が存在していることを別に障壁なく受け止めると思うんだけど、果たして自分の周りだけなんだろうか…。

 

それこそ、前に友人(言及すること自体があんまりセンスがいい感じがしないけど、男性)が「CHAIの『NEOかわいい』そのものが、それらのコンプレックスが元々可愛くないものだと定義しているのではと言っている人がいて…」という話をしていた。CHAIが打ち破ろうとしたものがそもそも、ネガティブな文脈で捉えていること自体が間違いなのでは、というような段階の話をしているのに…。

 

確かに”典型的な”美はある。そう言うものを美しいとも思う自分もいて、でも、どこかしら不完全な人ばかりではないかと思っており、見目麗しい〜〜〜!!と思う人だって、頭が悪いとか、運動ができないとか、歌が下手とか、ダンスができないとか、お腹が弱いとか、すごいあがり症とか、昔すごく容姿にコンプレックスがあったとか、家族仲が悪いとか、虫歯があるとか、何かしらの何かはあるだろうと思う。人の弱さやコンプレックスの話が好きだ。だけど、それはそんなにメジャーじゃないらしい。コンプレックスをなくすために、人は何か不自然な行動を取りまくっている。

 

 

CHAIの出演に対してもやつきを表明していた友人は、アイドルオーディション番組の投票企画があると、私にも協力して欲しいと連絡をしてくるタイプだ。

 

自分の好きな男性アイドル研究生を応援するように頼んでくる。まあいいかと思い投票をした。次に会ったときにお礼にクッキーを彼女からもらう。だけど、もやついた。それは、私が好きなタレントやアーティストって、誰かに頼まれたりして投票されて、そういうことで世に出る人たちじゃないからだ。

 

大してその人に興味のない友人とかにお願いされて投票させてクッキーをお礼に渡されて世に出るほど、弱くない。困ってない、参ってない。

 

クッキーもらったの嫌だったり投票頼まれたの嫌だったのって、自分がすごく尊敬して素敵だと思っている対象を自分の力で押し上げたい、自分が友達に頼んでお礼を渡してまで世に出したいって気持ちそのものが、私がすごく苦手だったからだ。

 

私が好きな、YUKIも、志磨遼平も、小山田壮平も、ファンが彼らの音楽すら聞かずに友達に頼んで投票なりさせてお礼にクッキー渡してたら、嫌がる気がする。サブカル系だから、とは言われたくない。

 

そもそもアイドルとアーティストでは立ち位置が違うといってはそれまでなのだが、やっぱりどうしても、好きじゃない。それは趣味が違うってだけかもしれないけど、私にとってはめっちゃ大事なことなのだ。それくらい嫌だったのだということがだんだんわかってきた。なので、今後はやらない。

 

考えることは書きながらうまれていく。私の美学は私が決めることであるし、どれだけそれがメジャーであったとしても私は好きになれないカルチャーだった。クッキー渡されてその人のパーソナリティも知らない人間に投票されてまで世に出ることに眉を顰めるような人が本物だと思うのだった。

 

あんまり他者のことを否定しちゃいけないと言うのは思っているんだけど、何にもやついたのかって、自分の価値観にとってすごい大事なことだと思うのだ。

 

てか、CHAIおしゃれじゃん…

 

 

 

なんかこの海外のトイザらスみたいな場所で撮ってるPV、しゃれとんなぁ〜〜と思う。

でもこれってたぶん感性の話で、こういうのがおしゃれだと思う時点で、私は単にそう言うタイプの人だと言うだけなのだろう。てかもっとCHAI好きな人とか音楽好きな人とかはもっといて、上には上がいるし、私がこれあえて好きって言うのも…と思ったんだけど。最近こっち側に振り切りたくなっている。今までフェミニズム的なものが前提になっている中で生きてきた学生だった頃と違って、お守りがなくなってしまって。彼女たちがしている表現がどれだけおしゃれで革新的で勇気がありチャーミングなのかを思い知るんだよな。センスとクリエイションが格好の良さには大事だと私は思うのだった。

 

あと、もう一人、ティーンの頃仲良かった女の子で、少しコンプっレックスが強そうな女の子がいた。男女混合のグループで仲良くしていて、大学生になってから皆で一緒に旅行に行ったのだが、女子メンバーでお風呂に入っているときに、「最近OBの先輩たちとやりまくり」みたいな話をしていて、私ももう一人の友達も引いていた。なぜなら「軽音部の新歓に現れて1女を狙うOBは明らかになんかアレ」だからである。や〜もしかしたら今彼女が思い出して顔から火が出るような思いをしているのならむしろそうであってほしいのだけど…。

 

その後も、完全に「下ネタもいける私」みたいな感じで、部屋で(グループのみんなと同じ広い部屋をとってた)、「最近私右手が友達〜」みたいなことを言って、自慰をほのめかしてて完全に何かを勘違いしていた。あのさ〜そういう場の気の引き方はダサいのよ。本当に。でも完全にカスだ正面切ってと言えなかったのは、彼女本人がなんか傷ついてたのがわかるから、なんだかそれを感じて傷つくのだ私まで。ティーンの頃一緒にいたからだろうか。仲がいい人は少し自分の一部だからだろうか。めちゃめちゃ悲しかったのだ。たまらなく悲しい。その後会わなくなったけど、SNS越しに彼女が、どんどんメイクが濃くなって、信じられないくらいの濃さのアイメイクと、椿鬼奴のような量のノーズシャドウをのっけているのを目撃した。病んでいる。明らかに。自分のことが嫌いだと言うニュアンスがめっちゃ伝わってくるのだ。

 

なんか今なら彼女の何かキモくて、なんか何にモヤってるのかとか合わなさとかもよりわかるんだけど、それを愚かよのぉとか、糾弾したりとか、すると私の方が疲れるんだよな。まぁそう言う一件については「おしゃれじゃない」に今後はとどめておくことにした。

 

 

POPなんだよな〜あっこゴリラ。こういうの格好いいし可愛いしおしゃれだし先端だと思っていたけど。なんか2006〜7年ごろの初音ミクくらい先端のものなんだろうな。

(個人的には、irohaとかの宣伝の仕方よりこっちのがなんか可愛いのでおしゃれだと思っている)

 

いや〜「旅行中オナニー仄めかし注意引き女」の前で急に私が「神器 dig it OK!~~♪」とか踊ったらたぶん場に噛み合わない。まじで。いや〜〜〜かなりビジュアルとかおっしゃれに仕上げてると思うんだけどなぁ。可愛いしセンスがいいし今っぽい。でもこれが出てきたのって2021年とかの話だからな。

 

フェミニズムについては私は人並みに勉強したけど、別に多くの人がちゃんと勉強する日は来ないこともわかっていて、ネット上の議論もアレなんだけど、結局、格好いいのが大事ではないか?と思う。私はCHAIとかあっこゴリラを格好がいいセンスがいいと思っている。ていうか自分のいたコミュニティ外と触れると、かなりびっくりして倫理的に人を罰してしまうことが多かったんだけど、裁きより、それがCOOLかどうかということが大事なのだと思う。センスがいいかどうかと言う話なんだと思う。確かに学歴で話せる内容は変わるし、全く関係ないわけではない。私はそれが綺麗事じゃないと思っていて、まじで突入していったら、ぜんぜん話が噛み合わないことも本当にある。倫理観が噛み合わないのも辛いが、だけどそれをあえて改めてぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるのはセンスがない。

 

そんなことはどうやら当たり前なのだ。文化度、金銭的余裕、心の余裕、頭の良さ、見た目の美しさ、地域差、育った背景からくる他者への寛容性、この世は、まじで言及すると元も子もない差ばかりだが、おしゃれさが大事。おしゃれならできる。それはおめかしだからだ。でもやっぱりおしゃれさとかセンスにも、上下は存在するんだけど、結果総合芸術でありクリエイティビティだから、結局いろんなものに差がつくなら、最終おしゃれさとセンスとクリエイティビティ、COOLさに帰着したいと思う。あと、面白さとか。

 

私昔ブログ書いてたときに、友達が、美人ちゃんのブログ、クィアっぽいと言ってくれたことがあって、よく思い出す。ある種の変態性とか不完全性とかそう言うものはあってそこからどう開き直るのかと言うのが結構前提にあったので、CHAIとか好きなんだけど、かなり価値観がクィア的な行動に馴染んでいてそう言うのってやっぱ、前提を知って、その枠組みを破壊するって言う知的でクリエイティブな行為なんだよ。それが格好いいと私は思っているし、私の中の一等賞は常にそこにある。たぶんずっと。これからも。

 

全くもって変えられないものはそこに存在して、そこからどうしていくかが、人間の面白みだと思っているんだよ。それはそれとしてどうしていくかって言う話じゃんか。

 


真実とか現実は元も子もないんですけど、それだけじゃないっていうか…。

 

クリティカルで、ポジティブで、クリエイティブでチャーミングな、構造上の破壊と自由を愛している。言葉にすると言うのはいいことだ。自分が何を大事にしたいのかが良くわかる。

 

私は自分の見てきたものとかセンスとか倫理観は美しいと思っている。それは、変える必要はない。てか、モヤつきを何かしらのクリエイティビティで昇華するって、そう多くの人ができることではないのではないか。まぁまぁな数の人にとっては、明らかに病んでいるのがわかるほどに顎を削ったり目頭を切ったりする方が手軽で、知的でチャーミングなクリエイションに触れてそのスピリットでなんかかっちょいいおしゃれをしようと言うのは結構難易度が高いことっぽいのだ。

 

最近友達に、美人さんは、自分が手に入れたものを大したことないと思う傾向にありそれを手に入れられなかった人のことを毛頭考えていなかったり、周囲にいるさまざまな首席クラスの人々に慣れて、それ以外の人たちへの絶望がすごい、例えるなら、今まで「Eカップの女の子としか付き合ってないから、Cカップを小さいと思ってしまう人」のようだと形容されてようやく腑に落ちた。

 

OK〜〜〜🙆‍♀️ クリエイティブ倫理観アップデートおしゃれアーティストのことを好きなのも、かなり偏っていることを認識した。自分が最先端だ、と思うことによって、「なんでこの人たちこんなに倫理観低いんだ!?」と絶望せずにすみそうだ。「あまりにも最先端」だと思うことで、かなり心の余裕が出てきた。「私は、これを見守る」と言うのができるようになった。今まで、先端の人たちの中だけにいすぎたと言うだけで、それは嘘だったわけでも、外にはなんの影響もなかったのでもなく、先端だったと言うだけなのだ。たぶん、ブログ読んでくれてる人って、たぶん今日載せた楽曲とか動画が何を言おうとしているかは認識できると思うんだよなぁ〜。なんかいちいち絶望したり喚いたりしないから、こうやってなんか描いてたりおしゃれクリエイションと触れるとげんきになる。こっちの世界にいたい。

 

別に倫理観が低い現実を目にしたときに、この世は終わりだとか、目の前の人を断罪したりせずに、「倫理と美徳ってCOOLでセンスがいいんだよなぁ〜〜♡」と思っておこうと思う。何が嫌で何が好きかってスタイルだ。私は投票系のオーディション番組が好きじゃない。流行してるけど、嫌い。何かチャーミングな形で構造上の変えられなさそうに思えるものを、鮮やかに切り返しているものがすき。あと応援しないと先に進めないものより、どこか別のところへ連れてってくれそうな表現がすき。すごく好き!私今かきながらすごく好き!と思っている!こういう時は文字を打つ手にパッションが宿る。

 

好き嫌いは別にあってもいいし自分が大事にしているものがわかる。好き嫌いがあっちゃいけないと思っているときよりほっこりした気持ちになる。

 

やっぱ、あっこゴリラの『GRRRLISM』もめっちゃよくて。「GRRRLISM」って言葉自体も第3派フェミニズムで使われたライオット・ガール(riot grrrl)に依拠していて超最高。格好いい。

ライオット・ガール - Wikipedia

 

 

めっちゃいいな〜と思いながら最近聞いていた。大学院にいた頃は、むしろ「模範解答」くらいに思って聞いていたんだけど、ぜんぜん外側ってそんなことない!折れそうな時、なんかめっちゃ守ってくれる。シェルターすぎ♡

 

いや〜〜MY BODY MY CHOICE!MY LIFE MY CHOICE!

自分の友達ってこういうの格好いいと思う人が身近だった…好きなものを好きって言っておこうと思う…。当たり前じゃなかった…。おしゃれな倫理観を持って生きていきます。