美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

ハクビシンがやった

父の友人からもらったヴィヴィアンウエストウッドのコートを質屋に売った。大した金額にはならなかった。昔バイトしてた店の社長の奥さんからもらったエルメスのスカーフは、まあまあにはなったので、二つ合わせて2回の飲み代くらいにはなった。

 

すごくいいコートだったから、メルカリならもうちょいいい値段になるかな?とか、人にあげた方が喜ばれるかな、と思ったけど、売った。なぜなら今日私はこの後予定があるからだ。コートを持って、次の予定に行くわけにはいかない、それだけだ。

 

ヴィヴィアンのコートなんて、私は似合うはずだった。なのに、似合わない。まず、サイズが大きいし、ずっしりと重厚感があり、なんか、しっくりきていなかった。しっくりこないけど、ヴィヴィアンを私が着るのは良いであろうと思って、着ていた。だけど、似合わなかった。

 

似合わないから手放した。悪いことのような気がしたけど、質屋を後にした私はものすごく晴れやかな気持ちで何か大きな仕事を終えたような、荷下ろしをしたような、気持ちがした。

 

最近、ヴィヴィアン以外にも、その女性からいろんな古着が送られてきた。日常着として似合うけど、まあ、きてもいいけどって感じだった。

 

中国のタグのついた、よくわからない金魚のレースモチーフが真ん中についたワンピースも、似合わなくはないけど、なんか、限りある人生の中で着たいと思うかと言われれば、もっとお気に入りの服を何度も着たい。

 

ナフタレンの匂いも、受け付けなかった。本当は愛着を、まっすぐ示したいのに、私は大人だから、自我があってそれができない。人にあげるか、メルカリに流すか迷ったけど、もうそれ自体がタスクで、捨てた。捨てたら、スッキリした。

 

しばらくして私のセンスのいい友人が仲良くしている、センスのいい女性のお宅に招かれる機会があった。彼女はいくつになってもおしゃれで格好のいい方で、亡くなった旦那様のことをずっと愛している、とても文化的で素敵。しかもおしゃれ。

 

f:id:toyopuri:20231022151740j:image

▲その時に食べためちゃうまパン。昔旦那さんと一緒に作ったっていうモザイクのおしゃれテーブルの上で食べるのー!!

 

そんな方が服を譲ってくれるというのだった。そこでもらった服たちは、私をキラキラと飾り立て、びっくりするほど艶やかに見せた。もらった靴を履けば、足の裏からからゾクゾクするほどパワーが沸いてきて、どこまでも行ける気がするし、会いたい人に会えるような気もする。サンダルだけど、靴下とかを履いてもっと長く今年は履きたいんだ。

 

f:id:toyopuri:20231022154100j:image

 

↑全然ボヤけてるけど、めちゃいいよねー。スタイルよく見える。

 

物をもらう時ってその人のオーラとか物語とか念とかまでもらってしまうから気をつけようと思う。もらいたいものはもらう。私は今、人からもらったレコードプレイヤーとレコードを手放そうとしています。部屋にあるものは、多分少ない方がいい。

 

というか、結果的に部屋に残るものって、自分との関係性がすごく近い人のセンスのものなんですよね。私の部屋は、私に服を譲ってくれた女性を紹介してくれた、センスのいい女の子からもらったもので彩られている。たんぽぽの綿毛がアクリルに閉じ込められた標本。100年前のドイツで作られたマグカップ。神戸でしか買えない林檎の形のプラスチックケースがパッケージのチョコレート。私の宝物はたくさんある。

 

f:id:toyopuri:20231022152808j:image

 

 

また別の友人のお母様が、私に服をくれることもある。

 

f:id:toyopuri:20231022153738j:image

↑ホテルに着いたら、譲られた服にメタモルフォーゼ!もふもふのポシェットもあるぞ!プリティーウーマン流れちゃう♡

 

服に対してとても愛着のある人たちが大事にし続けている、とあるブランドの服をずっと着ている人だ。お仕事でもそのお洋服に携わっている。私は彼女から譲り受ける服が大好きだ。子どもの頃ちょっとおめかししていいレストランに連れてってもらう時のお洋服を思い出す。ボタンひとつひとつが丁寧に作られていて、そのブランドのものだし、胸の部分によせられたヨーク(ひだ)はひとつひとつ繊細で、着ていると、「私はとても大事にされている人だ」と思える。

 

数ヶ月に一度、あるホテルのロビーで集まって、その友人のお母様からお洋服をもらう。それに着替えると、キラキラのピカピカになれるのだ。それで美味しいケーキを食べたり、ホテルの部屋でずーっとこもってその友達と、社会学の話をする(基本的に私が最近市井で見聞きしたヤバさや驚きを興奮気味に紹介し、友達はフンフン聴きながら、ナイフで器用にいちごのヘタとかを切っている。)。そして彼女のお母さんはそれ見てめちゃウケてくれている。

 

彼女のお母さんは言うのだ。

「きちんとおしゃれしてるとな、ええことあるから」(意訳)

私は彼女を先輩魔女だと思っている。先輩魔女は、何人かいるけど。そのうちの1人。

 

 

わたしはこのことが、しあわせ!だから、変に言い訳したり、バツの悪い顔をせずにこのことを大事にする。これは、私の趣味。みんな趣味の合う仲間と趣味の話をしてるでしょ。

 

私は自分の人生をこういう世界に賭けている。とてもキラキラと自分を飾り立てて、キラキラとした物を食べること。それがやりたい。

何かを切り捨てたことは考えるのはやめた。野球好きな人が野球人生を送るのと同じだ。

 

f:id:toyopuri:20231022154709j:image

 

べつに、ラグジュアリーだけが好きってわけでもないんだよ〜。これは、仲良しの後輩の女の子からもらったカメラ!4枚がフレームで一気に撮れるの!センス良すぎか!

 

まあでも、彼女も、普通の女の子かといえばそうではないわけで…。結局自分とエネルギー値が近い人同士しか、仲良くならないのかなとかは思うな。

 

何を選ばなかったかより、何を選びたいかで考えたい。最近思うんだけど、友情って結局一緒に仕事というか、同じ目的を達成できる度合いに相関してるんじゃないかと思うんだよ。友達とビジネスやると友情が壊れる、みたいな話は、東海オンエアの騒動で出てるけど、そもそも東海オンエア自体が成り立ってなかっただろ、と思う。あの炎上だって3人のパワーバランスが全てでかいからだ。

 

一緒にひとつのことも成し遂げられないけど、一緒にいたいって関係性は難しいんじゃないかと思う。存在しているだけでいいとか、隣にいるだけで落ち着くから、というのは、言葉にしないだけで、一緒にいることだけで何かの目的を果たしているということで、会話をすることで自己が深まることで、やっぱり、本当に誰でもいいわけではないと思うんだよな。この前ディズニーランドに仲良しの友達といてずーっと座って喋ってたけど、それだけで楽しいということはものすごい貴重なことなんだよな。

 

一緒に何かひとつのことをやって、高いレベルでうまく行く人であれば、多少性格になんがあっても、趣味が合わなくても、ストレスとかも多少はあるかもしれないけど、まあでも一緒になんかやって上手く行く人であれば結果的にある程度仲良しなんだと思う。意見が合わなくても、エネルギー値が揃っているということが、時として温もりより大事に思える時があるのだ。あとセンスな。

 

私は、子どもの頃からの友達と、大学からの友達にそれぞれ服を選んでスタイリングして、同じ近所で写真を撮ってもらったことがあるけど、大学から出会った友達が撮ってくれた写真の方が、服も写真も圧倒的に良かった。今日も自宅から駅まで行く途中で、彼女がフォトスポットに使ってくれた、店と店の間にある階段、27年も通ってたのに、初めて知った場所。今まで全く知らなかった場所が特別になる。

 

f:id:toyopuri:20231022183902j:image

 

だから、ダメなんだよ。特別は特別。

 

一瞬の美で誰を夢中にさせるかだよ。そして人生の時間は限られている。勝負はついている。誰に悪いとも思わず、実力がある人のことだけ大事にしたい。

 

 

そういえば、一時期写ルンですを私が催しをやるスペースに置いてたけど、限られたフィルムと高い現像代をこの人に使いたくないと、取捨選択しながらシャッターを押している自分に気がついて悲しくなった。

 

自分の誕生日会に来てくれた好きな友達とならいくらだって、何回だってシャッターを押したいのに。有限性が美しいのって、残酷だからかなあ。

 

いっぱいフィルム使ってもらえる人もいれば、全く映らない人もいる。でも、人の心だってそうじゃないか。

 

今日、いろんな人たちの前で、散々愚痴らせてもらって、気がついたけど、私は心の本能にめっちゃ反することをしている。「美人ちゃん、心の中に何か動物を飼ってみたら?その人は何に懐いて、何に懐かない?なんでもいいのよ、ハクビシンとか」って言われた。

 

ハクビシンの尻尾が暗闇の中を、遠くに消えていったのがわかった。

 

私のハクビシンは真っ暗な中をあまりに自由に走り抜け、懐かねばならないと思ったものたちには目もくれず、遠くに行った。ものすごいはやさで。なにかをめがけて、どこかにいってしまった。