美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

理性と美学と暴力と

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2024年始まってすぐに言う話ではないが、ケアや感情より先に、理性と倫理と暴力性みたいなものが自分の内側を占めていることに気がつき始めた。批評性というものには暴力性が宿るし、真実には暴力性がある。

 

でも、理性と倫理と暴力が何よりわかるからこそ、ケアと愛を実践できるのかなと思う。なにが爪弾きにされるのか、誰が爪弾きにされるのか。何がイケてるのか、なにがダサいのか。わかるし、自分がそこから漏れてる時もよくわかる。

 

実力差は歴然。一瞬で誰が勝利かがわかることってたくさんある。競争はあんまり良くない気がする。でも、ああ、この日はこの人の勝ちだなと思うような瞬間を目にすることたくさんある。

 

どんな人の人生にもどんな言葉にも意味があり耳を澄ませることで新しい未来が拓いていく。しかし、私の耳は両側に2つしかついていない。私の目も2つしかない。脳もひとつしかない。腕は2つ、歩いて行ける足は2本。体もひとつである。残念ながら私が概念じゃなかった。概念じゃなかったことが悲しい。

 

もらった服を着られる体もひとつしかないので、お下がりの服をもらうことが多いけど、なるべく素敵な人から貰った素敵な服を着たい。

 

私が好きな人と、私を好きな人は釣り合っていない。

 

面白い創作もあれば、つまんない創作もある。

 

自分のことでいっぱいの人より、余裕がある人が好き。

 

年齢を重ねてこれから人前に出て〇〇したいみたいな話をしてくる私より20歳くらい上の人たちってなんであんなに客観性が低くて見苦しいんだろうと思う。

 

あれ?全てのチャレンジって美しいんじゃなかったっけ?笑笑

 

なるべく綺麗事で生きていたいのに、見苦しいと堪え難いが私を蝕む。正月から「100分で名著」の「ディスタンクシオン」の回の本が自宅にあったので読み返したら「他者の趣味の悪さに対する内蔵が裏返るような耐え難さ」という劇的にやばい記述があり、脳内で絶叫した。ピエール・ブルデューが、私よりもマジで言っちゃいけないことをマジで言ってて泣いた。

 

残酷すぎることに気がついていたから、私は優しかった。多分。その輪郭がはっきりと掴めれば掴めるほど優しくなる。真剣になればなるほど残酷さが見える。多分一番人を助けられる立ち位置にいる、救急救命に携わる人とかって、助からない状態のこともよくわかるんだろうなと思う。残酷さを直視した人間だけが、得ることのできる救いの力みたいなのはあると思う。

 

私の感情の分散先のトリアージに発狂しそうになる。去年は「全ては救われるべきだし救われるけどそれは、美人さんが1人で担うことではない」と慰められたり「美人さんは国家ではないから大丈夫だよ」と慰められたりしていた。ウケるよね。

 

自分のエゴに忠実に動くなら、私はなるべくバックグラウンドが恵まれてきた人が担ってきたカルチャーを好きになりがちだと思う。若しくは、そこへのカウンターカルチャーをガチの魂でやってるか。結局極端なものは面白く、真ん中のものは毒にも薬にもならない。

 

大学院の頃の同級生がやってる演劇とか映画とかって、どこかに批評性が入っていたり自分自身へのこだわりが少ないから、時代性を描いていたりして面白い。見ていて同じ文脈を共有している観客として自分の席があると思う。だから好きだ。一方で、インターネットきっかけに会った人々や、その他自分の身の回りでゴニョゴニョ、「私も愛されたい!」みたいな気持ちでやってる創作物に対して「ウッ美味しくない…」という拒否反応が生まれることがある。感性、残酷すぎるな。基本的にそういうものを私は食べたくないんですよ。毒だから。

 

ていうか、私は大学時代、文化祭とかでめっちゃ華やかなチアリーディングのパフォーマンスとか見てたんだよな。やっぱり、人前に出るって、人間4段重ねとかになって、事故のないように最後までパフォーマンスをやり切る、みたいなものを見てきていて。それってエゴやコンプレックスとか虚栄心だけがデカいと絶対にできないことで、「実力」というところに宿る美しさがある気がするんだよね。

 

頑張らなくてもいいけど、一生懸命やってるものは美しいというのは本当に大事だと思う。覚悟もなにもできてないしょうもない自己満足の褒められたいだけの出し物なんてクソ喰らえだと思っている。

 

私は優しさを、一生懸命な感じがしないものにも振り分けることを大事にしすぎてしまったんだと思う。残酷さに目を向けるのが怖かったから、そっとないことにした。でもそれって、逃げだったんだろうな、と思う。

 

私が行ける場所も時間の使い方も、全部限られている。一瞬一瞬、その人が時間を取ってくれるかどうかも、同じ時間を過ごすかどうかも、どこに行くかも、選ばれるものと選ばれないものの差でできている。

 

全員に選ばれる必要はないから、私が選びたいものを選び、選ばれたいものに選ばれる人であろうと思う。

 

選び選ばれることの虚しさに、愚直に向き合っていきたいと思う。