美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

人生は時間の切り売りにすぎず、願わくば川口アパートメントに住みたい

ブログの様子が、ここ数日頑なで少し変なモードになっていることは自覚しているのだが、書くことをやめることができない。書くということは考えることで、話しながら考えるのが常である私にとって、こうするほか、思考を巡らせる方法が思いつかない。

 

紙にでもひとりで書けばいいではないか、人に公開する必要があるのかというのはごもっともなのだが、自分だけの世界というのは、たぶん、これよりも独りよがりで、自分が何を考えていてどうしたいのかがわからなくなる。まあそのために読書とかがあって、本をいっぱい読んだのちに綴る自分のためだけの文章は魅惑的だと思うけど。隠されているものの方が官能的だからなぁ。

 

私はどうにも、自分の内的なものが絶えず外に出ていないと、落ち着かない。堰き止められない。子供の時から常にしゃべりつづけ、手元で何かを作り続け、終わりが来ることから逃げ続けた。主観が極めて強く、外界が嫌い。基本的には誰かの内的世界が外に飛び出したものしか受け止められない。こちらが見ているものを世界にする方が、すでにある世界に順応するよりはるかに心が落ち着く。

 

なんでこんなに人生へのやる気に波があり、突然の短期的努力と瞬発力と、低空飛行を繰り返してしまうんだろうか。多分、生きることに対する活力がいまいち足りない。いや、溢れているだろ!というつっこみも受け付ける。あと、とくにテンションが上がる目標がないんだよな。世の中の人はほとんどそうと言うのもわかるんだけど、なんか、命をやっていくところにもう一個ほしいのよね。ケアの実現かな〜と思ってたんだけど、受け入れられる人間のキャパがあまりに狭すぎた。純愛の未亡人貫き女性との時間と贈与を愛していて、そちらにステフリしたいので…。

買いたいものもない。ぱらぱらとした出費はあるけど、推し活とかみたいな、駆動力になるお菓子のようなお金の使い道がない。タワマンにも興味がない。腕も2本しかないので、バッグも1つでいい。好きな服を着たいとこの前のブログで書いたけど、確かにいいお値段する服を買うことを目標にしてもいいかもしれない。だけど、身体も1個しかなくて、私、服も人からもらうことが多くて、それが本当に似合うし、べつにそれだけでもいい。

叶えたいものは大体叶えたし、結婚も出産も興味ない。あ、本を出したいとか?私は自分の言葉を読んで欲しい人にはこうして届いているので、何か文学やエッセイで勝負したいという気持ちもない。元々、なんだかのんびりと友達と過ごせればいいかなぁと思ってたんだけど、皆それぞれの人生もあると思うので、私の個人の目標というものがないと誠実じゃないなぁと思い始めた。

やっぱり、本当に死ぬまでにもうやりたいことがないのだよ。一昨日、ネトフリ『浅草キッド』(ビートたけしの自伝を柳楽優弥がやったやつ)みたけど、頑張っててすごかった。コンプレックスも成り上がりもなんか、もういいじゃないですか、という気持ちがある。でも、ちゃんと自分が信じる芸事とか美学とかは妥協せずにやった方がいいという、昭和的な極道みがあってよかったよ〜〜。

私はさぁ、人の力を借りながら、無理をせず、明日のご飯があり、おしゃべりだけしてればいい、という思想なんだよな〜。さもなくば死にたい。急。なのになんで、ここ数日のブログおかしいんだろう。たぶん、さみしいんだよなぁ。「おしゃべりしてればいい」というのがくせものでさ、誰でもいいわけじゃなかったんだよな〜。話し合う人間のがすくないわ笑 無理 笑 まぁ、本読んでいたら、話の合う人とのおしゃべりしているも同然だけどね。


何者にならなくてもいいはずなのに、何者でなくてもいいと思える関係って、それは、別の優先順位の話でしかないんだよな、ということがしんどい。何時間だって待てる友達はいるけど、地球の人全員を待っていたら、何も始まらない。何時間だって待てる相手って、それはそれで、存在という価値のエリートなんだよな。多分関係性って広義の恋愛なんだよな。「美人さんはいつも選ばれない人のこと気にしているよね」と言われたけど、なんで私は「選ばれない人」のことを気にするほど自分を偉いと思っているんだろうと思って、そういうのはやめることにした。なんか、結局偶然性以外に人が救ったり救われたりというのは存在しないということになった。救おうとするのは傲慢。

神の所在について述べられてるこの記事めっちゃいい。

 

vetechu.hatenablog.com

 

この記事のラストで引用されている

 

捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-「オールアラウンドユー」木下龍也

 

をよく思い出すんだよな。人の存在って、たまたま役立ったとか、そういう話でしかないんだよな。あれだ、『化物語』のやつ。「きみが一人で勝手に助かるだけだよ」ってやつ。それです。結局。

 

 

これも読んだのだけど、この中に「アンサングヒーロー」という概念が出てきて、その人が助けようとも思わず偶然助けたり、その存在が誰にも歌われないようなヒーローのことが書いてある。この中だと、偶然防波堤の蟻の巣をなんの気無しに埋めていた人のおかげで街が災害から救われたが、結局本人も周りの人もその人がヒーローだと気がつかないという話が出てくる。上の短歌と同じだね。

 

これもいい、宇多田ヒカルの『automatic』を題材に、偶然性により作意なく、思いがけず授けられるものこそが利他であるっちゅ〜はなしなんだけど。本当に、無理をしないでいいんだよな。ってなると自由意志の所在の話になりすぐ私の周りの人たちはスピノザの話をしてくる。


私は、選ぶのが苦しいんだよ。「人間が死ぬまでにやることなんて、人と語らってご飯食べることじゃないか!」と思ったのはいいんだけど、それを市場に出せば競争は生まれる。YouTubeだってそう。握手会だって、スパチャだってそう。お金を積んだ分だけ、その人の一生の何秒かを買う。そういうことだ。文章を読んでもらうこともそうだ。映画なんて人間を暗い場所に監禁して、120分もある人が作った世界を浴びせかけるのだからすごい。全ては価値と時間の奪い合い、競争だ。もし競争出ない可能性があるなら、創造と偶然性だよな。自然と惹きつけられるものから目を背けてそうじゃない方に向かおうとするのって、なんか、変なマッチョさなんだよな。

 

でもさ、人が集まる場所に行った時に、その時にいる誰と話せば先の出来事が巻き起こるかがわかる。名刺を貰えば「やっぱり」と思う。私だって、合コンとかで「こいつないな」と思われたら悲しいのに。秒でわかることってある。私はもうある場所では「選ばれる側」であり「選ぶ側」でもある。でも、それってあまりにも自分の決定事項を絶対視しすぎていると言うか、私が何かを選んだり選ばれたりするのも過去の流れの集積に押し流されているだけで、たった一人の人間である私に何かを決めて誰かを傷つける力があると思うほど、自分の力を大きく見るのも傲慢なのだ。自分の決断で世界が揺らぐと言う大きな自信と、自分の決断如きで世界は傷つかないという謙虚な呑気さをどちらも持っておく。他に誰にも愛されていなさそうな(本当に失礼だが)おじいさんが、地元の缶詰バーにいこうと言ってくるのを適当にいなして、先行きのありそうな人と知り合いになっておかんといけん、と思うことを気にしなくていい。


配信は、お金を払えばコメントが読んでもらえる。1人の配信に何人もが群がる。時間の希少性は、全く平等ではない。人生は平等だが、人間は全く平等じゃない。でも、救いがあるのはやっぱり、一人一人に人生が平等にあるということだ。だれにも他人の人生のことはわからないのだ。だから、なるべく気持ちよく接しようと思ってはじめた。

いや〜〜〜〜〜完全に闇落ちをしていたね!受け止めきれないものがこの世には多すぎる。無理だよ。無理をしないことを掲げる私が無理をするのは違うね。人間って大変だよ。私は私が話してて楽しい場所にいるべきだよ。利己と自分を大切にすることが利他に繋がるからなぁ。この前、友達が「自然淘汰だよ…」と言ってたけど、本当にそうだ。神に逆らえん。もっと私もね自然と心惹かれるものに行った方がいい。

この前、早稲田のミュージカルサークルのseiren musicalをapplestoreに見にいった。

 


いや、うっめぇよ。うっめぇ。非の付け所なくうまい。最高だった。私高校生の時に1回真冬に新宿に公演見にいっているんだよね。最近、自分がわざわざ足を運んだり手間をかけたものって本当に好きなものじゃないかと思って、再訪することにしている。入学してから、新歓公演も行って、正直圧倒的だった。みんな早朝バイトして、ハードなレッスンしてて、私には絶対できないと思って、入るの諦めたけど、やっぱ、覚えているもんな、いまだに。なんか、私もちゃんとやってちゃんと頑張ろうって気持ちになるんだよな。ほんとうに。しっかりしている人を見たいよ。自分の美意識に沿うものを見たい。

急に新歓公演の時に聞いたディズニーランドのショーの挿入歌が良かったのを思い出して、applestoreからの帰り道、その曲を聞いた。やっぱな〜覚えてるんだよな。覚えているって好きなことなんだよ。


やっぱね、レベル高いものにしか興味ないんだよな。私は、自分が報われなかったり、コンプレックスがあったりするから、そういうちょっといじけたものとかをなるべく応援してあげた方がいいかなぁと思ったんだよね。でも、エンタメにおいて「私だってこうなりたい!」みたいな自己実現や、これまでの生い立ちを克服するための何かしらが見えると気持ち悪いんだよな。自家中毒気味で、足を運んでも疲れるんだよ。マジで好きじゃない。誰が見るんだ。私は自分のことで精一杯なんじゃなくて、客観的に見て成功、成立しているものが見たいのだ。


私、憧れのトークライブハウスでアイドルステージやったけど、ちょっと虚しかったもん。 私以外の子達がZOCの『Family name』を泣きながら歌ってたけど楽屋から見ていて正直冷めた。どうしてこんなに一生懸命なのにさめちゃうんだろう。それは二番煎じだからだろうな。あと、オナニーだから。既存の曲に人生当て嵌めて歌って酔ってるのを見ても、仕方ないもん。世界は優しくて、そして辛辣だ。世界は、交わらない。ただ、少しだけ重なるのだ。

やっぱり、勉強ができたり体力があったりして恵まれた人のコンテンツより、生い立ちが大変な中で頑張っているところに光とか見出した方がいいかな…と思って、ミスiD界隈にいたけど、だめだ。それは観光客的な態度であり、めちゃくちゃ失礼だ。そうとしか思えない人間は、去るしかないな。最近映画の『FIGHT CLUB』やっと見たけど、患者会にツーリスト的な態度で参加している主人公のあれだわ私。ちょっと気持ちよくなってたわ、正直。どうしようもない女の子たちに囲まれている時に。優越感を感じていたと思う。はっきりしましょう。

 

確かに、表参道のapplestoreでやるミュージカルって難関大学に行って、恵まれた人も多くてそりゃ強者のエンタメですよ。でもね、圧倒的すぎて、そんなルサンチマンいいようがないんだよな。いい意味で自我を感じさせないんだよね。自分が透明になるようなシンクロ性を生きている。文句がつけられない。圧倒的な実力で黙らせるミュージカルが見たい。甘えがないんだよな。私seirenが好きで、学生ミュージカルとか、社会人サークルのミュージカルとかあるんだけど、seiren超えてこないんだよな。高校生の時に見に行っている時点で答えなんだよな〜。答えが出てるものを何度も演算しない。


やっぱ属性外の人と会うとか、関わるって危険だからな、私、人と握手した時に、「あっ!いまこの人から今パワー吸い取られてる!」ってなんとなく手の感覚でわかることがあるんだよね。多分当たっていると思うんだよな。初めてそれを感じたのは、大学生の頃飲み屋でバイトしてる時に「美人ちゃんは一番好きな人と結婚しちゃダメよ…二番目にすきなひとにしときな…」って女の人に手を握られた時。指先から、どーんと落ちていく感じ。運気が下に下に落ちる。「それは一番好きな人と結婚できた人にしか言えないことですよ〜!!」っていったけど指先から邪気が…年長者の闇にふれると怖くてねぇ…ちなみに波動強そうな人に触れると注がれる感じがして、安心する。私が親しくない人とのハグとかボディタッチ嫌うのって、すごい拾いやすいからなんだよな。

この前、子供の時から仲良しの女の子を誘って『テルマ&ルイーズ』(私は)2回目見に行ったんだけど、彼女ちょっと嫌なことあったのかなって感じで。ぶっ放そうぜ、と言う気持ちではあったんだけど、なんか、彼女が隣の席に座った途端に私も背中がイガイガする。隣にいる人の感覚が自分に乗り移る時があるんだよね。これ多分自他境界があいまいなところにも起因しているんだけど。多分間違いじゃないと思うんだよね。映画が進んでいくうちに、少しほどけていく、あ、楽しいと思っている、気に入ったな、と言うのが、これ変だと思うんだけど、めっちゃ伝わってくるんだよな。多分楽しかっただろうなって、上映後言葉を交わさなくてもわかる。これ私の勘違いかなぁ。でも、中学生くらいの頃から、好きな男の子が次に言う言葉がわかってハモったりして怖がられたこととかめっちゃあるんだよな。わかんないんだよ、私も怖いんだよ。でも相手の身体感覚を拾ったり、数秒先のことが読める時がある。

ともかく、なにか感情の刺抜きみたいなことが自分にはできるんじゃないかと思ってたのよ。自分の話ばっかりするところが大半なんなんだけど時々人の話が聞ける時があると思っているからね。配信も、アイドルも、YouTubeも、スナックも、コーチングも「人間と温かく接する」で生きていけるかな?の実験だが、やはりね、とてつもない邪気に触れる時があり、「お、ここは『千と千尋』の湯屋か〜〜?」と思いながら邪気を吸い取れるときもあれば──やっぱカウンター越しじゃないと無理だ、プライベートで会うと取り込まれるね──

 

まじでやばい、人の心に深く入り込むと、これは心の触れてはいけない部分に触れにいって何かを癒そうとしているという、支配欲と背中合わせの危険性を感じることがある。結局、『千と千尋』って、湯女だもんなぁ。お風呂屋さんなんですよ。最近あまりにも泥を被りすぎてて調子が悪いんですよ。ご自愛ポイントが減って他者に当たり散らしている。基本的に自分が住むべき世界と違う場所にいたので削られたんですよね。早く元いた世界に帰った方がいい。

 

この世は私が見てきたより、すさまじい。壁に指突っ込んだらどんどん出てくる。

やっぱ、人の闇って底なしなんだよな。向かっていっても仕方ない。私が楽しいことをやったり、書いたりしていてそれを読んだ人が偶然とか、そう言うのしか成立せん。無理や。


そうそう、昨日、ハウルの話したけど、ハウルが鳥になってからの時間のことを
「本当に面倒くさい」と思っているもんな。あれいらないよう〜〜〜。
そうなるとやっぱ「在宅」と「監禁」の話になっちゃうもんな、『ハウルの動く城』。

でも、一旦鳥になって守りたいものができるまでの流れ、面倒だよう〜〜〜。
やめようよ〜〜〜。鳥きもいよ〜〜〜。端折ろうよ〜〜〜〜。
一旦氷漬けになったあとの回復の過程も面倒だよう〜〜〜。

 

 

やっぱ前半部の空中散歩とかしているから後から皺寄せが来るんだよな。
イキって目玉焼きを作ったり、髪色が変わってドロドロになっているところの繰り返しで人生終わっていくよ?と思うんだけど、だめ?

『すずめの戸締り』もそうだよう〜。一旦凍る過程面倒だよ〜〜。

勝手に男が作った社会で氷漬けになったものを溶かすの手間だよ〜〜。
でもな〜〜、結局私が上澄みとしか会ってないからな。

おしゃれなブログ書こうとしたのに変な感じになっちゃったよ〜〜〜。

うちの弟もずっと家で凍ってるよ〜〜。私のパッパも私が鬼詰めしたので凍ってしまって最近実家帰って来なくなったよ〜〜。

 

人生これ▼がいい

 

まあ。人間が凍りつくような競争やめようや、は、結局やっぱ箱庭の中で紡いだ理想論でしかなくてさ、私は本当に上澄の何かとしか出会ってなかったからこんなことを言えるのであって、やっぱり競争原理は働くんだよな。まじで、「話も通じん、うんともすんとも言わん、なんや、時間使ってどうするんや!!」というような人が出てくるからなぁ。


seiren  musicalの並の仕切りをできる人をずっと憧れの対象として見てきて、誤った世界の認知で生きていると。噛み合いません。エリートのハーレムに囲まれすぎて完全にボケている。基本的にライブ配信とかやってた時に思ったけど、コメントの日本語がおかしい、コミュニケーションがかなり厳しい人だと言うのがパッと見てわかる時がある。すごい弱者なんだよな。たぬかなと宝鐘マリンに全てを任せたい。あと、私が歌謡曲とか魔法少女とか大衆向けコンテンツが好きなのって、差異を透明化するお祭り的な役割があるからなんですよね。SMAPの『SHAKE』を聴いて今日も自室でおどっています。

 

むり!のポーズ▼

 

大学院時代の友達が店に来た時、「美人さんエヴァ見て怒り狂った方がいいよ。怒り狂ってそのままカウンターの中で喋った方がいいよ」って言ってたな。見てないんだよな〜エヴァ。年末も、友達に一旦シンジくんがウジつくシーンを見せられたな。あ〜、こういうこと話してると自我取り戻してくるな。

 

性別の話をメタ認知して話せるのも一部の人、というのも最近知ったね。別に多くの人は、人間の自我よりも目の前の性別を優先させてその興味に基づいて自分の欲を優先させることを、特に問題だと思っていないんだよな。美徳とかダサいかどうかとかを気にしていないんだよな。恥のない世界においては何一つ機能しないのだと知った。恥と矜持と美徳って人間のオプションだからな〜。信じられんけど。

基本的に身体性が自我より先に来る場所では、「ベーシックインカムみたいなモテ」と私がよく呼んでいる「女体扱い」が増えるんだよな。その場の全ての女体に配られる、なんか気持ちの悪い優しさのこと。すごいんだよ、自分が育ってきた環境と全然違うバイトとかすると、ベーシックにモテるんだよ。それをモテというかは微妙だが、「みんなプラン」みたいな謎の気持ちの悪い忖度と不思議な空気。こりゃクセになるね。何もしなくても存在だけが尊重される(ただし何かしらの不穏さがある)ってそういうことかとおもったよ。


自我ってオプションらしい。私はいま皆さんの自我に話しかけてますからね。自我〜〜息してるか〜〜??

まぁ、そうは言いつつやっぱ、最近男女ってやっぱ違うんじゃね?本当に全てが社会により規定されただけのもなのか?とも思い始めているんだよな、ここだけの話だが。やっぱ女体の価値がエグすぎる。友達に「大学院でフェミニズムやった身で言うのもあれだが、やっぱり女体のステ振りがバグすぎる。」と言ったら爆笑された。各地で元も子もないことを言って困られまくっているが。やっぱり…女体カードが強すぎる。

一応立場的に「男女は関係ない」とは、部分的に思っているけど、人間と接する場所に立つとやっぱり男の人が来ることが多いので、ケアという文脈や、男性性と孤独、の文脈だけで語るのは無理があり、自分が女性であることが要因として大きく寄与していることは否定できない。フィールドワークとしてはこれで十分じゃないだろうか。もうちょっと自分が楽しいと思う方向で動くしかないな、やっぱり趣味の良さとか、センスとかって大事だわ〜〜。やっぱほら、ハロプロ性ってそう言うところに宿るから。

女体って底辺にいくと可能性を減らせるんだけど、上位に登ろうとすると女体ポイントなのか実力なのかよくわからなくなると言うのがあるんだよな。私22歳くらいの頃、めっちゃ一生懸命スナックやってたのに、昔そこ借りてたレンタルスペースのおじさんに、あんたのところの一緒にカウンター立ってる女の子たちが、男の子たちと寝てるから来てくれてるんだって言われて泣きながら大喧嘩したことあるんだよな。死ねばいいよな。

やっぱまだ戦うしかないな〜。

 

あと、私はサシで人と会うことを「命の削り合い」だと思っているので。やっぱり、サシはすごい。その時間分とその時間分が等しく削られていく。チームで会うのとサシで会うのって全く別だからなぁ。BTSとか大変だと思うよ。数秒ずつファンに購入されるオンラインのお話会とか、もう、人生の売春というか一生がどんどん切り刻まれて販売されて多くの人のものになっていくのって怖いんだよな。個人をやめなきゃいけないんだよ。

そういう人のことを私は「男巫女」と心の中で呼んでいる。ミスiD審査委員長の小林司も「男巫女」だね。『まどか☆マギカ』の最終回で、まどかが全ての因果を終わらせるために、魔法少女になって概念化して消えてしまったが、BTSも「もはや何を伝えたらいいのかわからない」といって、ホワイトハウスに招待とかされたあと、休止に至ったもんな。生贄みたいな形で人が個室を出て世界中に消費されると、個人というものがなくなって無になっちゃうんじゃないだろうか。あ、あと阿良々木暦も男巫女。自我がよくわかんないから。男巫女は大変だよなぁ。


あと、結局そういう瞬間を切り売りするものって、文脈が積み重なって行かないんだよな。SNSの流れていく投稿にストーリー性がないのと同じで、物語にならないんだよな。なるべくまとまった時間を一定の価値で人に届けるというスタイルの方がいい。

あとこうやってエッセイを書くとか。podcastでもやろうかなぁ。

 

て言うか本当に張り合いのある目標がなくて、住みたい場所もなくて。生活もひどい感じなんだよな〜〜なんかどうしても叶えたい目標あるかな〜〜。と思ったら、「そうだ、川口アパートメントに住みたい」と思った。川口アパートメントって、私の好きな作詞家の安井かずみ加藤和彦と一緒に住んでたセンス抜群マンションなんだけど、もし死が迫ってくるなら、住みたい家はたったひとつ。人って自分の夢とか目標とか持っていいんだな。ここに住みたい。1/1の目標じゃないとテンション上がらないからな。

 

brutus.jp

 

超文化度優先趣味であれなんだが、どうしてもここに住みたいんだよな。加賀まりこ野際陽子も住んでたんだってさ。今まで8800万円とかの購入用の物件しかなかったんで諦めてたんだけど、昨日ふと見たら賃貸が出てた。家賃22万円だった。クッソ高いけど、購入よりは、初めて現実味が出る。賃貸の値段今まで出てなかったんだよな。見える目標があるって、夢ができるからいいな。2LDKの値段だけど、ルームシェアならさらに現実味が出る話だし。

都内のタワマンで2LDKだと 平均45万らしいから、半額以下じゃん。マジでこっちの方が500倍趣味いいな。人それぞれだけど。確かにお金は関係あるし、家賃22万の家と45万の家を比べている時点ですでに基準があれなのは自覚しているんだけど。私がストーリー至上主義だからな。

やっぱ成金趣味って悪趣味なんだよ。本当に住みたくて住んでいるのかよくわからないから。やっぱりね、自分の欲望の形がわかってないのって一番怖い。私もまたそうで、万人に優しくできなかったんだよな。もしそうなら、今度は自分の欲望を希求するしかない。救いえないもののことは見ずに、seiren musicalを時々見にいって、川口アパートメントのことを考えて暮らしていきます〜〜。利己利己。話の合う人となるべく一緒にいます〜〜。

 

私本当にエスパー力強いんで、多分叶うと思っているんですけど、私が借りる時、なんとなく安井かずみが住んでた部屋が開く気がしているんだよなぁ。そう言うのはあると思うんですよね。ベストタイミングがこれから死ぬまでの70〜80年の間に起こるといいなって思って暮らします。楽しみ。これが私の人生で手に入れたいものだなぁ。あとは変わらない生活。川口アパートメントに住む時にそれに見合う自分でありたいな。