美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

ねぇ、私たちがいつか死ぬって、知ってた?

 

今朝見た、桐朋高等学校の生徒が書いた答辞が本当に美しかった。私にはこんなものは書けない。圧倒的に頭がよく、文才に優れ、そしてこのような話をして噛み合う自我を育成する環境があり、それを受け取りあうに相応しい同級生たちがいたのだろうな、と思う。自我というのは周囲の環境との相互作用で生まれて行くからだ。こんなもの、もう、絶対に自分が18歳の時に書けない。そのことが、嬉しい。

 

桐朋高等学校、78期卒業生の答辞に賛辞やまず 「只者ではない」「感動のあまり泣いて10回読み直した」(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース

 

自分より10歳近く年下で、このような言葉を放つ人間がこの世にいるのだと思うと、私はもう少し生きてみても良いかな、生きるのが楽しそうだなと思う。孤独ではないということはそういうことだ。こういう言葉を綴る人たちのそばにいたい、と思う。しかも、これ、同級生の名前の漢字を1字ずつ、とってるんだって。すごくない?圧巻だよ。生涯残るこの言葉をもらった同級生たちは、この先も何か迷うことがあったり、悩むとき、彼の言葉を思い出すのかもしれない。すごいプレゼントだ。どうか、彼らがどんな風にも負けず、ここでの幸せな日々を自分の自信のひとつにして、ささやかだけれども全力の羽ばたきを見せて欲しいと願うほかない。彼らは自分たちの力と責任を信じている気がする。

 

10歳くらいの時から何度も思ってたことだが、私は名門の男子校というものにものすごい憧れがある。「男子校の男の子になりたかった」ということを通算1000回以上は言っていると思う。自分たちのことを自分たちでやることが許される自由が、女子校のそれとはまた一風違ったように見え、その圧倒的な活力に、羨ましさでひっくり返りそうになる。上の答辞だと、修学旅行のしおりが著しく分厚いのとかいいよね。基本的にエネルギーがデカくてぶつけ先とアウトプットがとんでもないのよな。

 

自分が高校生の時から、校外のコミュニティで私はそういう子たちに会ってきたが──その中でも生徒会だったりするからさらに自治的な気持ちが成長している人達なのだろうが──彼らが、自分たちの力を信じ、自分たちが持っているものを使って自分の外側に影響を生み出せると思っている姿は、私にとって初めて見たもので、私に衝撃を与えた。1件だけではない。何件かある。なんか明日からIFの自我で生きて良いとしたら、頭がいい男子校の男子になりたいなー。なるかー。なりまーす。

 

私は最近、友人から「美人さんは結局上位5%の人間にしか興味がないよね。」と指摘されているが、この答辞なんて、1%よりさらに上澄の上澄だろう。でも、私はこういうものを読んでいる時に、あ、安心だ、と感じる。自分の目の前のものをなにひとつ変えられないと思う時、私は死んだような気分になる。人生で読める文章は限られてるのに!?!?人付き合いできる数も限られてるのに!?!話噛み合いたくない!?!と思っている。

 

最近、また、これまでずっと仲の良かった友達に、「若さを失うのが怖いんだなと思った。」と言われて、私はその言葉が気持ち悪くなり、「諦念を、拾いたくないから、ごめん」と私も言い、距離を置いた。最近人と喧嘩をすることが格段に増えてしまった。

 

(これは異常事態だ!このままだと周囲も自分も傷つけまくる!)と判断し、オンラインでコーチングを受けて、自分の話を聞いても特になんの影響も傷つきもしない人に、自分のモヤつきについて、正直に話して整理した。「美人さんの中で、これを大事にしたいなーって思う言葉って今、浮かんだりしますか?」と言われて、「あの、ほ、本当に思ってることを言っても良いですか…」「すごい変かもしれないんですけど…」と前置きし、「えっと…び、び…美学」と答えた。特に笑われなかった。「あと、倫理観とか、仁義とかも大事だと思っています。周囲と軋轢があっても、どうしても貫きたくて、このままだと不和を起こしてしまうんだけど、自分の中で大事なものが決まっていて、捨てることができない。」と話した。

 

4年ほど前渋谷の、七宝っていう、好きな具材を選べる辛い春雨ヌードルのお店によく行っている時期があった。当時、一緒にやっていた試みのメンバーの人々と通っていた。リーダーのお兄さんから「美人さんって、どんな人がタイプなんですか?」と言われてなんの気無しに、「んー、美学?」って言って、そのあと大して、話が噛み合わなかった。

 

当時を振り返り、ものすごいイタかったんじゃないか、とか、すごい変なことを言った!と思って、「私が変だったんだ!もう一生こんなことを言うことはないんだ!なんか文化系人間の内輪ノリを出してしまった!」と3年くらい後悔してたんだけど、幸か不幸か、自分に対して求めるものも他人に対して求めるものも、私は、「美学」で間違いないんだと思う。何度演算しても叩き出される答えが近くなる、それはもう、答えだ。しょうがない、何度出してもそれが出てしまう。息をしてただ死ぬだけでは私にとっては生きることにはならない。縛りは少ない方がいいのだが、「美学」と言う縛りが私の人生を面倒くさくしており、なおかつ華やかに彩っている。

 

コーチングって基本的に、相手の言葉繰り返すだけなので(プロはそこら辺がプロフェッショナルなのだが)、「美学と倫理と仁義を…」と話を聞いてくれたコーチに繰り返される。「はい…それを残りの人生でなんとしても希求したくて…」と言うと、これもまたお決まりのセリフではあるのだが「今回のコーチング始まった時よりも、美学や仁義といった話をされている時の方が美人さんの表情がイキイキしているように見えます!」と言われた。それは本当にそう。じゃなきゃ美人とか名乗ってない。「でも、これには暴力性が宿るんですよ、でもどうしてもやめられないんですよ。」と言うと、「あなたの性格診断では、『オリジナリティ』と同じくらい、『一流志向』の指標が高いのでその部分に現れていると思います。」と言われ、腑に落ちる。本当にそう。

 

肉親に対してもそうだ。ほんと最近この話しかしてなくて申し訳ないんだけど、父が怖気付いて、再婚結婚式に私を堂々と呼べず、埋め合わせに、都内から湘南の方に移転した昔家族で行ったイタリアンに連れて行くことを要請するも、傷に向き合うことができず、ナンセンスな言葉──過去に何度も行った店にも関わらず「良いお店を教えてくれてありがとう」など、強制的に場を仕切り直すような、不可解な言動を行い目の前にあるものを無かったことにする──によって私の逆鱗に触れた。傷を見ていない。喪失を見ないのはなにが大切かを知らないことだ。たとえ痛みを伴うとしても、美しものを見たい。痛みのないものは大切なものではなく、また、初めから痛くないように何かと関わるというのも私は違うと思っている。言葉というのはその時の状況を定義づけしたり、物語の語り手を取る力がある。傷を見る強さがないとはいえ、ヤワな言葉でこの体験をまとめられてたまるかよ、と思い、家に帰って私がその店への激烈な思い入れを込めたSNS投稿を認め、上書きした。私が語った方がいい、うまいから。そういう自分は頭がおかしいんじゃないかと思う。私はそういう他者の弱さを受け止める度量がない。ごまかしを糾弾したくて発狂しそうになる。それは、そういうもので私が幸せになれない性分であり、おためごかしの嘘でその場をまとめてやり過ごせる他者に対して「逃げるな」という強い怒りと嫉妬があるからだろう。はっきりというけど、私は痛みを見ない人と自分の嘘でごまかしていられる人が嫌いだし苦手だ。美学を大事にしているのだから仕方がない。それが私の性格である。

 

父との度重なる口論の末、私はひとつの結論に達する。父が「美人ちゃんは人一倍過去に対する思い入れが強いけど、俺は未来に生きている、だからこうして事業をやってきて起業をして云々」

みたいなことを言われて、「あっ気持ち悪。」と思った。男の夢を聞くのは、覚悟と見込みのあるやつだけでよくて、逃げてる人間の、しかも肉親の夢はキツい。受け止めきれない。少年性というものを私は極めて重要なものだと思っているが、それをこんなにも気持ち悪い形でやられるとびっくりする。大事なものなので埃を払わないと。おそうじおそうじ。

 

還暦間近で発露する、うわべの人生の総決算と、残りを生きるぜ!みたいな態度全部がFAKE臭いんだよな。それをやられると吐き気がする。受け止めきれん。私赤の他人のおじさんのそういうのとかも普段から受け止めてるから敏感なんだよな。親のメンタル面の介護は無理!

 

未来というのは現在や過去からの逃避ではなく、過去と地続きのものであり、なんなら過去現在未来って全部同時に進行しているとかもいうもんな。過去を無視した未来なんて、傲慢傲慢!大嫌い〜。

 

残念ながら美学に反したため、断罪の対象となった。

 

「今のあなたに人と赦し赦し合う気持ちはないの?」と問われたが、赦しと許しは違う、人を赦すことと、美学が許さないことは違う。そうなのだ、自分のコミュニティの外に出て大暴れするのもこれが原因で、人は赦しているが、個人としての美学が堪え難いのだ。そしてそういう自分を赦すしかない。

 

私は私個人の人生で大事なカードが決まっている。「過去」「思い出」「一人一人の個人的な価値」「大事な人」「食べ物」「物語」「空間」「創造性」「セルフメイド」「矜持」。このあたりだろうか。カードにない。手札は捨てなければならない。物語を他者に強要してはいけないことは知っているが、それならば私は私の美学を続けなければいけない。袖を分つまで。

 

「これから先、そちらが、私の人生の節目に登場することは一切ないと思う。わたしは結婚式というものに意味を見出していないしそもそも人を呼ぶつもりもないが、もしやる場合でもそちらを呼ぶことはないだろう。価値観が違うことは責めないがなにが大事なものを分かち合う必要性を感じない。あなたがそれを選んだ。」と言ってしまった。

 

「あ、でもそれは親の場合とは違って、自分が育ててきた云々…」

 などというので、

 

「うーん、申し訳ないんだけど、私は、個人としては、自分が大事にしてるカードがある程度同じ人と分かち合うものが儀式だと思っている。例えば、赤の他人ではあるが、私には、親しくさせていただいている未亡人の方がおり、旦那さんが亡くなった後も、昔一緒に行ったお店に足を運んだり、旦那さんが揃えたインテリアの内装とお部屋で暮らしたり、旦那さんの仕事を引き継いだりして、思い出の中に暮らしていて、それは万人ができることではないし、それを選択する必要がないんだけど、私はこれがすごく好きで綺麗だって思う。たった1つの例でも、現実にそれが1つ存在しているなら、それになりたい。自分が好きだったものや好きだった人とか、過去に対してとても大事に思っているからそれが近い人と一緒にいたい。それはもう決まってることなんだ。赤の他人でも、大事なものがある程度揃っている──もちろんこれも理想や幻想の部分もあるけれど──死ぬまで貫きたいものがひとつある人、というのはきれいだ。好きなのだ。だから、他のカードはいらない。もっと軽いものだと思っている人と分かち合うと重厚さが下がる。そういう一緒にいたいので、これから先分かち合っていくことは難しいと思う。特にあなたが未来志向で生きて夢いっぱいなことには興味がない。違うことは責めないんだけど、私は私の手元にあるカードをなるべく純度を高くしたいので、1番大事なものが違う人とは、今後も難しくなってくる。すまない。」

 

と伝えた結果、マジで、「それは仕方ない、極道だ…。」といわれ、「あぁ、そうだわな。」と思う。しかし、やめられない。綺麗に生きなくてはいけないから。他者が自分の物語通りに生きているとは思ってないが、それならば私は私の見る世界の美学のレートを揃えなくてはならない。交換が効く、というメッセージは、私の人生において必要ないものの一つである。

 

これ以外いらない、という覚悟がかなり決まっており、私はカードの1枚1枚を覚悟を持って切る。他を失ってもいいと思っている分、そこに宿る呪術はデカいとおもう。人生の中で大事にしたいカードが決まっている。重要なカードをさらに選ぶとするなら、「思い出」と「1人1人の価値」である。あと、「食べること」だね。

 

極端な生き方だとは思う。誰もわかんないと思う。だけど、やりたい。なるべくモヤつかずに生きていたいから。そりゃ親とは私だって仲良くしたいけど、同じくらいのカードを切ってくれないとダメだ。最近反省したのか私に占い師を紹介しようとしてきて、私の母とも縁があった人で…とか、ポロポロ送ってくるようになった。完全に効いている。現実が私の美学に合わせて少し変わる。「まあこんなものか」と受け入れてたら私がくすんでいく。それで嫌われるならいいとも思っている。絶対に売り渡したく無いものは尊厳だと決まっている。こちらが出せる条件を向こうが飲むかどうか。ビジネスの世界なんて詳しくは知らないけれど、覚悟のあるハッタリをかませば、向こうからそれ相応のものがやってくる。やる。

 

なんでこんな生き方なのだろう。それは多分、死を覚悟しているからなんだと思う。

今週大学時代の友人から急に連絡が来て、「群馬から東京に来るのでランチできないか」とのことだった。「いいよー」というと張り切りすぎて「今から東京行くことにした!ネカフェに泊まる」と前日夜に前乗りしようとしてくるので、「躁状態ですか?」と尋ねた。相変わらずである。落ち着いて欲しい。

 

結局当日もだいぶ早く来て私を待っていてくれた。いつもそうなのだ。先走るほどに自分を待っててくれるほど関係性に賭けている人間というのは、なかなか出会えなくなっていく。

 

結局1時間ほどお寿司を食べてランチをしたのだけど、彼が全く変わっておらず私はほっとした。「今、自分の好きな街にいて、友達と過ごせるのが楽しい」という趣旨のことを言っており、「本当にそれ!」という気持ちになる。

 

許可を得たから書くけど、その友人は在学中に精神の病を患い、療養生活を送ることになった。ある種の自分の人生に用意されていると思ったレールから外れたことを気にしている時期もあったけど、「それが幸せだったのか」と思う、と言ってて、そう!本当にそう!と思う。

 

その友人は最近出会ったという知人の話を交えながら「やっぱね、死を覚悟したことがある人は違うと思う。」

と言った。「あっ、そうかも」と思う。私はね、基本的に、自殺をしないでいる理由を探している。今全てを辞めたくなったときに、辞めない理由になるような人生を送りたい。そういうふうに生きると決めている。明日死ぬならこれをしておこう、というのをやめたくない。個人でいることをやめない絶対に。好きな人に会う、好きな場所に住む、好きな服を着る、好きなものを食べる。これを全部やる。全部やらないと私が生きてる意味がない。どうしても切実になる。母親が飛び降りた時に感じるものって衝動的な後追いなのですが、なにか、そこに私が罪悪感抱くのって、やっぱりちょっと助けられたのに見殺しにしたって感覚があるからなんですよね。実際面倒くさかったんです。私には私の人生があるのに。この言葉を言うまでに時間がかかりました。私多分贖罪で他者への奉仕に向かってたんですけど、あのまま大学のファッションショーのデザイナーのまま、デザフェスに出て、とか色々考えてたのに、そう言うことにかまけてた自分が嫌になったんですよね。でも、私も私の人生を大事にしてよかったんだ、と思ったりします。人が精神を病むと言うのは、正直しんどいので見捨てたいです。見捨てることが許されていないことすらしんどいのです。あー!やっと言えた!やっぱり、あのまま突き抜けてればあったかもしれない人生と、男子校の男子の自我でやってくしかないんだよな。夢みがちとか、イタいとかじゃなくて、「っていうか死ぬんで!?」以外ないんだよな。

 

これは呪いの言葉をみなさんにかけますが、どんなアレかはわからないけどみなさんもそのうちなにかしら別の形で、身近な人を見殺しにしたと思わされるような機会が必ずどこかで訪れるし、それを社会は救ってくれない場合もおおいし、みんな死にたいながら頑張って生きてるのよ、みたいなおためごかしで誤魔化されてたまるか、しかし…というようなものを目にする機会があると思う。なにかしらの病気で立ちいかなくなる時もあると思う。生きることそのものをナメない方がいいと思う。

 

この前大学院時代の縁がきっかけで集まった人たちの飲み会で、長年付き合ってる彼女がいる人が、テレビドキュメンタリーで、戦地で深手を負ったフィアンセの女性兵士をいたわる男性の姿を見て、「俺が覚悟してた愛って、ヤワだった」みたいな話をしていて、正直びっくりした。私は「ええっ、結婚式の翌日に全身不随になったりするかもなのに!?」と思って生きてるから。実際そういう例あるし。あ、世の大半はそれくらいの認識で生きているのか、と思った。

 

 

だから全部覚悟なんだよな、愛って覚悟なんだよな。どのくらい覚悟誓えるわけ?と思っている。わたしは美学で親を断罪するくらい、性格がキツいが、反面愛すると決まれば、覚悟ができている。愛に対する覚悟が決まっている。決められないやつは決めなくていいけど、わたしは決まっている。同じものは期待しないが、わたしはその覚悟で挑んでいる。

 

ランチ一緒に食べてた友人が「死ぬと思ったらなんかめっちゃ覚悟でるんだよな。その最近会った知人の人は稼ぐことに振り切ったらしいんだけどさ…」という話をしており。本当にそうだなと思う。ここでもわたしが改めて気がついたことを言葉にしてみることにした。

 

「私、究極365日毎日好きな服が着たい。変かもしれないけど、それ、大事かも。この前服見に行ったらそう思っちゃった。」と言った。

 

──以前、いわゆる終活的な話題の場に参加して、あと1年で死ぬならあなたはどうしたいのか。という問いに対して、たぶん、365日毎日違う自分のすごく好きな服を着て写真を撮りたいと答えたから、多分それが答えなんだよな、美学と同じで。もしそれが本当の願いなら早くやったほうがいい。HEIHEIとMILKの服が好きだ。シックで品がいいのもすき、FOXEYも憧れ。とにかく縫製がいい服は素敵だ、大事にされてる感じがするから。──

 

私の本当はしたいことの話を聞いた友人は、「わかる。自分も、死をものすごく近く感じた経験があるから。だけど、それがないマジョリティには理解されないと思う。」と言っていた。

 

「あとね、雑なご飯食べちゃう時もあるけど、ご飯も美味しいものが食べたい!あと会いたい人に会いたい!今日は予定空いててあなたと会えてよかった!好きな場所に住みたい、好きな人と会いたい、好きな服が着たい、どうしても。」と言った。

 

その友人のすごいところは「死が覚悟できている人間に見える景色が他の人と違う。」ということに客観的であることだ。

 

「好きな服を着て好きなものを集めて、好きなように生きたい」とSNSに書いたら、不慮の事故で生死を彷徨った経験のある子からリアクションが来た。人のリアクションに、その人のバックグラウンドや意味性をみるのはタブーかもしれないしマナー違反かもしれない。だけどね、私のこの言葉が、わがままではなくて、開き直りであり、覚悟だとわかっているんだと思うんだよな。死を見た人は違うから。皆誰しも普通に生きてればそういう場面もあるけど、遅いか早いかだから。私は早めに覚悟ができたから、やるの。それだけ。格好良く生きたい。自分にとって大事なカードを手元に持って、それを意識して、超キラキラに死ぬ。コレはマジ。

 

そのために妥協しない。自分の中の超キラキラをちゃんと集めておく。そんなブログをこれからも更新していければいいと思う。私はなにひとつ変わってないし、むしろ輝きを増していると言っても過言ではない。自分の宝物は自分で見つけられると思っている。最近はバムセが欲しいけど完売が相次いで、バムセチャンスを逃している。

 

ロッタちゃんのポスターとバムセゲットが、超キラキラ人生の鍵のひとつである!

私は私が死ぬまでに「これだけでいい!」と思うささやかな絶品と極上品をこれからこのブログに書きたいと思う。外側も流行も関係ない。私の光は私が決める!

 

と思いながら、最近は2000年代のキムタクを応援しながら、家でSMAPの『SHAKE』と『オリジナルスマイル』を踊りながら生きている。

 

「応援してね!」なんていうアイドルはクソだ。男のぶりっ子に私は冷たいんだよ。ファンサやチェキをするな、媚びるな。照らせ。覚悟の決まったぶりっ子は好きだが…。私は、セカオワの深瀬のこと好きだった時期長かったんだけど、ライブ中に寝っ転がったり、ヘニャヘニャするためマジで嫌いになってしまった。saoriとライブ中にいちゃついてれば客が喜ぶと思うな、甘えんな。ちゃんとやった方がいいから、ライブは。瞬間を生きて欲しい。YUKI「お上手に歌うのではなく、心を込めて歌いたいと思います。」とか、今この瞬間を大事にしてる感じが強い。尊敬している。本当に。

 

JUDY AND MARYは解散し、SMAPも終焉するし、ジャニーズもクソだったが、SMAPのライブ映像はやっぱり真実の輝きなんだよな〜。昔の芸能人の方が覚悟が決まっててかっこいいと思うこと多いな〜。こういう突き抜けてるものを見るとだんだん癒されてくるので、もう少し父親に優しくしてあげてもよかったな〜と思う。自分が強い覚悟で決めていることの上位互換がないと人は発狂するため、本当に、貫きたいものがあって、トップオブトップの人って孤独と戦っててすごいよ。

 

やっぱ自分が一番頑張っているんじゃないか、譲っているのではという多いなる勘違いは人への加害を生む。キムタク、死ぬまでキムタクでやべーな。糸井重里との対談で話してたけど、1日6回公演とか、大変だったこととか思い返しながら「でも今、その話して、自然に笑えてるってことは、いいっしょ」と言ってて、まじで震えた。やっぱ1番よな〜。1番以外勝たない。こっちが応援しなくても、惹きつけられてしまうような感じであってくれ。キムタクって、スッゲー覚悟じゃん。覚悟、すげー!!