美人ブログ

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コンプレックスがカウンターに変わる瞬間を美しいと思う

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▲数年前友達が古本市の店番するのについてって偶然結構手頃な値段で手に入った写真集。最近、 思い切って中のページ切って部屋に貼り付けた。

Girls / Pamela Hanson / ガールズ / パメラ・ハンソン | Photobooks on the Road

 

この前のブログ、「背が低い人が好き」、というのを「コンプレックスが好き」という言葉で言い表したがそれは違うんじゃないかと思う。書き直さなきゃいけないと考えた。

 

わたしは「コンプレックス」そのものではなくて、「コンプレックス」に対するカウンターが好きなのだ。克服するのでも、かわすのでも、受容れるのでも、ひらきなおるのでもいい、自分の身体のままならなさをわかっていながら跳ね除けるその態度が好きなのだ。私が言う「背が低い人が好き」は、思春期にコンプレックスを獲得したからでも、何かその鬱屈とした感じが好きなのでも、欠乏感が好きなのではなく、カウンター性がある場合、その心意気が好きなのだと思う。

 

私と会話相手の彼女の間には、コンプレックスというものは、「強烈に感じ、意識しながら、それに対処しながらどんな生き様をやっていくのかだよな。」といううっすらとした前提が共有されていたように思う。

 

私の言う「背の小さい人好き」には、ノールックで「カウンター性」が含まれていたと思う。ていうか、リアルも含め、フィクションキャラの概念でもあるんだけど…。背が高い人や体格の大きい人が、有利なのは当たり前なのである。有利ではないものがそこに入る時、あるいは入らずに別の文脈で何か光を手にするときに、それはより大きな光を帯びる。だから私は、そういう意味で、よりまばゆいものとか、晴れがましさを期待して「背が低い人が好き」って言ったと思う。「自分が背が低いことで腐ってるひと」は別に好きではないもんな。

 

その時は目の前の友人が言った「ハゲとデブと違って思春期にコンプレックスを持つから背が低いのはアツい」という言葉の切れ味に、思わず、「本当のことを言ってはいけない!」と思った。多分部分的には正しいんだけど、でも、この会話の核心ってそこじゃないんだよなたぶん。これは私が好きなはずの「背が低い人」に対して、失礼だわ。コンプレックスじゃなくてカウンター性がある立ち位置から何かが起こるとドキドキする、強い人が強いのは当たり前だから、もっと難しいものが見たい、というだけの話だ。

 

ていうか、その日彼女と会ったのは、彼女が数年越しにずっと受けたかったという大学の再受験をしたあとだった。なんか、いいんだよな、結局人間の諦めなさが好きなので、私と彼女の間にはパッションが共鳴している。とりあえずカタをつけにいく、というところがすごく好きだ。私は彼女のことも大好きなんだよな。

 

彼女と初めて会った、20歳のごろ、「かわいこぶらなきゃかわいい子に負けちゃうじゃない」と言って、ものすごいぶりっこをしてきたときから心を奪われている。その日はすごく並ぶ青山フラワーマーケットのカフェで待ち合わせしたんだけど、私は雨の日に列に並んでまでカフェに入ったことがなかった。初対面の相手に「並んでいい?」と言って並ばせて、私だったら気を遣ってできないんだけど、入ったカフェはそれはそれは素敵だった。お花がいっぱいで。欲しいものとか、見たいもの、これがいいってもののために妥協をしないというのは彼女から学んだな。晴れがましいほど美しい。いい思い出だ。

 

彼女のフェティッシュさに私はゾッコンなのである。この日も、「私もう少しかわいかったら、セイレーンみたいになってたと思う。」と言っていて、好きになってしまった。そのまま海に引き摺り込まれたい。なんだかいじけ虫みたいな態度と、強烈な引力と、魂の誇り。チャーミングさ、美しさ、愛らしさ。そんな彼女が好きだし、そんな私たちが想像する「背の低い人」は結構必然的に、かなり崇高な存在な可能性があると思う。だからそれは、いつの時期のコンプレックスとかじゃないな。なんか、ここまで長々しく話す話じゃないかもなんだけどさ、人が変えられないものと一緒にどう生きていくかとか、自分の身体や才能をどう愛しながらやっていくかって本当に美しいと思うから。 

 

変えられないものを持ちながらどう美しく格好良くやるかという話なんだよ、たぶん、私たちがあのとき言ってた「背が低い人が好き」は、もっとよいものな気がする。よいものであって欲しいな。

 

私はコンプレックスではなくて、カウンターが好き。 「背が低い人が好き」は、身体性とか有限性という覆りようがないものに対して、仮にコンプレックスを抱いたとしても、それを凌駕する晴れがましさを見たい、という期待だ。これは別に「背が低い人」という言葉にまとめすぎているな。それに単に私が書いているだけで、彼女は別にここまでの晴れがましさは期待してないかもしれないし。

 

それでも、コンプレックスはカウンターに変わる瞬間に想像を絶する美しさを帯びる瞬間があり、そのことを面白いと思う。そういうわけで、私は美人ブログをやっています。そうだったわ。コンプレックスとそのアプローチこそ、美だと思う。もっともっと丁寧に言葉を重ねたいと思った。