美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

すぎたあと のこるひかりを つかまえて わたしとおくに いかなくちゃだ

ハイハイ大人になりましょう。愛の資本の限界と残酷さを知って大人になりましょう。愛、愛、愛、それってそんなにいいものですか?と思う。

 

大学院の徳倫理学の授業で、目の前で溺れている人がいる時に衝動的にどちらを先に助けるか、そこに意思や選択や責任が生じるであろうか、という命題があり、もう2年近く苦しんでいる。苦しい。溺れて助けられなかった方の人が最後に見たビジョンのこと、自分が選ばれなかったことを考えながら沈んでいく瞬間のことを考えると、吐きそうになる。存在しない溺れた人のことを考えて鬱々としながら、洗面台の前でドライヤーをかける夜が、私にはある。

 

相変わらずフリーターですが、こんなことを考えて辛くなってばかりいるので、大学院に戻って、徳倫理学をもう一度専攻しようか悩んでいます。存在しない溺れた人にいつも悩まされています。苦しい。助けてくれ。

 

どうしたらいいだろう。何度やっても溺れてしまう側の人はどうしたらいいんだろうか。 

 

子どもの時からアンデルセンが作った方の人魚姫の童話について苦しいほどに考えてしまうのは、泡になって海に沈む側のことがいつも気になるからだった。自分も泡になるかもしれないし、誰かを泡にしているかもしれない。助けてくれ、しんどすぎる。

 

大人になることは、限界を知ることだと河合隼雄が言ってたけど、私にも限界が見えた。人間には、愛のランクがあると思う。難しい。私は神ではなく、全員を愛せるわけでもなく、できるなら愛が溢れてる人を愛したい。愛は資本である。愛されてきた人間にはそれ相応の愛の資本の香りがするものだ。峯岸みなみとか見てればわかるでしょう。愛の資本は結構可視化されると思う。有名人の垢抜けとかもそういうものだと思うし、アイドルがだんだんアイドルらしくなっていくのも、愛の資本なんだと思う。

 

頂き女子りりちゃんの事件が気になる。

おぢたちからお金を巻き上げた女の子の話なんだけど、どうしても、私はさ巻き上げられたおじさんが不幸なのか、微妙だなって思うんだよ。

 

頂き女子りりちゃん、54歳派遣社員から5200万円だまし取る…「ホストクラブの金ほしくて」 : 読売新聞

 

何百万の価値がさ、「あなたしかないない」「他に頼れないの」と言われることに、存在してたなら、もちろん嘘や詐欺はいけないが、商売じゃないか、とおもう。どうしたって、人はそれがほしい時がある。どうしてくれよう。唯一無二の存在として誰かに必要とされることがこれくらいの値段で売れるのだ。どうしてくれようか、と思う。

 

一流の芸術家になれば、あなたしかいないと言われることもあるだろう。一流のビジネスマンになれば、君はこの会社に必要だとか、我が社に来てほしいと言われるかもしれない。あなたの小説に救われたとか、あなたの映画で人生が変わったとか。別に業績じゃなくたっていい。子どもから「おとうさんだいすき」って手紙をもらうこととか、親しい恋人に「あなたと会えてよかった」と言ってもらうこととか、元を辿れば親から、「あなたは我が家の唯一無二の宝物」と言われること。「お前と飲むとやっぱり楽しいわ!」と言ってくれる友達がいること。近くの老人に、「あんたがいないと電気変えられないからほんと助かるわ、ご飯食べてく?」と言われることかもしれない。

 

そんな何かが満たされず積み重なって、人は頂き女子りりちゃんにお金を払うんじゃないだろうか。私も人からものをもらうから、嘘をつかずに誠実にしているだけで、境界線なんて曖昧だと思う。りりちゃんは嘘ついてるから明確に犯罪だけどね。でも、りりちゃんはホストに貢いでいた。みんな愛が欲しい。欲しくて欲しくてたまらないじゃないか。誰でも代わりがいそうな世の中で、お金を出してでも誰かの特別になりたいと思っている。苦しいほどに切実でいじらしいと思う。

 

不安の総量はお金になる。私だってそう。水商売をしている。元から人の思い出を覚えるのが得意で、その人にとって唯一のものに愛しさを感じやすい。どんな人の人生にも物語があり、それらは唯一無二だと思う。恋愛がうまくいった人も上手くいかなかった人もいて、友達が多い人もいれば多くない人もいて、仕事がうまくいった人もいれば、いってない人もいて、でもそれぞれ一生分。その人の思い出の曲や好きな食べ物、好きだったアイドルを覚えること、私はそれを、切り売りしている。

 

私はオートクチュールや占いやスナックに興味がある。それは全て、極めてただ1人の個人に宛てられた支配と裏返しの愛情である。文化祭やハロウィンで人に服をつくって泣かせたり、会えなくなった友達に宛ててブログを書いてキャンパスのなかでちょっと話題になってはいけないし、ちょっと背中を押されたからってオーディションでファイナリストまで残って約束を果たそうとしたりしてはいけない。いけないけどやってしまうのが私なのだからそういう暴力性を引き受けようと思う。極めて特別と特別でないものの差がめっちゃあるのに自覚的だから私は誰かを溺れ死なせることが怖いのだ。本当は強烈な愛の選別、それらは往々にして私からの愛情というよりもむしろ彼ら自身がもっている崇高さによるものな気がしている。

 

どうしようもなく、崇高な魂と美と知性の前に私は平伏してしまう。生きることを煌めかせるから。ただ1人の誰か、ただ1人の、ただ1人の繰り返しで生きている。唯一性と唯一性が呼び合う時に私は満足をする。この前遊んだ年下の女の子が、ちょっと珍しいカメラで私を映してくれた時とか、四連で撮れるフィルムカメラをくれた時に、あーあ、圧巻と思う。個人的で特別で揺るぎない関係に夢中になっている間に、周りはどんどん溺れてるかもしれない。でもいいじゃないかと思う。光しか見たくない、光を見て、私が光になって、誰かも光になるしかない。何があっても光ってるもの以外、勝たないじゃんか。美しさに酔いしれて、残酷さなんて忘れてしまおう。今日を限りに、光だけ見ることに決めるから、光らなかったものを見た話をここに記しておく。

 

 

私がどんな人も光として扱えるのは、カウンターに立っている時だけできることだ。カウンターを一度離れると、事故が起きる。

 

例えば、その人の縁で見たい劇のチケットを取ってもらって私はある地域まで行ったことがあるが、1日中その人の予定に付き合った上、別にチケット代出してもらえるわけでもなければクソほど歩かされるとか。本当はそこでやってる見たい展示があったんだけど、私の要望はそんなに尊重されないとか。自分が接してきた人たちとは全然違うことが起きる。悪気がないけど私が不愉快なのは、その人が自分の欲望の満たし方を知らないくらい、愛の閾値が少ないからだ。その人にとっての満足は、私を満たさない。

 

私は色んな人に愛されてきたから、そんな扱いをされると、特に意図的に失礼なことをされたわけではなくても、シンプルにつらいとなってしまう。同伴代をもらわないと割に合わない。そこに性愛のニュアンスがあろうがなかろうが、愛の差違はお金か贈与で埋められて然るべきなのだ。多分、私のギャラに対して、その人が自分に対してかけているギャラが釣り合わないから私がキレてしまうのだ。今度からはもっとちゃんと自分の主張をするし、本当に無自覚に搾取する人が存在する、弱いのに有害ということが存在すると初めて知った。

 

 

結局自分の欲望を自分で満たせる具合が同じもの同士じゃないと、同じ時間を過ごしても差異が出る。それって学歴や見た目や稼ぎとは本当は関係ないんだけど、まあ、結局そういうものがある人間は満たされ度合いも強いのでそういう人といると損をすることがなくなるよね、とは思ったりはする。

 

友達とか恋人とかって結局、自分の価値同士が噛み合う同士しか成立しないんじゃないのか。私が自傷行為を繰り返したり変な男と寝てばっかいる人と友達になれないのは、一緒に過ごしているだけで、何かずっと、自分のギャラ、みたいなものが、不当に時間と共に搾取されている感じがするからだろう。この前友達とディズニーランドに行った時に、私はパレードを待つ間「ずっと座ろ」と言った。彼女と過ごすだけで私はすごく楽しいという究極のLOVEである。

 

例えば、それを腕切り尻(軽)ガールとかに言えるかと言えば、「愚かすぎる!助けてくれ!明日は明るいのに自ら不幸に飛び込むな!改善するかさもなくば私の前から消え去れ!!」と罵倒をして、たぶんパレードも一緒に見ずに走り去り、ディズニーランドの白雪姫の泉で虚空を見つめて、「ちょっと悪いことをしちゃったかな」と思って、ターキーレッグとかを買っていってあげるだろう。うん、ずっと座ってても楽しい人とディズニーランドに行こう。やっぱり、ナチュラルに自分の価値が低い人といるとこちらが傷つくんだよな。

 

別に本人がいいなら性に奔放でもいいんだけど、男の人と2人で飲んだら、必ず帰り際に手を握って、寝るとこまで持ち込まないと帰って来れない人ってやっぱり、何か自分の価値がすごく低くて、友達としても一緒にいるだけで疲れる。崇高さのレートが釣り合わない。彼女の世界での彼女と過ごす時間の方が鬼低いと、こちらのレートが強制的に下げられて、おかしなことになる。奪われてる感じがする。だから、逃げなきゃダメなのだ。

 

だって私の好きな友達みんな、「自称かわいいアメショー」「自称お金持ちのペルシャ猫」「自称大きいプードル」「自称王」とか名乗るんだよ。耐えられないよ。私は私の魂の値段は自分で決めるんだ、大好きな人たちと、プリンセス同士で、キング同士で過ごさなきゃいけないんだ。

 

めっちゃ疲れるんだよな。奪われてるんだよ。自分の崇高さを保つって戦いだから、引きずり下ろそうとする人から逃げなきゃいけない。追っかけてくるならもう、逃げ続けるしかない。

 

話が逸れまくってるけど、本当に、カウンター越しの付き合いならうまく行ったのに一歩出ると失敗することがあって、それは色恋沙汰を吹っ掛けられたとかそういうのとも違う、根源的な自分を大事にする気持ちの差異によって事故が巻き起こっている。

 

同世代くらいのお兄さん(学歴鬼高・おしゃれ)と知人がやっているバーに行った時も急に「こんなゴールデンウィークの真ん中に時間とって来てくれるなんて、どうせ恋人とかもいてお忙しいんでしょうなぁ」みたいなイヤミから始まって、私は「私がどういう交際をしていようが今日!今!ここに!あなたと同じ時間を過ごしていることを大事にしましょう。」と言ったけど、なんかいじけてた。「自分はモテない、いいと思った人には恋人がいる。」とか話し始めたから、「西野カナみたいなことを言うのを今すぐにやめなさい!」と言ったけど無駄だった。堂々としてれば人から好かれることだってある。先方は

「いや、自分のことを好いてくれてる人もいたけど、そう言う人に一応…プレゼントとか、記念日とかもやったけど…なんか…結局全然好みじゃなくて…。」

 

と言っていた。私は胸が痛かった。私だって、私だって好きだった相手に「一応〇〇はしてあげたけど」とか言われたら苦しすぎる。この人はそういう人なのだ。自分の価値が低いから、自分に好きって言ってくれた人にもそういう扱いをする。

 

「あなたは私のことをちょっといいものだと思ってるかもしれないけど、私だって、誰かに一応って言われる立ち位置の時ももちろんあって、そういうことを言われると、自分が言われたみたいに悲しい。自分を好きって言ってくれた人にそんなこと言ってると一生変わらないよ。もちろん、いいものの時もあるし、そちらの立場に行く時もある。みんなそうやって両方の立場に行く時があるのに、なんでそんな言い方を…。」

 

と言ってしまった。向こうは「ごめんなさい、そんな…」みたいなことを言っていたけど、多分相手の謝罪の確信は、私がそんなにいいものでもないという立ち位置を自分から吐露させたことへの慰めにあったんだと思うから、そこはズレている。私は私を光だと思っている。結局私はその、他者との個別の関係性においてその人がいいものかいいものじゃないかが変化しうる話をしていて。私は全体の中でどういう立ち位置かを言ったわけではない。一つ一つの自分に向けられた感情に自分が誰かに向ける感情と同じくらいの誠意を持って対応できるかという話をしていて、そういう誰かの勇気に「一応」っていう人が私は許せないんだけどなあ。

 

悲しくなってきた。不服すぎる。愛に誠実じゃない人間話しかけてくんなカス。まあ、彼は、頭がいいから、「お金を払っている以上関係性がフェアなわけがない」と言ってきたことがあり、無邪気な私は、気がつかないふりをしていたけど、それはやっぱり真実だ、と思う。

 

自分が卑屈なことで誰かに迷惑かけたくないんだよね。なんでそんなことがわからないんだろう。

 

 卑屈にならずに「今日は来てくれてありがとう!一緒の時間を過ごせて、とっても嬉しい!」って言っておけば男女問わず嫌な思いする人いなくないか?別に結果がどうこうとかじゃなくて、老若男女に愛されると思う。そう思うから私はそうする。本当に繰り返しになるけど、もう自分の卑屈さで他人に迷惑をかけたくないんだよ。それは覚悟なんだよ。愛だし。全部まとめてまっすぐ行くしかないでしょう。誰かが埋めてくれると、思わないでくれ。

 

自分で自分を一級品にするしかないんだよ。自分を満足させるものを見つけるしかないのだ。なんでそんなこともわからないのだ。私より何年もいきて、私より今のところ稼いでて、私より自立してるのに。悲しくて悔しくて心だけが救ってほしいとみんな思ってる。私だってそう。みんなそう。だからそんな中で、口を結んで胸を張って、ほんの少し、触れ合っただけでそれが満ちるような光になりたい。そういう光を少しずつ、ほんの一瞬接した誰かに分けられるようになりたい。暖かく、眩くなりたい。

 

感熱紙に焼きついた写真の私は唯一で、私はその瞬間無二で特別になる。

 

私を撮ってくれた彼女も彼女で戦っている。

今日はこれから、最近ラジオを聴きまくっている詩人がイベントで話をするというので、お出かけしてきて、レモネードを飲みながら、待っている。著作のあとがきでそれぞれの個人に向けて誠意を尽くした言葉を書いてて、本当によかったんだよな。

 

勝負をしている人と一緒にいよう。私の心がとられてしまう前に。

 

なんの淀みもなくだいすきといってみたい。だいすきといえないもののことを考えずにだいすきといってみたい。だいすきなものでいっぱいになって、気がつけばだいすきじゃなかったはずのひとやものも、だんだん楽しくなってくればいいな。

 

愛しか見ないことにしよう、後ろ姿しか見せないでいる。さようなら。

 

すぎたあと のこるひかりを  つかまえて わたしとおくに いかなくちゃだ

 

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