美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

言葉によって生まれる世界とか、官能性とか スプートニク2号

 

最近、言葉をどのように扱うかで、同じ場に存在していても同じ世界を共有しているわけではないということを改めて実感している。もちろん、それぞれが1つの個として、1人の主体として存在しているのだから、別の世界の見方をしているのはそりゃ当たり前なのだけど、そうはいっても、その世界の見え方を多少は重ねることができ、近づけることができる。その近さこそが人と会話をしたり、こうして文章を通じて言葉を交わすことの醍醐味なのではないかと思う。

 

会話の間に共通の世界が広がり、その中に互いの存在が、場が、輪が、存在していると、うれしい気持ちがする。共通認識によって世界が造られていくのが好きだ。

 

冒険よりも箱庭をつくることばかりに興味がある子供だった。巣作りがすきで、6歳下の弟が生まれた時は、2人でベビーベッドに立てこもっていた。ベビーベッドを居住地にし、屋根を作り、つかまり立ちをし始めたくらいの弟と柵の間からテレビを見ながら籠城していた。弟がひきこもりになった一端は私にあるかもしれない。

 

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話をしている時、抽象度とか使っている言葉によって世界が噛み合う時と噛み合わない時の違いは明確にある。私にとっての同じ世界に登場しない人というのは、同じ言葉を使わない人だ。その人がどんなに外見的に美しかったとしても、噛み合わないならば、それは、私にとっては等身大パネルと同様の存在であり、人生の物語に登場することはない。友達がよく、同じ世界にいる人と違う世界にいる人の例として、『あたしンち』のオープニングを挙げてるけど、これは本当にそうで、自分の世界における登場人物と、他者の世界における登場人物は違って、誰かにとっては群衆の1人でも、誰かにとっては色を帯びている個人だったりする、ということをよく表している。

 

 

これは、すべての人生はすばらしい、という前提のもと私が様々な世界の人たちを同じだけ自分の人生に登場させようとした結果、私の情緒がバグり始めたのを見かねた友人が送ってくれた動画である。どこまでが自分が関われる他者なのかを考えて、頭がはちきれそうになるたびに、「さらば、さらば、『あたしンち』のさらば」(『あたしンち』のOP曲はキンモクセイの『さらば』である)と繰り返し唱えては心を落ち着かせている。

 

登場人物のトリアージである。例えば、想像を絶するほどしんどい男と付き合ってる女とか、抱えてる問題がデカすぎる人間とか、驚くべきバカな年長者、とかをこの紫の人影に変えていく。目を閉じて祈って、少しずつ少しずつ自分が大切にできる人だけに光を戻していく。

 

この曲を送ってくれた友達が

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と言ってくれたことを思い出す。私だって神じゃない。誰かにとってはあの紫の人影の一人で、私だって私の見たいものを見る自由がある。心惹かれる人を、モブにしておかない自由がある。でもそれって、広義の恋愛至上主義みたいなものじゃないか、と思ったりする。劇的なまでに興味を惹かれる他者だけを紫の人影から切り出し、紫の人影になる人には少しも興味がない。みんなそんなふうに生きてる、気にしすぎなくていい。自分の言葉が噛み合う、紫の人影の中で浮かび上がる人たちだけを大事にすればいい。

 

場合によっては、私には色がついているけど、私からは紫の人影の人もいる。逆もある。なんか本当に広義の恋愛みたいなものでこの世は回っているよな、と思う。誰にも気に掛けられなかった人はどこにいくんだろう、と思ったりする。少なくとも、その対応策として私はスナックをやっているわけだけど。

 

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昔エッセイを寄稿していた編集部のネタ出しで、過集中になって、つんのめってぐりぐりと文字を書いていたら、「筆圧の強いメンヘラ」と言われた。そう、私は筆圧の強いメンヘラである。強烈に、他者と同じ言葉を共有して同じ世界にを共有することへの執着がある。だから、旅立たずに、同じ場所にいても支障がないのだと思う。私は外国や、外国人が苦手で、海外旅行もなるべくしたくない。ただ、最近同じ言葉を共有できる友人と行く海外旅行は楽しいかも、とは、思い始めた。たぶん、自分の物語を携帯したいのだと思う。慣れ親しんだぬいぐるみなどを旅に同行させる人はその私的な関係性とか小さな箱庭とか小さな自分の物語性を持ち運びたいということなのではないだろうか。

 

言葉によって同じ世界を認識し合えないなら、家でゴニョゴニョ寝っ転がってる時間も、アウェーの海外に放り出されても、寂しさは同じ気がする。私は慣れたところを出るのがあまり嬉しくない。

 

たぶん、それは私が言語によって世界を見ている度合いが身体感覚より優位にある、もしくは身体感覚が過剰に劣位にあるから、そうなのであって、私がナオト・インティライミとかだったら、世界中の子供達と音楽とサッカーで仲良くなれるのかもしれない。しかし、私とナオト・インティライミの間にはとても距離がある気がする。多分、動物とか子供が得意ではないのも、言葉が通じないからで、言葉の通じない場所でどうしたらいいかわからない。

 

相手の世界と、自分の世界が、会話の中でたまにふわっと重なって、あ、昨日いい日だったな、ってなる瞬間をずっと探してる、と言ったら、一緒にスナック立ってた人に「ちょっとエロいやつね」と言われたけど、そうである。他者と自分の境目が一瞬溶け合うみたいな、「今日は通じたな!」という瞬間をずっと探し求めて生きていて、正直それ以外のことはどうでもいい。性別も、既婚も未婚も、年齢も、背景も、関係性も、超えて、他者とそうなる時の気持ちよさ、心地よさ、みたいなものをずっと求めている。

 

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最近、私がこうして文章を書くきっかけになった友人と話してた時、その友達が「美人ちゃんと地元の友達と、最近出会った共通の趣味の友達くらいなのよ、これくらいの深さの話ができるのって。」と言われて驚いた。

 

寝耳に水である。

 

「だって、そっちが私の心に踏み入ってくるから!あなたはそんな関係性を、誰とでもできるんだって思って!あなたに心に深入りされてから、あなたと会えないあいだも、どれだけ人の心に踏み込めるか、いろんな人とためしてみたり、同じくらいの深さで誰かに伝わるかもって文章書いたりし始めちゃったじゃん!こんなの私が露出狂じゃない!3人だけなの?!」

 

と言ってしまった。飛んだハレンチ勘違いである。

 

私はよく彼女と会う時に「ごめんね…初めて抱かれた人のことが忘れられずテクを覚えて、他のいろんな人に試すような感じになって…。」と言ってたことがあるんだけど、この関係性にはそういうところがある。

 

この前、彼女が「美人ちゃんとは、やっぱ既セクなんだよな…」と言ってて、爆笑した。たしかに、ある。心の既セク感がある。私たちはよく自分たちのことを「我々ココロビッチとしては〜」という語り出しで、話すことがある。いつも、どれだけ他人の心を抱き抱かれることができるのが、という話に興味津々だ。

 

🤔

 

「普段何考えて生きてるの?」と、彼女は大学の頃からラフによく人に聞く。そんなのドキドキしちゃうよ。その人の奥にある自我に呼びかけたい、その人の奥にある自我とちゃんと話してみたい。それだけが私の願いで、そういう時間を積み重ねることが生きることだと思っている。だってそうでしょう。他者との深い出会いこそ人を豊かにするものはないんじゃないかと本気で思っているのだ。だから、なるべく人の心の奥に集中して話す。サシだと尚更よい。グーっと集中して見えてくるその人の輪郭が好きだ。ものすごく大きい、人間としての愛みたいなものがそういう交わりの中には見える時があるから。支配的な部分もあるから気をつけなきゃなんだけどね。唯一無二のあなたと話してみたいといつも思っている。

 

例えば、その友人を交えて何人か出会っている時、私が他の人に対して、ちょっと思い切って踏み込もうとした時とか、「あ、美人ちゃん、心抱きにいってるなと思ったわ」とあとで言われたりする。ハイライトである。これもひとえに他者と言葉を交わすよろこびを最も深く官能的なところで味わえる感性と、それをメタ的に言い表せる言語能力と比喩の力によるものである。

 

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書いているうちに見えてきたことがあるのだけど、たとえ普段使う言語が違っても、拙くても、見てる世界が違っても、人生のほんの一瞬だけ重なる瞬間というのはいろんな人に訪れると思う。心のワンナイト、みたいなものがあっても全然良くて、別にそれが他人にとって、継続的に他者として輝く人でなくても、明日からは互いに紫の人影の1人で、同じ人生を歩むことはなくても、ふわっと他者と自分が溶け合う瞬間というのを大事にするのはそんなに難しくないかもしれない。

 

海外の子供達と音楽とサッカーで繋がることはできないけど、同じ場所にいる今まで全く違う人生を歩んできた他者と、ものすごく深いところでとか個人的なところでわふわっと混ざり合うことはできるかもしれない。土着エロ・ティライミとしてのやりようがいくらでもある。

 

私もバックパックひとつで様々な土地のさまざまな人たちと、ほんの一瞬の浅い交わりを楽しむ日も来るかもしれない。だけど、今は世界のよっ友より、心のセフレである。あたしンちのOPが世界バージョンになって7番くらいまでの長さになって1人あたりの描写があっさり終わるより、テレビバージョンの長さでいいから、今光ってる人の作画をどんどん良くしたい。輝いている人に集中していた、といえば、紫の群衆になってこぼれてしまう人にも言い訳ができる。美しい人たちがいる。それは今まであってきた人もだし、まだこちら側から見るだけの人もいる。それまで自分にとって色づいてた他者が、一瞬で紫の群衆に変わってしまうくらい輝く他者もいたりする。

 

そうやって、前の友達との別れが来ると私は悲しくなる。大学に行って、高校より話の合う好きな友達ができた時ってそうだったな。あと何度そうやって、色を失う瞬間を続けるんだろう、別れがやってくるのが怖い。でも、私は、いつも、その輝きに逆らえないほど色がついた人を追いかけていたいのだ。同じくらい色がついてる人とは話が噛み合うから。

 

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孤独になりたくない。人は結局孤独だというのは物分かりがいい感じがして、腹が立つ。だからといってみんなつながろう、みたいなのはチープだ。

 

私が前に書いたブログ(内面世界を、生きる - 美人ブログ)で、内面世界における崇高な美しさを都市の明かりが消えた場所でしか見えない星空に例えたように、すごく集中しなきゃ見えないところ、極限の自己への集中力を出力した先で、光が見えるような、出会いは大事にしたいと思う。

 

他者と心と心を近づけることをあきらめたくないと思う。だけど、それは、なるべく孤高で遠くにある自分が奥の方から呼び出されるものでなくてはいけない。それは、官能的だから。

 

知的になると孤独になると思ってた。だって、前いた友達と、話が噛み合わなくなっていくもん。別にお互い何もしてないのに、私は新しい人が好きになって同じ場所にいられなくなる。そんなことを繰り返したらどうなっちゃうんだと思う。遠くに行くのが怖くて、自分の内面性を掘り下げるのが怖かった。心の中の旅行だって帰って来れなくなりそうで旅立ちが怖い。どんどん光ってた他者が遠くになって、ひとりぼっちになっちゃったらどうしよう。スプートニク2号に乗せられたライカ犬のように、もう地球に戻れなくなったらどうしようって思う。

 

あたしンちのOPで誰も光らなくなったらどうしよう。紫の群衆の中で、他者の存在を感じないくらい闇に分け入ってしまったらどうしようと思う。でもそれくらい、光を、絞った、絞った、絞った先で、もうその局地みたいなところで、オーロラみたいな輝きが初めて見えるみたいな、場面とか必然とか出会いとかがあって、そこにはきっと、極上があると思う。極上が見たいから、怖いけど、少しずつ、少しずつ、今光っている他者より深い世界に行ってみようかと思う。鍾乳洞の中で恐る恐る光を当ててみると鍾乳石とかもあるといいな。陰気な旅立ちだ…内向スプートニク2号である。

 

どんどん自分を知っていく、自分が深くなっていく。その先で、それでも、心が混じり合った時の官能を楽しみにしたいと思う。自分が自分になっていくことへの憧れと恐れ、ものすごく極限に孤独になって、その先で同じくらい孤独を覚悟した人との出会いみたいなのをしてみたい。よく削られた宝石が輝くように、私は極上の官能を探している。

 

ナオトインティライミにはできないことが私にはできる。動物とにこやかに触れ合えなくても、子供と遊ぶのが苦手でも、内向スプートニク2号なので仕方がない。ライカ犬は、打ち上げ4日後に死んでしまったというけれど、宇宙の果てで一人ぼっちで何年も漂う方が寂しいかもしれない。途中他の星のロケットに乗せられた、似た境遇の犬とかとあって、どっか適当な星で暮らせたりしないだろうか。それは地球よりも結構住みよかったりして、地球を眺めたり、先方の犬も故郷の星を眺めたりしながら割と楽しいのではないかと思う。紫の群衆が離れて離れて離れて地球くらい遠くなっちゃったら、どうなるのだろう。

 

誰も迎えに来ないかもしない宇宙船に乗ってみるか。帰り道がないって怖いな。孤独と融合、官能、個になって液になって、濡れて乾いて、くっついて離れて、その時々のほわっとしたふれあいを愛したい。生まれてからみんな宇宙犬。

 

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