美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

だいじにされたい

 

あわてずにあせらずに自分が思ったことを書くと、本当にほしいものが手に入るのかもしれない。不思議なことに前回のブログは、自分が伝えたいと思った人にちゃんと伝わったし、連絡してもらえたりした。

 

大丈夫、これでいいのかもしれないと思う。自分から追いかけたいと思うものを全て追おうとすると身体はひとつでは足りないし。掘削していって、自分の言葉を抽出した時に、本当に会いたい人たちに会えるのかもしれないと思う。

 

「美人ちゃんはね、人に期待しすぎなのよ!」

「美人さんはね、人に期待しすぎなんです!」

と、年上の女性と年下の女の子に言われた。でも、「期待して、何が悪いの?」と思う。

 

期待して期待して生きてきた。いつか自分の思ったことを話せる日が来るのを信じていた。

本当の言葉が、心に刺さるときが生じることを知っている。だから、そんな他人に出会えることを私は生きる糧にしている。表面的な会話のもっと奥のところで届いてほしいと願ったりするの。そういう聞き手の、語り手の出現こそ、私が欲しているものだ。

 

それがなぜいけないのかよくわからない。現にその方々も勝手に私に期待されてたから、これだけねちっこくブログに書かれている。そういう目にあうから、人が人に期待したりするのはやめた方がいいかもしれない。

 

私が叶えたいことは、どうなりたいとか、どんな所でどう生きたいかとか、どう暮らしたいかとか、そんな話ではなくて──もちろんそういう欲もあるけれど、もしひとつだけ選べるとしたら、──自分が本当に思っていることで誰かと話してみたい、ということだった。

 

私はずっと欲しかったものを探してきたのに、なんでそんなこと言うの?、と思う。私が探しているのは、自分が本当に思ってるものの話をして、自分以外の人からきちんと尊重されてみたかった。大事にされてみたかった。他者が思うこと考えることを聞いて、私が言葉を紡ぐのを待ってほしかった。

 

大学の頃、友達がうちに来て、私の話を聞いてくれたことがあった。自分が本当に好きなものの話をするのが恥ずかしくて怖い、と言っていたら、彼女は私がしどろもどろ口を開いて、話し始めた言葉を、待ってくれた。本当に思っていることを言おうとすると時間がかかる。私はそのとき、「縫い物をしようとしているときに、いきなり、すごく楽な作り方をするよりも基本に忠実に丁寧にやって、焦らずに作った方が形が綺麗でいいものができる」と言いたかった。

 

彼女は、しっかり聞いてくれて、出版サークルで料理家の栗原はるみにインタビューをした際に、栗原はるみもそのようなことを言っていた、と述べた。

「はるみもそういうことをさ、言っていたんだよ」と。文字にするとこれだけのことなんだけれど、私は本当に思っていることを人と話したのが初めてだったから、通じた!と思って嬉しかった。ちゃんと、バカにせず聞いてもらった。

 

聡明で、思慮深い聞き手の出現は私の心を豊かにした。それまでの生き方を変えてくれる。他者と話すのは楽しい。こんな風に人と関われるなら他人が自我を持っていて、本当に良かった、と思うのだった。だから、こんな自分でいたくて、こんな風に人と話したいのに、思いの外、世界はそういう言葉で出来ていないから、私の言葉を待ってもらえない。そのことが、たまらなく苦しくて、自分にとっては切実であることに気が付いたりとかする。