他人に期待しすぎだ、と言われる私が他人にずっと期待してきたことなんてほんのささやかなこと。
下品な人たちから逃げて、私を大事にしてくれる人たちと暮らすことだった。そりゃ、俗っぽいから、すごいね、えらいね、とは言われたいけど、もっともっとささやかな期待である。
小学生の頃、「荷物持ち」というカルチャーがあった。荷物が多い時に、複数人で集待ってそれらの荷物をひとまとめにして、じゃんけんをしてまけたひとりが持つというものだ。あそこの電柱まで、と決めて交代するんだけど、たまに走って残りの人たちが逃げることがある。そういうことをしているひとたちを、下校中に見ることが苦手だった。
もちろん私も参加したことがあるし、持ってもらったことも持ったこともある。私が持つと、あー、やられるだろうなあと思ったけど、もちろん約束と違って走って逃げられたこともある。別にそういう時は自分の荷物だけ持って、置いて帰ればいいんだけど、なんかそういうことはしたくない。でも、「置いてっちゃうよー」と言って、なんというか迷って、置いて帰った気がする。
ランドセルを置いてしまう人にもなりたくなかった。だって大事だからね。でも走って追いかけたくもない。エラーは、「約束を守らないで走る」みたいなのが面白いと思っている人たちなのに、そういう人たちと一緒にいない方法がわからない。
勉強したら、離れられるだろうか。どれくらい勉強したら、どれくらい真面目に生きたら、そういう感じじゃない友達が増えるだろうか。
「いつもムキになるから悪いんだよ。」とか「美人ちゃんはそうやって相手にするからだよ」とか子どもの時からずっと言われてきた。親に、友達に、何度も言われてきたのだけど、意地悪な人がいるというのに全然慣れない。梨木香歩『西の魔女が死んだ』の有名な言葉に、「シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」
とあるが、北極にいけばそういう悪意はないだろうか。そんな土地は、私が住みよく暮らせるくらいはあるだろうか。あってほしいと、思う。
低俗な悪意を、デフォルトに存在するものとして認識できない。エラーになってしまう。ずっと、自分探しをしているように見えてるかもしれないが、もしかしたら、自分が自分でいられる場所は、本当はどこにもなくて、文章を書くこと、ものをつくること、外界を締め出してカウンターに立つことくらいしかない、それと他者を信頼すること、しかないのだと腹を括ることにした。
ずっと人に期待する。優しくて頭が良くて、ゆとりがある人がいいな、と、ささやかに期待をしている。それを期待のしすぎと言われてしまうなら、何を期待して生きていけばいいのだろうか。