美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

愛してるから食べるのか、食べるから愛してるのか

人の手料理が好きなはずなのに、食べられない時がある、信頼してるから食べるのか、食べるから信頼してるのか、どっちなんだろうなー。他者に対する警戒心が強すぎる。

 

料理、上手下手じゃないんだよな。以前、めちゃくちゃ不器用な人が1時間近く台所に篭りきりで桃クリームチーズを作っていた時があり、私とその人の共通の知人に教えてもらったという一旦お湯につけて桃を剥く、という工程を挟むことによって、さらに遅れていた。

 

 

でも、ちゃんと待ってたら出来上がった。なんだかな、楽しかったんだよな。これだけ時間かけて一生懸命作ってくれたものを一緒に食べられてうれしい。上手い下手ではない。誠実だからだ。

 

でも本当にそれって「頑張った」かどうかなんだろうか。誠実かどうかだろうか。もしかしたら、すでに決まっているのでは?食べる前から多分その桃クリームチーズが美味しいこと決まってたんだと思う。その人が好きだから。

 

他者の受けいれの話をしている時に、よく思い出すのが以下のインタビューだ。

 

 

孫正義育英財団の1期生で、アーティスト兼キュレーターとして活動する丹原健翔の記事だ。

 

最初は人が入ったお風呂のお湯を茶室のような空間にもってきてお互いに飲みあうようなパフォーマンスを行いました。信用していない人のお湯って、飲めない人が多いんですよ。口に含んでも飲み込めなかったり、あるいは初対面なのに飲めると受け入れてもらえた感覚が生まれて泣き出したりする。

 

──『BE AMATEUR FOR THE FUTURE OF ART異色のキュレーター・丹原健翔は多彩な「アマチュア」として美術史を更新する』2022.01.25 (2024.03.21閲覧)

 

それな。難しいよなー。これ読んだ当時、私は結構他者の浸かったお湯くらいなら飲めると思っていたんだけど、これは「受け入れられないことが原因で事件が起きるくらいなら、無敵の人になられると困るので、まあ私がお湯飲むくらいなら…私も死なないし…」という気持ちだったな。やっぱり、「お鎮まりください」って愛じゃないんだよ。辛いことはできないな。ちょっと自分が持ってる側であることをわかってて「パンとサーカス」みたいな気持ちはあったな。大衆がちょっと怖くて、大衆をちょっと信頼している。

 

丹原は、血液飲むイベントとかやってるけど、血液は病気とかもらって取り返しがつかなくなるから私の全倫理がびっくりしてるけど、とんでもないことになっている。

 

もっと純度の高い儀式をつくりたくて、いろいろやりましたね。他人の血液をグラスで飲むパフォーマンスを行ったときは大変でした。人間は鉄分をうまく消化できないので血を飲むとお腹を壊しやすいし、ぼくのときは熱も出てしまって。でも他人を受け入れる覚悟ってそれくらい重たいものだよな、と。

──同記事

 

やっぱ宗教と壮大なおためごかしの中にある、倫理か?最後ってやっぱ言葉なんだよな。言葉って便利。竹内涼真が、配信で無数の「抱いてー!」ってコメントに、「抱く、抱く、全員抱く!」って言ってる動画を見たとき、宗教のはじまりを感じたけど、個人ができる限界って、あれだな。(あれか?) その後、竹内涼真が写真集でタオル巻かれてそれなりの受け身セクシーショットを撮られてる時に「いや、全員抱く気概はどこに行ったよ」と、思ったりした。難しい。

 

人を受け入れるって重いことなんだよな。中学の頃入学してすぐ行かされた合宿で、近くの人と2人1組になって、相手が力を抜いて倒れるのを受け止めなければいけないというワークショップがあり本当に嫌だった。先日そのことをふと思い出し友達と喋った。自分の身体をまだよく知らない同級生に投げ出して「はい!信頼できる相手ですね!」って学校の合宿でやるの、宗教儀式っぽくて怖くない?、とおもっている。相手が支えてくれなかったり、失敗して、怪我や障害を負ったら誰が責任取ってくれるの?と思うし、最悪支えられなくて、自分が何かしらの痛手を負ったとしても後悔がない、というくらいじゃないと、私は嫌なのだ。

 

「なんかさ、エロ漫画の広告にある、これからクラスの男女をペアにしてこれから保健の実習でセックスしてもらいます。みたいな、狂気がある。」と言ったところ、

友達が爆笑しており、「ハレンチすぎる気がしてきた」と言っていて、ウケた。

 

そうだよ、倒れ込むのですら、私は私の意思で決めたいから、全体で命じられたくない。もちろん倒れてきたものは、私は支えるけど。

 

でも、怖かった。多分12歳くらいの手の感覚がまだあって、相手は思いの外重くて。手にずっしりと他人の身体の重みが乗っかって、少し滑る。不器用だし、正直失敗したら、落としたかもしれない。全然やりたくない。

 

多分、信頼性の核心って、この数日言ってる「思いがけず」なんだと思う。目の前の人が倒れてきたら咄嗟に手が出る。でも、それを試すためにお互い倒れ合うというのはなんか逆に変だ。

 

あれだな、互いに向き合って「私はあなたを大切な人として扱います。」と言い合って対話するとかがいいな。

 

なんか、倒れて支えて、はい信頼ハッピー!って野蛮な気がするんだよな。ムカつく。そんなことで信頼が手に入ったと思うなよクソが。統制しやすいようにしただけじゃねーか。という気持ちがある。信頼ってそんな安いものじゃないんだよなー。「愛は行動」という言葉があるけど、行動するから愛なの?愛するから行動できるんだろうか。どちらにせよ、そこに意志が介在する余地ってあるのだろうか。

自然とそうなってしまう、ということはあるから。

 

ほかにはたくさんの人の尿を集めてバーという形で販売したこともありました。牛乳と一緒で尿も煮沸消毒すれば飲めるし、尿って人それぞれ味も舌触りも違うんですよ。農家の人の顔写真が添えられた野菜のように“生産者”がわかるようにして売っていたら、結局かわいい子やイケメンの尿ばかり売れていって、それも信用を考えるうえでは面白かったですね。乳牛が牛乳を生産し存在意義があるように、我々も一人ひとり生きているだけで存在意義がある世界があればいいようにって思って。

──同記事

 

個人の存在に意義があることを証明しようとしたら、かわいい子とイケメンの尿が売れるらしい。元も子もない。どうなんだろう、尿に創意工夫の余地が出たら変わるかな。顔は良くないけど、「いつもローズウォーターばっか飲んでます!」みたいな人が爆売れとかするのかな。逆に年齢を重ねた人の方がコク深いとか尿で勝負していく人もいるかもしれない。

 

でもそもそも、受け容れようと思って受容れるのって違うんだよな。

 

 

 

 

 

多分、受け入れよう、と思って飲む風呂の残り湯も、尿も違うんだろうな。人に対して分け隔てなく接することができる時って往々にして自分の調子が良い時なんだよな。シャンパンタワーみたいに。傲慢さだな。

 

クリームチーズが美しかったのは、その人が好きだったからかなあ。つくってくれたものが、誠実でやさしかったからかなぁ。鶏が先か卵が先かなんだよな。

 

とりあえず自分の心が豊かで、他者に感謝が湧く状態じゃないと、自然な形で受け容れられるものが減るんだよな。別に、究極尿は飲めないんですが、そこにはいてくだい、という状況くらいならなんとかなるからな。ライブのペンライトとかって、そういうものの反映でもあるからな。

 

なんとなく自分のスピリットが決めたことなので、それに従った方がいいなー。

 

耳にする言葉も食べるものも、触れ合いからも人は影響受けるから。

 

海外とか行って、ふれあいカルチャーだと、私困るかな。そういう場所に行ったら行ったで気にならなそうだけど。

 

好きな人の作った好きなもの以外たべないっぴ!そのことが相手を喜ばせる場合もあると思うし。素直に美味しい、食べたいと思う範囲で生きていくしかない。