美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

「邪の心ないと死んじゃう!」と、セイレーンが誘うから。

 

「邪の心ないと死んじゃう!」と彼女は言い放った。

f:id:toyopuri:20230324210938j:image

 

 彼女がかつて働いていたという喫茶店で私たちは数年ぶりに会った。セイレーンとこの記事では呼びたい。コロナ禍の間ご無沙汰だったのもあったが、私もセイレーンもお互い忙しくしていた。久々に会う彼女はまとう空気がぐーッと内向きになっていた。ムッと充満した緊張感を纏わせている。この1年は、彼女が長らく夢だった、受験に打ち込んでいたからだろうか。自分の人生で決めた勝負をやりきる姿は美しかった。最後の試験が終わった日に私は彼女に会いに行って、彼女が好きなピエールエルメのマカロンを渡した。「えー、美人ちゃんが私がピエールエルメ好きなの覚えててくれてうれしい〜♡」と言っていた。覚えている。昔エルメのマカロンをプレゼントしたら、そのパッケージの柄の服を纏った女の子のイラストを描いてくれた。それはすごく美しかった。

 

 「好きな食べ物は苺とマカロン♡」と言い放つ女と初めて出会ったのはもう7年くらい前だ。やり切ってる人にしかない美しさと愛しさは、そこに確かに存在する。演じるように、自分の理想をやりきるように生きる脆さと、ゆらぎと、かわいらしさ、そしてその内面にある極道感(道を極める、と言う意味の)が好き。私はガチモンのぶりっ子が好きだ。セイレーンのぶりっ子には美学を感じる。男の人に愛されたいという意識が根源から溢れ出てるとはいえ、つまらない合コンノリとか、そういうことはしない。男の人のに好かれる定型や理想に合わせたぶりっ子挙動ではない。ドラマチックムーブが勝利を収める。いつだって彼女の側にリードがある。ペアでダンスを踊っている時に、エスコートされている側がダンス全体を踊らせている場合がある。なんというか、そういうものが彼女にはある。突如始まる路上演劇なのだ。私は、加藤和彦の『女優志願』という曲を聞くたびによく彼女のことをよく思い出す。

 

女優、女優志願の君は

声をあげて笑う

それは淋しい時で

まばたきして いつか

ひとり芝居する あなたの癖

 

加藤和彦『女優志願』 作詞:安井かずみ

 

女優志願

女優志願

 

 

数年前に、セイレーンと渋谷で待ち合わせした時に、「靴擦れで痛い😢」と連絡してきたから思わず、薬局で絆創膏を買って行った。女の子のために動く悦びというのが存在するのだと身をもって実感した。真夏の渋谷のハチ公前、履き慣れないサンダル、華奢で、フェティッシュな動きをする謎の絵描きの女、どれもこれも最高だった。絆創膏一箱買っていったけど、結局1枚くらいしか使わなくて(それはそう)なんか「ありがとぅ〜♡」と言ってた。絆創膏を貼る姿はなんかエロかった。

 

 で、先日喫茶店で久々に会ったセイレーンにその話をしたら、「私、そんなの覚えてなぁい!変なのぉっ!」って言ってたけど別に良い、全然良い。この日は私がセイレーンを褒めるたびに、口元に手を当てて、「変なのぉっ!」って言ってたけど、私はセイレーンのそれが出るたびに赤ちゃんみたいにキャッキャ喜んでしまう。日常では見られない芝居じみたリアクションを返してくれる人、好きすぎる。ローラの「ウフフ、オッケー!」に近い何かを感じる。

 

 ちなみに、絆創膏を買っていった日は、渋谷マークシティで抹茶スイーツ食べた。食べ終わるとセイレーンはエスカレーター脇の鏡で身だしなみをチェックして「今日もかわいい♡」って言って小さくピョンッと跳ねていた。最高すぎる。

 

話があちらこちらにいってしまったが、セイレーンと数週間前に喫茶店で会ったときに、場面は戻る。

話の流れで、私が身長が低い人が好きという話題になったときに、

「身長低い男いいよなー!!!」

とセイレーンが共感した。

私は思わず、

「共感されること少ないから嬉しい!」と言った。

セイレーンは、

「身長低いのってさ…ハゲとかデブとかと違って、思春期の自己形成期に抱えるコンプレックスだからいいよね…」

と言っていた。私は、あまりに共鳴してしまい、「身長が低い人が好き」という想いを絶妙な機微で捉えた、かつ辛辣で毒気のあるフレーズに居ても立っても居られなくなった。

「身長が低い人が好きっていうのは、単に身長が低いこと自体を素敵だと思っているんじゃなくてそれをコンプレックスに感じていることが魅力的なの。だから、厳密にその人の身長の低さをを愛してるわけではないんだよね…。でも、それって失礼じゃないかって思うんだよ!」

と言った。セイレーンは、「そんなの、コンプレックスがいいんだよ。」とあっけらかんと言っていた。私は「そそそ、そんなこと言っちゃいけないと思った!言っていいの?」と言った。セイレーンは笑った。「いいんだよ!言って!」と言った。

 

セイレーンはどんどん攻めてくる。

「美人ちゃんは結局育ちが良くてグレた人が好きなんだよ」

とか言ってくるし。正しいよ。

 

私の元彼の名前を出して、

「〇〇さん、夢ないよ。」と短いフレーズでグサリと刺してくる。真実は痛くて、鋭利で、毒々しく、面白い。

私が、「そんな!言っちゃいけないよ!!」と言ったら、「〇〇さんに夢がないんじゃなくて、美人ちゃんにとって夢がないってことだよ〜♡」とフォローしてたけど、やっぱりフレーズが全てだ。「〇〇さん、夢ないよ」は真実だと思ったから、私だって咄嗟に言葉が出たのだ。

 

わたしはライターの雨宮まみが好きだった宇多田ヒカルの『俺の彼女』という曲を思い出した。

もしも彼女に寿命があるなら、わたしの命をいつでもあげる。残ってるだけ全部。それが正しいことだから。彼女が生きていることのほうが、わたしが生きていることよりもずっと正しいこと。卑屈さからじゃなく、わたしがそうしてほしい@mamiamamiya 2016年10月13日 9:50

と、まで雨宮まみ宇多田ヒカルへの愛を語らせたその曲を私は最近よく聞いていた。

俺には夢がない

望みは現状維持

宇多田ヒカル『俺の彼女』

俺の彼女

俺の彼女

雨宮まみが好きだったのは主にサビのところだと思うんだけど、この曲、歌詞が全般的に怖い。ものすごく怖い。真実に近いことはグロい。この曲、ものすごくドライでその分グロい。関係性の中であえて見ないふりをしているけど、見えてるものをはっきり言ってしまうのは、破壊的で鋭利だ。

 

「なんで言っちゃいけないと思うこと言うの!そんなこと言っていいの!」と言うと、「いいんだよ」と言うのだ。セイレーンは。見えてるものを見えないように、ぼんやりと誰も傷つけずに生きてたいのに、気づかなかったふりをしたいことを、ちゃんと気づくように生きている。だからさ、自分の中の見て見ぬ振りする感情とか、人が隠しているものとか、ちゃんと言ってしまうと、苦しくなることが多いんじゃないかと思う。

 

セイレーンは、この1年、ある男性にぞっこんになっていた。まあ、セイレーン既婚なんですけどね。恋多き女セイレーンが、恋を我慢することなんてできるのだろうか。

 

「あなた既婚者じゃないですか。これから先好きって気持ちはどうするつもりなの?」

「好きだなーって感情は持ってることにする」

「持っちゃいけないと思わないの?」

「それは思わない、具合悪くなるもん!結婚しているのがいい制御になってる。」

「正しくないけど持つことを認めていい感情があるの?」

「あるよ!」

「そのことがつらくならない?」

「ならない!」

 

セイレーンは正しくない感情を自分が持ちうることを普通だと思っている。ていうか、正しいか正しくないかの前に感情があるよね。私はこの世に正しくない感情とか持ってはいけない感情があることを上手に、認められない時がある。なんというか、行き場がない。

 

例えば、以前私はちょっとやましいことを実行した際、クロかシロか考えあぐねて、なるべく早くシロになる理由を探した。そもそも全くのシロなら気にも止めないわけで、クロかシロか考えている時点で、もうクロなのだ。罪に問えない範囲だからいいでしょうというのはありつつ、それを自覚している時点で、変に、あるものをないフリをしたりする方が姑息だと思ったりする。そう言う時は開き直ったほうがいいのかもしれない。この世に完全な潔白はないんですよね。みんなグレー。

 

そして、その感情を直視しないことにしているのはダサいし欺瞞なのではないかと思う。でも、直視したところで、いい側面がないし、ざっくり、愛、とかもっと大きな範囲でいいんじゃないかと思うんだけど、それって、欺瞞で、不健全なことだろうか。

 

心の自由を誇ることと、あえて感情を大きな枠組みでとらえることについて。正義とは感情に正直なことなのか、理性に正直なことなのか、わからなくなる。自分の感情に素直に動くのか、そんなことは思わない自分であると思うのかとか、思っているけど留めておくのが正しいのか、欲、嫉妬、恨み、焦り、恋愛、侮蔑、欺瞞、美意識、色んなことに思う。文学にはその感情をちゃんと言葉にして遺してもいい余地がある。でも、あって欲しくない感情がこの世に存在していることはなるべく隠して、徳を詰みたい。解脱して楽になりたい。

 

この世の煩悩苦悩自分の正しくなさ幼稚さ惨めさ器の小ささ欲深さを認めずに、自分はしくじらない善人のフリをする、罪に問われない領域でごまかす方がずるいんじゃ無いかと思うことがある、。まあそんなわけはなく、犯さない方がいいこともたくさんあるのだけど。

 

例えば、17歳のときに当時の"親友"が付き合ってた彼氏が、彼女の惚気話を私にしてくるので、私はそれを聞いていたことがあった。その恋人が彼女を大事にしてくれて、嬉しいつもりだった。よく聴いた。ただ聴いていた。笑顔で聴いた。それ以上のことはしていない。彼は嬉しそうに話した。それだけだった。

だけど、ある日彼女に、「私の彼、美人ちゃんのこと気に入っているみたいなの。」と言われた。彼女はいい子だから絶対に私を恨まない疑わない、責めない。ただ、その時の寂しそうで心配そうな顔を思い出すと、私は、私の中に、私だけが知っている感情があるな、と思う。「え、そうなんだ!よく〇〇の話してくれるよ!」と私はにっこり笑った。嘘ではない。

 

世の中にもっとエグいことや、エグい人がいることは、そりゃあ、あるでしょうね、という感じで、勝手にやっててくれ、という話なのだ。だけど、罪にならないくらい真っ白に近い犯行は、ものすごい黒さを秘めている時がある。何か明確に罪に問える行いがあれば、私を責める余地がある。だけど、まだなにも起こっていない。そこには、最も自覚的で最も無自覚を装った悪意があった。なんとなく彼女を傷つけてみたくなっただけだった。

 

時々邪な気持ちや、意地悪な気持ちが自分に渦巻く時がある。でも、その渦は、罪になるまで私の皮を突き破ることはない。彼女と私は友達だったのだろうか。言葉にしてしまうと怖いから言葉にする勇気がない。

 

彼の話をただ聞きながら帰った中目黒駅エスカレーターを使うたびに、私はそのことを思い出しては、バツの悪い気持ちになる。

 

 私には、自分の中にある毒々しさを引き受ける勇気と度量がない。だから、ないふりをする。でもそれは、毒や悪意やずるさが存在している世界に生きると耐えられないから。私はよく自己欺瞞のイノセントを演じきって得をしようとしている。でもそこには、イノセントな世界であってほしいという願いも確かにある。

 

 セイレーンには毒気がある。というか自分の中の毒気を認める度量がある。だから魅力的だ。セイレーンは自分の中の「持ってはいけない感情」を無視しない。私は善でありたいと思っているけれど、それゆえに、邪の心をたまに持つことがあることを認める勇気がない。人間であるのに人間であることをやめたくなる。巫女とか、修道女とか、神域に近い方向を目指すことで自分の中の邪さや狡猾さ、不快感から目を逸らしたくなるのだった。早く宗教になりたい。自分が邪の心を持っていたら、人にも時々そう思われてると思うことに耐えられなくなったり、正しくない感情を持つことに耐えられなくなるから。苦しいじゃん。

 

 でも、セイレーンはそういうのちゃんと見てるから時々苦しそうだけど、魅力的なんだろうな、と思う。セイレーンはちゃんと人間だから。私は人間なのに人間じゃないフリをしたがる。

 

「邪の心持つの認められるの偉いわ。」と言ったら、「邪の心ないと死んじゃう!」とセイレーンは叫んでいた。潔くて思わず私は拍手を送った。

 

帰り際に、「なんでそんなギリギリ言っちゃいけない、見ちゃいけないと思うものをあえて言葉にしてしまうの?それが見えてるの?それを見て生きていくのはつらくない?あえてぼやかしたほうがいい?でもぼやかすってことは本当は私も見えてるのかもしれない!どうしよう!」と言ったら、横断歩道を渡りながら、セイレーンは「パンチライン攻めていきたいよね」と言って帰っていった。

 

パンチライン…ねぇ、」と思いながら、まもなく喫茶店での集合から1ヶ月が経とうとしている。