美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

全然悪気のない他者を理不尽に嫌いになってもいいのか問題

地元の友達が、美人ブログを彼女の同僚に見せたことが許せなさすぎて、でも誰も悪気はなくて、悩んでしまった。もう何年も前の話だ。職業柄、あまり同僚の多い職場ではないようだった。彼女の同僚は話を聞く限り全然私とは違う世界に生きている感じがする。なぜ彼女は美人ブログをその子に見せたんだろう。「見せたよ!」と言ってたから、「なんて言ってた?」と言ったら、「いつも、〇〇、その東大の女の子の話してるね〜」って。と返されたという。

なんか字がたくさんあったとか言ってたらしいな、忘れたけど。

 

多分内容が難しかったり、言葉選びがその同僚とは違う世界にあったり、活字に慣れていなかったり、共有できる感情が少ないのだ。そんな子に読ませる必要もなければ読まれたくもないしたぶん同僚にはフィットしないことをその地元の友達がわかってくれないことが私は苦しい。意味がわからない。あなたにとっては自慢の女の子で、地元のあなたにとっては唯一の、なにか新しいつながりなのもわかる。でも、違うと思う、本当にごめんね、違うの。あなたにとっては私は外の知的な世界への窓口かもしれないけど、私にとってあなたはそうではなくて、私はそのブログを無邪気にあなたがあまり同じ世界を共有していないお友達にシェアをするのが堪え難いの、苦しい、苦しくて仕方がない。なんでこんなに嫌なのか、ずっとわからないのだ。

 

ていうかこれは知性の話ではないな、別に知性や学歴に限らずこのブログをきっかけに通じ合えた人はいるし。いろんな人を受け入れたい、場違いなんかなくて寛容な場づくりをしたい、そのことが大事だと訴えかけながら、私の中にある「どうしても嫌!」がふつふつと発生している。

 

このことをものづくりをしている友達に相談したら、「身を削って書いてるのにって思うからやろ?」と言われて、「あ、そうかも」と思った。自分の痛々しいところとか嫌なところとか大事な部分を切って書いてるから、リスペクトを払って欲しかったのになんとなく違うニュアンスで受け取られたのが嫌だったのだ。人との会話には発見があるから楽しい。もしかしたら彼女との交友も、良くも悪くも、いつか今と違う形になってしまうかもしれないけど…。「来るもの拒まず、去るもの追わずって感じやな」と言ってくれているので、それは冷たさではなくて、白いハートの絵文字を使う彼女らしく、シンプルな愛なんだろうなと思う。もしかしたら、万一今書いているようなこととはまた別種のすれ違いを彼女に思ってしまう日が来るかもしれないことを私は怖がらなくていい。ありがたいなと思う。

 

そして、私が魂を削って書いているものを魂を削ってると思ってくれない人は、私は傷ついているのだから遠ざかっていいのかもしれない。そうだ!私は傷ついているのである。

 

だってこれくらいの覚悟を持って私はやっているのに。

「他の人が脱がない部分まで脱ぐ」書き手の覚悟を感じた | かがみよかがみ

 

悲しいのだ、悲しんではいけないと思ってたけど、もしかしたら私はその地元の友達のことが嫌いだしとても悲しいかもしれない。会ったことがないけど、書いたものを、いいなと言ってくれて出会った人たちの方が私は好きだ。雨宮まみは40歳で死んだな。さみしいな。

 

ものすごく嫌で嫌いで傷ついた。

ブログをしょうもない女に読ませた、私のことが大好きで、私が悲しんだら励ましてくれて、私と遊んでくれる地元の友達のことが本当に嫌いでつらい。

私が聖人じゃなくて、つらい。

 

嫌いだ。