美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

「自分」に気が付かなければよかった

地元の友達と地元の店で飲んだ。

話の流れで、母が亡くなったことを亡くなってから数年後に私のSNSの投稿で知ったとなじられた。

 

でも、優しいとは思うけど、あなたは語彙が貧相だし、中途半端な同情を寄せたり、中途半端な言葉で語って、わかったふりをされたり、その全てに悪気がないであろうこと。ゆるふわであんまり世界観が合わないであろう人々に、美人ちゃんのところお母さん亡くなっちゃったんだって…!なんか励まそうよ!とか口走ってしまう、馬鹿っぽいことをしてしまうことが見えてるのでいいませんでした!

 

それから元からあなたが心療内科に通っていることを私は知っておりますし、今日だって腕にいっぱいリスカの跡が見えるから、そんな人間に、自死情報与えたら、ウェルテル効果生むかもしれないだろ。てか今手首切ってる人間に話せることなんか何ひとつないです!だからあなたに話すことはない。何年かあと。自分の心のいちばん柔らかい部分を見せることもないでしょう。というか、把握ができないから…。

 

子どもの頃、一緒に二人三脚をして歩いて帰った頃と同じ自我でいられたならどうだろうか。私がダンスとかスポーツとか、音楽とか、そういうものを通じて人と関われたらまた別の答えがあったのかな、とかは思う。なんの疑いもなく地続きだった頃とは全く違う。というか、それは地続きではなかったのかもしれない。今だって誰かと地続きであるとは思わないけど、限りなく同じ概念の話をするように近づくことはできる。

 

隣にいてくれるのは嬉しい。だけど同じ自我でいられない。同じ自我でいられないけどそばにいることを、私は罪悪であると思う。

 

同じ自我でいるであろうなんていうのも幻想に過ぎないのかもしれないけど、自分の理性と知性と感性をフルオープンにして出した会話が誰かに受け取られないと、私は、あんまり一緒にいる感じがしない。

 

過去を共有したことを大事だと思うのに、何一つ心の中を抉りあったことはない。だから、相対的に遠くなった。私がもっと内側にいったから、相対的に遠くなった。小学校の何年間も歩いた道のりが比じゃないくらい、内面が足りない。

 

「自分」に気がつかなければよかったと思う。何も気が付かずにいたらよかったと思う。心の中で同じ世界にいないな、と思いながら彼女は同じ世界にいると思って話してくるのがたまらない罪悪だと思ってしまうのは私の身勝手なのだろうか。

 

「あ〜うんうん、そそ、すきぴね〜」

とか適当に話しながら、彼女と会うよりずっと後に出会った友達の彼氏が可愛がっているぬいぐるみのワニのたけぞうくんのことを考えていた。たけぞうくんとはまだ会ったことがない。