美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

関係性は言葉にしない方が美しい

弱い立場の人が、吹っかけてくる会話の約束ごとみたいなのが、すごく気持ちが悪いことに気がついた。私もするけど。弱さって変な引力を持っていて、かわいそうであることって、甘えたとかとはまた違って、その人なりの戦略とか強さだったりするんだと思う。

 

弱いのがダメなんじゃない、人を嫌ったり非難したいんじゃない、ただ、弱さの仮面を被った支配的な約束ごとや、ずるさが憎たらしいのだ。「粋ではない」と言って私が怒るとき、たぶんめちゃくちゃいやなんだと思う。粋ではないということは、私にとっては何かしらがピンときていないということだ。

この本には、会話は「約束ごと」の確認作業であると書いてある。

 

私は「親友」と言われると、興醒めして距離をめちゃくちゃ空ける、というところがある。何でだろう、私が好きだ、結果的に一緒にいる、と思う相手とは往々にして、「親友」という言葉を使わずにコミュニケーションしている。

 

私が「ちょっと惜しいな」と思う人たちに限って「親友」という言葉を使ってくるのはなぜなんだろう。陳腐だ。もっともっと私の深いところまで知ってる友人だっているのに!私はそういう相手を「親友」とよんだりはしない。なんで「親友」だと言い切れるの?みたいな人の方がよっぽど言ってくる。

 

たぶんね、言ってしまうことへの畏れがある方が、本当なんだと思う。言葉にすることへの畏れが、私は愛だと思う。結局のところ誰かに紹介するための言葉って、本物じゃないんだろうな、という気持ちがある。言ってしまうのが、怖くなってしまうものが、本物で、本物はあまり多くの人には見えないし、わかりやすくもない。そういうものに身を任せることへの、豊かさを私は、ちゃんと持っていたいと思う。人との関係性はエピソードと一緒に過ごした時間と、動いた感情であって、それらは他人に説明するためのものではないのだ。だから、何かしら相手に対して特別だというものを腹の底に信頼のようなものを抱えながらお互い何も言わないという関係性の方がとても、現実に近い気がする。その色気を破って、強引に何かしらの約束ごとを取り付けようとするのは、信頼性を失うことだと私は思うのだった。私も時々やっちゃうけど。

 

小学校が同じだった友人に、地元のサイゼリヤで「心療内科の先生に、地元の親友がいるから支えてくれて、幸せと言ってるんだ。」と言われた時に、ヴッ、という気持ちと、不思議な優越感が宿った。これは、呪いの言葉だ。気持ち良さと引き換えに、呪いを引き受けるのだ。だからね、ダメなんだよ。そういうのって素敵じゃない。そんな言葉では私は縛れない。友達だけど、幼馴染だけど、親友じゃない。

 

心の中にいろんな感情や思い出があって、それらはあえて言葉にまとめて関係性に名前をつけたくないのだ。それ、そのものとしてとらえるべきなのだ。言葉のまわりには、まとめきれない、すくいきれない、さまざまなものが宿っている。

 

中学の頃、国語の授業で、「名前のついていないものは存在するか」という議題で議論になった時、私は名前がついてないものも存在する側に立ったけど、その先生がその時教室で決めた答えは「名前がついていないものは存在していない」ということだった。

 

それならば、いっそ、死ぬまで言葉にせずに、漂っている何かは漂っている何かのまま、確信している腹の底の愛情は腹の底の愛情のまま死んでいった方がオシャレじゃないかと思う。『うる星やつら』のラストで「いまわの際に言ってやる」と諸星あたるが言うのは、やはり美しいのだと思う。関係性を約束事にしてはいけない、それは結果なんだと思う。私は最近自分の本心に愚直に生きることにして、無粋なものから距離を置いて、自分のなかのここは守りたいというところをちゃんとやっていこうと思っている。

 

私のことを親友と言ってくれたことがある人には申し訳ないけれど──まぁ、私が思うほどの意味では言っていないのだろうし申し訳なく思う必要もないのだが──私は関係性の中にある美しさを死ぬまで守りたいなと思う。それが世間から見たらどんなに面倒くさくても。心の内側の腑に落ち感を私は守りたいと思うのだった。言葉にしてしまう前に、人生が終わっていく。