美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

アクキーになるなや

マジで我慢してたんだけど、書きたい、書く。

 

2年くらい前に志磨遼平が購入特典でアクキーになってから、ちょっとずつ聞かなくなった。

 

手のひらの中におさまるなや、と思ってしまって、アクキー、マジか、と思っているうちに年月が経った。マジで自分の心の内側に留めておきたかったが、この前耐えきれずに、志磨遼平好きの友達とLINEしたときにモヤつきを共有してしまった。共有すると現実になりすぎて悲しい。

 

ここ最近はがっつりアクスタになっているようだった。なんか、ちゃうやん、と思うのだ。

 

アクリル板に存在をコピーされて、ファンの欲望の対象として消費されるのは、違う気がする。いや、ライブで客席にダイブした後「離せゴラ」と言ってたアンビバレンツな感じはどこいったつってんの。

 

尖り続けるのも大変だとは思うけど、それなら、ダサいことすんなつってんの、楽するなつってんの。別に売らなきゃいいじゃん、「最高以外は最低なんだ」とか歌っておいてクソダサい。

 

私たちの世界に、都合よく欲望を投影できるアクリル板に印刷された志磨遼平がいるんじゃなくて、志磨遼平が現実を突き破る世界に私たちが連れてってもらってたのに。主従ちゃんとしてないと嫌すぎ。アーティストの世界観至上主義がいい。

 

いやー「口紅から機関車まであいつと僕が手に入れる」って歌ってたけど、アクキーは、いらんよ。手に入れる側でしょうが、こちらの手に入ってどうするんですか?

 

アイドルじゃないんだから、概念になって拝まれるなよ。拒否しろ、拒否!

 

マジで思っちゃいけないかと思ったんだけど、耐えがたすぎる。ていうかだいたい、本当にアクキーもアクスタも売りたくて売ってるわけじゃないじゃん、流行ってるからとか収益が必要だからとかでしょ?舐められてんだよなー。

 

舐めないでください。マジで志磨遼平のアクスタもアクキーもいらねーーーーーー。

これで、「本当に素敵!志磨遼平が出したものはなんでも好き🫶」というのは、それはそれで志磨遼平好きじゃない気もするし、解釈違いというのもなんかよくないらしいし。

 

でも、まーーーーじで、アクスタとかアクキーになるロックスターってくっそダセェなと思っている。私がくっそダセェなと思っていることは思ってることなんだよ。

 

友達が、それはそれとしてダサいものをダサいって言わないと、それが集まってきちゃうってこの前言ってたけどさ。まじで、アーティストとしての好きな男(自我あり)のアクスタもアクキーも全力拒否。

 

概念になって喜ばせようと思うな。手のひらに収まるな、私の机にいるな。

 

数年前に、ライブ会場でTシャツ買ったら、『毛皮のマリーズ』時代の楽曲をリリースしてた自主?レーベルのJESUS RECORDSの袋に入れてくれたのが嬉しかった。自主レーベルの!袋!志磨遼平の国だったのに。

 

志磨遼平のライブT、私は、自分がちょっと緊張することやる時とか、やったことないことやる時に、お守りみたいに、後生大事に着てた。

 

人間だからしょうがないとか、盲信するなとかじゃねーの。美学語っといて手抜きすんなつってんの。ファンも自分も舐めプするなつってんの。まじでか?

 

自分の本心書くとめちゃくちゃ逆に気が引き締まるな。なんか、優しさとか責めちゃいけないことにして、私もいろんなこと手抜きしてたんだろうな。

 

ダサいかダサくないかってめっちゃ大事かもしれん。自分にとってのイケてるって何なのか、考えなきゃな。