美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

エターナル女児として、青松輝・デスノート・YUKI

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▲子どもの時からイーヨーが好き。100エーカーの森で最も暗くて浮いてるのに、なんだかんだ他のみんなのことが好きなところ。思慮深くて、「つまんない尻尾だけど気に入っている」と言ってピンクのリボンをつけているところ。

 

永遠のガーリーはYUKIの代名詞なのですが、エターナル女児は我ながらなんとなく良くて気に入っている。オモロいんで。エターナル女児。

 

女児れ女児れ!職業女児。生涯女児。死ぬ日まで女児。passion oh yeah!

 

この前、店に来てくれたお客さんから、「美人さんは『選択的ティーン』でしょ。」と言われて、洗い物してた手が止まった。「あっ…そうそう」と、思ってうれしくなった。このお客様は私が別のバー立ってた時に「資本主義と愛の話」をテーマにしてた噂を聞いて駆けつけてくれた。自分が本当にしたい話をして、会いたい人が来てくれるのはうれしい。

 

その方は男性なんだけど、「自分の中の男性性が弱さを無視していることに気がついた」という件で、私が発信していることに興味を持ってくれたそうだった。

 

基本的に私戦ってるんですよ。青松輝っていう歌人に最近ずっとお熱で。サイン会とかpopup行っては、私はみっちみちの笑顔とはち切れそうな自意識で不穏な空気を醸し出しすぎてしまうので、最近気を付けています。

 

言葉が洗練されてて鋭利なんだよな〜。

 

 

サイン会で「こっ、言葉をだっ大事にしたいと思いました…」とかこちらが言って、歌集にあえて絵でニコちゃんマークを書かれてドギマギしている場合ではないんだよ。私は自分より1歳年下の青年に何しているんだ。と思う。

 

青松はどんな人間も神格化せずに、人間的なところに戻して、というか人間的な部分に話しかけようとしている、みたいな言説をいくつか見かけていて、だとしたら、もっと落ち着いて彼がやろうとしていることに目を向けた方がいい。もっとフラットに、極めて冷静に、リスペクトを持って。

 

私が大学院で4年間かけて大真面目にやってたことって、結局、皆、誰もに子供時代があり、人の庇護を受けて生きてきたということだ。そして私たちは明日、病気や事故によって誰かの庇護を受ける対象になるかもわからない。そして人は老いて人の世話になる。自分の足で立ってる期間なんて人生の半分ではないか!そして今立ってる人も、何かしらの偶然に過ぎないではないか!という話なのだが、これはそもそも人間が重要なものであるとされている前提がないと共有できない話なんだよな。それに、一旦資本主義の流れに飲み込まれると、帰ってこれなくなる実感は自分の中にあるので、帰るの難しいなと思う。

 

必要なのは、偶然性への畏怖だ。結局完全に克服なんてできないのに、偶然性のある出来事があるとこの社会からこぼれ落ちるのだとしたら、見て見ぬ振りしてるだけですよね。それって本当の強さですか?って話になるわけよ。偶然性には負けるって言えや。最強じゃないんや!ワテらは!と思ってるので私はすぐ宗教の話をしたりします。

 

私が言いたいのって、我々が生きているのは自力ではなくて他力ってことなんですよね。他力をベースに社会は回っているということだ。結局他者のバックアップの連鎖でこの世はできているという、他力革命思想を抱いているので、やわらかくのんびりしていたいとおもっている。なんで最近トゲトゲしちゃうんだろ。

 

他力の連鎖で私たちはここにいる。そう思うと、ケアの考え方ってやっぱ過去にむくんだよな。個人の体験とか。はー。やっぱ私たちが固有であるということにつきるんだよな。青松の歌集本当にそのあたりへの方向性が感じられてすごく好きなのだ。

 

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Amazon

 

かけがえのない1人に対して向けた、尊厳と人生、生きることに対する大きな意思を感じる。人一人が生きることにはこんなにも意味があるんだ、と思っている感じがする。やっぱ青松は青松の部屋の中の王者だから。自分を王者と思っている人しか、他者を王者にすることはできない。

青松、よく「毛皮のマリーズ」の話してるけど、やっぱ「誰よりもふまじめなキング、そしてわがままなクイーン」なんだよなぁ。(『コミック・ジェネレイション』) 

 

 

まあ男も女も関係ないとはいえ、男の子が自分のこと大切だって言い続けるのって社会の圧的に、やっぱ女の子のそれよりめっちゃ難しいんだよな。男性性って基本的に、存在の価値というよりかは身を粉にして自分の存在としての価値をすり減らし、生産の価値を実績としてあげることが求められるから。もちろん青松は自分でもよく書いているように成功するために手段を選ばないそうだし、実績も申し分ないんだけどさ。なんかさ、私たちが何かの機能として生まれたのではなくて、人が生きることに対してめっちゃ美しいものだと思っていることが、人間という存在に対するリスペクトをものすごく感じるんだよな。

 

ゴッホ

ゴッホ

 

それは、留年しまくっているとは言え、青松が医学部で、人が生きることと死ぬことの間に接し続けているところも関係していると思う。人間という存在を生かすための命の機能と、その人が人生だと思うもの。医療と文学が地続きであるというのは美しいんだよな。なんか、めちゃめちゃ銭湯行ってたり、雪が降ると喜んでいるストーリーをあえてあげるのも、そうありたいという意志を感じる。そのことで喜びたいということ、身体性。それから、著名人が自死すると必ず強いメッセージを発信すること。なにか、瀬戸際で堰き止めようとしているものがあると思う。

 

肉体というものが死を迎えるまでの時間、私たちが見る美しいもの、時間、そのことをよく想う。

 

青松輝、月末にpopupやるっぽくて、また行こうかなー。私たちの世代特有の、服や小物や本を用意している。セレクションには私たちの思い出が機能していると感じる。その世界の一員になるのは簡単だ。現に私もその世界からこの前いくつかその延長になるものを借りてきた。

でもそれはあくまで青松の箱庭であって、その胎内にいることは、できない。私の箱庭ではないんだよ。私は青松をリスペクトするなら、私の箱庭を作らなきゃいけないんだよ、と思う。

 

青松、東大理三で、あらゆる手を尽くす頭の回転の速さがあり、その立ち位置からよく夜神月に準えられる時があって。下の名前が青松あ「キラ」で、歌集と言葉で世界を変えたいみたいなことを言うから。反骨心があるし、自身のpopupのタイトル「atarashiisekai」だし、ラジオ番組に出演した時もアジカンの『新しい世界』を流していた。明確に意識しているんだよな。箱庭のまま外側に突き抜けようとしている。アジカンの曲はこのラジオで初めて知ったんだけど、「目の前の景色を全部塗り替えるのさ」「踏み込め電源 増幅の回路と想像力で世界が変わる」という歌詞があって、なるほどと思った。短歌つくるってそういうことだよな。

 

新しい世界

新しい世界

 

こういう形で、何か新世界やろうとしてるなと思った。そして、別に、神みたいなものにはなるつもりでないのだろうと思うけど。人に対して神様ぶるということに対しての疑問みたいなのも、発言の端々から感じる時があるんだよな。フラットでとてもいいと思う。

 

ちなみに私は2015年からずっとデスノート夜神月の話をしている。今、友達とのLINEログ「夜神月」で検索かけたら100件出てきて引いた。

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コンスタントに夜神月の話をしすぎている。

 

青松はデスノートを題材にした短歌を数首書いてるんだけど、中でも好きなのは──これは短歌集には載ってないのだが──

 

僕が眠っているあいだにもひとが死んで、夜明けはやってくるんだろ、竜崎? - 青松輝「四季の歌」

 

何度か思い出すたびに、「竜崎?」という問いかけが絶妙でハッとする。まるで古典作品からの引用的な、読み手側が知ってることとした、ある種の教養としての原典に、私たちの世代のポップカルチャーが使われていることが面白い。竜崎というのはLが名乗っていた苗字であり、この言い方は、月がデスノートを手放して記憶を失っていたあたりの頃の二人が協力していた頃を思い出させる情景がある。あまりにうまいよ。

 

 

 

でもこれ、記憶取り戻して、あえて言ってるのかな?どっちでも読めるな。でも私の想像の中の月は、目が澄んでる方のピュア月の方だな。自分がキラだなんてミリも疑ってないみたいな。

 

さて、夜神月と、文学性を極めて愛する私は、このままだと、青松が発する自死に対する極めて当事者の尊厳を考慮したメッセージや価値観に共鳴するのも含めて、親を殺した犯罪者を裁いてくれたキラに熱狂するミサミサになってしまうので、(確かに私は夜神月が大好きで、親を自死で亡くしているのだが──)ミサミサにならない範囲で、私も私で新世界をやらなくてはいけない。極めて冷静なリスペクトってそういうことなんだよな。昔友達に「美人さんは、目の取引とかなんだかんだしないから、ミサミサにはなれない。良くて高田。」という悪口を言われたが── 高田、東大だしな…。良くて高田か…。

 

あと青松輝、YUKIが好きなんだよな〜。YUKIが好きな理由「YUKI、ずっとYUKIなんよな」だそうなので、(本当にそう!そこ!)と思っている。私がボックスで持っているYUKIのエッセイ本持ってしゃべってたのも嬉しかった。

 

 

 

YUKIの『ランデブー』って曲の歌詞についても語ってたことがあって、「千切れるくらい高く飛べば 逢えるような気がしてた僕の合図」という歌詞に「いやー、あるもんな、ちぎれるくらい高く飛べば逢えるような気がする時」って言ってて、それも「ほんとそれ!」って思った。

でもまず、千切れるくらい高く飛んで合図を伝えたいことがあるというのは本当にいいなと思った。私も受験生の頃、よく新宿の河合塾で聞いてた。ほんと、ちぎれるくらい高く飛んで合図を伝えたいことばかりだよな。合図ちゃんと通じてたいよなと思うよ。

 

ランデヴー

ランデヴー

 

楽しく生きること、半分の夢を見ている状態が現実なんだよなー。私も短歌作ろうかな。目の前の世界を自分の言葉で作り替えるというのはとても力強いことだよな。言葉で切り裂く力を私は信じているわよ。かっこよくて、甘くて、濃密だと思う。密度を上げていきます。

 

大丈夫か?思いの外熱量が出てしまって、インターネットの海で見つかった場合恐怖を与えないか心配になってきた。私の自我はメロなので、当たり屋みたいになってしまう。本当にデスノートの話が好きで申し訳ない…。

 

まぁ、穂村弘の『手紙魔まみ』、popupで売ってらっしゃったし、いっか。『手紙魔まみ』は、穂村弘にめちゃめちゃ手紙を送りつけていた「まみ」とのやりとりをもとに生まれた短歌が収録されている。

 

 

 

私の大好きなライター雨宮まみの名前の元にもなってる歌集。ちなみに私がこの歌集を知ったのは、毛皮のマリーズ/ドレスコーズのボーカルの志磨遼平のラジオに手紙を送ったら速攻読まれて私が卒倒しそうになった時に友達が教えてくれた。

 

世界って巡っているな〜。同じ時代に生きた人たちが見てきたカルチャーを共有してそれぞれで現実を編んでいくというだけなんだけどさ。なんというか、同時代性とカルチャーのマッピングがうまくいくと居場所を感じるんだよなぁ。デスノートを手放して記憶を失ってる時の夜神月が、竜崎に話しかけるような。あんな時間がずっと続けばいいと思う。やわらかで、かつ鋭利で、真剣な言葉の戦いの先が、倉庫で野垂れ死にだったら悲しいと思う。まっすぐな目のまま竜崎と頭脳比べとか、テニス勝負とかしてる間に死が訪れればいいよねって思う。

 

生きて死ぬまでになんども水はからだを巡り、A Flower Named You.

青松輝 『4』

 

私は誰だ

私は誰だ