美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

ミスiDは文学であり、女の人生のジュンク堂

◾︎はじめに:男版ミスiDがあったなら

この前ミスiDの友達とおしゃべりしてたら、「やはり男版ミスiDを作った方がいい」という話になった。それで、考えてみたけど、やはり、自分の性とまた別の性の役割を社会から負わされている男性たちに、ミスiDという風穴が開くことはとても大きな役割があると思う。自分の生まれた性のことは客観的にみられない。だけど、男性版ミスiDがあったら、と思うだけで、急に冷静になってきた。書きながら思いが止まらなくなったので、ここに記したい。

 

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▲こんな世と隔絶された男性がいたら好きすぎる。ミスiDを見てる男の人ってこんな気持ちなのか!?と思ったら、急に素晴らしいコンテストな気がしてきた。絶対に消費してしまう。しかし持ち前の自我で消費されることを拒否して欲しい。トゥルーワールドはキミの手の中だ!

 

ミスiDというのは2013年から講談社がやっている、「見た目やジャンル、ジェンダーロールに捉われず、新しい時代をサバイブする多様な女性のロールモデルを見つけるオーディション・プロジェクト。」である。

 

サブカルマイワールド系の女の子がフックアップされるオーディション。地下ドルやコンカフェの女の子も多い。アウトローも集めやすく、少年院出の戦慄かなのとかはかなり注目された。

 

グランプリだと、玉城ティナとか、水野しずとか、蒼波純とか輩出している。

 

戦慄かなのとかかてぃが有名だと私は思っているけど、これも全然知らない人いるし、ほんと、私の知ってる世界って別に全然世界じゃないんだよな。だからこのコンテストが持っている世界観そのものがすごい社会の端の方であることはわかっているつもりだ。私はミスiD2021に出て、ファイナリストに選出されている。

 

一方で、毎年出場者を必ず全員チェックするようなファンがいるのも事実であり、女の私としては「トンチンカンな女たちをあえてチェックするのアホか?」と思っていたが、ミスiD男verのイラストを描いて「こんなものがあったら絶対に見てしまう!!」と思った。男性から女性への消費が一般的だからよくない感じがしてモヤるだけで、女性も男性を消費すればフェアかもしれない。人は消費をしあうことを結局やめられないと思う。

 

単に、これまで自分の好みの男性オーディションがなかっただけで、こんなに私の性欲にど直球な男性のオーディションがあったら、確かに変なことになる。たぶん、勝手に出場者のカップリングとかを描いて炎上する腐女子とかが出てくる。性欲がないわけではない、完全にやばい。虚構の方に性欲が寄っているだけで、異常なエネルギーで幾人もの存在しない男たちを描き上げてしまった。 機会があったら載せます、オモロいから。

 

なるほどミスiDってすごいオーディションだと、急に認識を改めた。客観視するって難しい。

 

◾︎ミスiDのファイナリストになるのはすごいのかもしれない

 

結局私は自分が出たコンテストのことをよく、「インターネットサブカルオーディションです笑」とか「クリエイター系の…」とかもじもじしていた。「たかが、個性オーディションのミスiDですから…」みたいなことを言っていた。ミスiD2021は、応募者2676名のうちのファイナリストは194名である。

194名、多い(感覚)。なんかファイナリストって7人くらいの感じがする(感覚)。だから、たかがファイナリストだろうと思っている。私が出た年は過去の開催の中でもダントツにファイナリストが多い(事実)。でも、倍率で言えば、13.79だ。倍率13倍(四捨五入すれば14倍)は難しいのだ(事実)。自分が得たものの価値を勘違いし続けるのって、全ての人に迷惑だ。結局私は自分のことにしか興味がなくて、残りの2482人のことを無視している。もちろん上には上がいる──それを上と呼ぶかは別として──し、基本的にファイナリストとか、賞をもらった女の子たちとつるんでると圧倒的に楽しい。新しい世界が見える。

 

一方で、精神疾患の子たちや、かなりアウトローな子たちを集めやすい構造のコンテスト自体に問題もある。それに、ミスiDで評価される軸がこの社会で現状何かアドバンテージを持っているかというと微妙だ。あれか、早稲田王決定戦くらいのローカル性があるな。やってる人間は真剣だが独特性を帯びていて、外では別に見向きもされないみたいなやつ。あと高円寺の中でめっちゃ有名な飲みネームで名が通る人とか。

 

やっぱ、ミスiDは2676人が一生懸命やって、その中の13.75倍の倍率を私は勝ち抜いたということが大事だ。一人一人が頑張ったと思うと、「別に賞とってないんで…」とか、そもそも、「個性オーディションなんで…」ということ自体がめちゃくちゃ失礼だ。結局他者のことを大事にどれだけ思えるかが自己肯定力に繋がってるんだと思う。これだけの女の子たちが何者かになりたくて自分の何かを削り出した。一つ一つの正当なリスペクトが、自分をつくっていく。

 

◾︎人の一生懸命を笑わない

 

私が必要としてないものが、世界にとって必要とされてないものかはわからない。確かに、近寄ったら近寄ったで「こりゃ無理だ!ミスiDの中でもトップの〇〇ちゃんの圧勝だわ!人間の有象無象はやっぱ玉石混交!」ということも起きてくる。差はある。だけど、もう少し遠い目線から、勝負に出た人たちのことを尊敬していると、愛と自分への自信が湧いてくる。私は、それだけ真剣な女の子たちの中で、何かしら魅力がある存在として選ばれたんだ。得たものの価値を卑下していいことなんて、ひとつもない。

 

ミスiD2020のコピー「世界はひとつじゃない ルールも 常識も 女の子も、人の人生を笑うな」なの、改めていいな。生き様に、ダサいダサくないはある。「人の人生を笑うな」だな。みんな一生懸命生きている。一生懸命生きている。下なのではない、違うだけ。

 

多分、昭和の時代のパッションって「人生を笑わせない」みたいなところにあったよな、と思う。それぞれが懸命に生きている、という物語性はあったと思う。さまざまなものの「一回性」とか。

 

ミスiDには、なんか社会と距離を持ったアンニュイな女の子がいる一方で、泥臭さもすごくある。泥臭さに対して、最近は冷たい時代だと思う。うまくやろうと思うと、しくじるみたいな誠実さが、昭和にはあった気がする。差別も揶揄もあったけど、それはそれとしてなんか、中島みゆき的な、はぐれものたちの、どうしようもなさとか、寂しさとか、そのドラマチックさに、名前がついたと思う。

 

だけど、なんか最近、社会にそういう余地がない。ミスiDには、中島みゆきっぽさが結構あるんだよな。ああそうだ、名付けるなら、「はぐれ者たちの鎮魂歌」だな。

 

化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど

今夜死んでもいいから綺麗になりたい

「化粧」 中島みゆき

 

流れるな涙 心でとまれ

流れるな涙 バスがでるまで

バカだね バカだね バカだね あたし

愛してほしいと 思ってたなんて

 

「化粧」 中島みゆき

 

やっぱ不穏なパトスはいいな〜。ああ、そう、ミスiDって「不穏なパトス」。なんか、「化粧」って、大森靖子っぽさもあるよな。カバーしてくれんかな。いや〜。めちゃくちゃミスiDっぽいな。なんか全体的に「怨念」の籠ったオーディションである。そして、審査委員長の小林司が怨念の処理に長けた「男巫女」みたいな存在だったと思う。

 

泥臭いけどどっこい生きてる、みたいなのもあって、年々社会から漂白されつつある感じもある。なんでだろう、スマートさと辛さが両方デフォになっている。人間味が減ってきている。やっぱそういうのってやっぱりどこかで、「お水系」の香りがするんだよな。誰からも見向きもされないかも知れないけど、すごく外見的に美しいわけでもないけど、メジャーじゃないけど、どっこい生きてる女の子たちを、講談社の力でフックアップする。それは、すごいことだ。わたしはさ、出場者の女の子たちの叫びを「うわなんでこんなことで真剣に…」とか「こんな陳腐なものを物語だと!?」と思っちゃってた。その一方で「私も何か物語を伝えなきゃ!」と思って慌てた。

 

全部に共感しなくてもいい。同じ物語に出なくてもいい。彼女たちが真剣なことを、そうなんだなと思っておけばいい。必要なのは距離だ。

 

◾︎ミスiDが出版社のオーデションである意味

 

人の人生を笑っていると、自分に返ってくる。ちなみに、私が出たミスiD2021のコピーは「夢見る頃を、過ぎても、私だけの物語」いやー実存すぎる。素晴らしい。当時は、出場しながら「なーにが物語やねんwなりきんなやw」みたいな自分もいた。しかし、今になって、自分の物語を生きるということがどれほど難しいかとか、このクソみたいな世の中でサバイブしていく上で重要なのかを身をもって知った。笑われても、夢見る頃を過ぎても、自分だけの物語は、強い。シンプルにそれだけ。そしてミスiD2022のコピーは「わたしの魔法は負けない」。

魔法というのは自己暗示、世界に染み出すもの。私がこうだと思っている世界、私が外界にかけるもの。ミスiDというオーディションは、出版社のオーディションであるんだ、ということを日に日に実感させられる。私はよくミスiDのことを考えており、生きるということの文学性とナラティブの力を、ミスiDは、パフォーマンスとして、社会に、女の子たちに示したんだと思う。

 

ミスiD2022以降、ミスiDは開催されていない。この後開催されるかもわからない。2013年から10年続いたミスiDは、時代に徒花の花畑を作りだした。なんだ、美しいじゃん。私はその中の一輪。ミスiDに出たこと自体を揶揄してるわけにいかない。むしろ徒花の花畑を広げることに執心した方がいい。ホウセンカのように種を爆ぜて飛ばしたりした方がいい。

 

◾︎ミスiDは女の人生のジュンク堂

 

ミスiDの魅力はそのコミュニティにある。ファイナリストまで行ったら大体ざっくりミスiDの輪に入る。そこで会った子たちは宝だ。宝だが、本当に玉石混交で、精神疾患パーソナリティ障害ありの子も多いので、ノールックで突入すると大変なことになる。冒頭で「男版ミスiD」の話をした、ミスiDの女の子との話題にも出たのだけど、やはり「みんな違ってみんないい」「みんな友達」「シスターフッド」というような価値観は、なかなか、公式が言うのと実際横同士で絡むのは違う。

 

ものすごいトラブルとか搾取が起きる。巻き込まれる。やばいおじさんも絡んでくる。だから、それぞれが別の物語で、別の本で、同じ本棚に並んでいても物語が混じり合わなくていいというくらいの、注意喚起は必要だと思う。マジで地獄の精神の領土取り合い戦国時代、関わったら終わり、みたいな沼がたくさんある。人生の時間を割くべきではない場所もたくさんあった。

 

ミスiDって女の人生のジュンク堂だから。置いてあるフロアと本棚が近い同士で絡めばいい。小さな書店のセンスのいい選書も素敵だが、一方で、大型書店の網羅性もまた魅力だ。以前、丸の内の丸善に「コロナは全部嘘」みたいな本がちゃんと本棚の隅に収まってたのを見た時に、なんか逆に矜持を感じたんだよな。本屋としての。よく思い出す風景。

 

逆に西荻窪の本屋に、ホリエモンとかひろゆきの本が一冊も置いてなくて、私がよみたいと思った本ばかりが陳列されてて奥には岩波文庫が並んでた時に晴れがましい気持ちになった。こういう世界を私は目指している。私はもう私の好きなもの、正しいと思うものしか身の回りに置かない。甘やかな夢の中で生きていくと決めた。私は私の小さな世界の中から出ないでもちゃんと大きな世界にも牙を向く。

 

陳腐な物語を綴る他の本に牙を向きながらリスペクトもする。「それは尊厳剥奪されてるだろ!変な恋愛すんなカス!ヤバ男に殴られるな!孕むな!ストーキングされるな!」と、それはそうとしてどっこい彼女たちが生きてる問題は別だ。両方あっていい。

 

大型書店には、陰謀論コーナーや、ちょっとヤバめな精神世界コーナー、下世話な雑誌、たくさんある。でも、全部含めてジュンク堂「ミスiDは女の人生のジュンク堂なのだ。こういう言葉を産むと、ようやく安心する。私は言葉で世界を支配したいから。そう!私は言葉で世界を支配したいのだ!!言葉の下に世界を置きたい、だから、 言語性が強いのって暴力的で加害的でもある。でも人って名付けられたり、言葉を与えられるとその中に生きることが心地よかったりもするから、なるべくメタって言葉を与えるって、本当に暴力的なSMだと思う。

 

人に言葉を付与するのは支配だ。私の出た年のミスiDはファイナリスト全員に、審査委員長の小林司から特別な賞の名前が与えられた。私に与えられたのは君の名は希望賞」。へー。わかる、でも、圧倒的に「美人」の方が気に入っている。私は「美人」で、「ミスiDは女の人生のジュンク堂なんだ!私は私の世界の支配下に「ミスiD」を置きたい。小林司は神様ではなく、他者にすぎない。「女の人生を読む編集者」の1人でしかない。小林司のその視点と私も同列でありたい。「女の人生を読む編集者」がいい。私は選考対象でありながら、最終的に選考されることを拒否していた。

 

は!?なーにが「君の名は希望賞」や!そっちは、!「女の人生のジュンク堂の店長」のくせに!!!名付けてやる!!!

 

 

◾︎崇高な本として鎮座する

ミスiDに出た。ミスiDに本気で労力や時間や、愛や想いやそこで出会った女の子たちと本気で関わった時間があって、そのことを自体を笑ってしまうと、私自信が私のことを笑っていることになり、それはミスiDのコンセプトに反する。私はこれからミスiDに出たことをもっと誇っていきたいと思う。やっぱ、コンセプトの中に「尊厳」の要素は大きい。「尊厳」をガチでやってくしかない。

 

「足りない」と思いすぎることは、他者へのリスペクトを欠いている。それだけ頑張った皆さんの中で選ばれたこと、それはそれとしてもっと高みを目指したいこと。両方が必要だ。

 

中に入ってみて、素晴らしい人たちにもあったし、素晴らしくないものも、たくさんみた。

 

「この世にこんなに搾取されてる女の子がいるなんて!」という驚きもあった。それは、フェミニズム研究とか、ジェンダー研究の外側でただそこにいる女の子たちの姿だった。懸命だけど、近寄りすぎると私がその世界に取られてしまう。ミイラ取りがミイラになってしまう。そんな気がした。全てのものにはいい面もあれば悪い面もある。

 

私は自分が盲信してるものにはいい面ばかり見出し、自分が手に入れたものには悪い面ばかり見出す。それは、ネガティブ・ケイパビリティからは大きく離れている。揺らいでみて自分の居場所に帰ってきた。もう2度と行きたくない人間関係がある。それは悪いことではない。でも、遠くでなら元気でいて欲しいと思う。そういうものがある。

 

あなたの物語を見せて、は怖い、人を狂わせる。例えば、ミスiDのカメラテスト(オンラインで、自宅からzoom)では、急にバリカン持ち出して丸坊主にしたりする人がいる。人類びっくりコンテストは、手軽に人をおかしくする。でも、わたしはこれを憐れむこと自体が、その人に対して失礼じゃないかと思ってたけど、何年もモヤモヤしている。モヤモヤしているというのはよくない。私は格好悪いと思う。なんだか苦しくなる。ていうか、坊主になってもファイナリスト残れないってなんなんだ、と思ったりする。なんか、そういう貧乏くじ体質のひと、自分を痛めつけて自滅するタイプの人って多い気がする。書いてて辛い。辛辣だからだ。

 

ファイナリストになって会場に座ってたとき、全員スピーチの順番を待っていると、目の前の女の子が立ち上がり、いきなりコートを脱いで水着になった。「すごい、ToLOVEるみたいなこと起きるじゃん」と思った。あまりに「ToLOVEる」すぎる。目の前に水着の女の子の尻がある。「これはラッキースケベなのだろう」と思った。

 

グラドルの子だったかなあ、なんかでもあんまり私はそれを美しいと思えなかった。なんか無理をしてる感じがした。感覚の話なんだけどさ。脱ぐことそのものじゃなくて、誇りを持って脱ぐのが大事。JUDY AND MARY時代のYUKIの赤チェックの水着写真は超キュート。ミスiDでいうと、あにお天湯ちゃんとかはグラビアの新しい時代を切り開いているし自分の強さを武器にしていると思う。

 

わたしは急にコートを脱いだ目の前の女の子の裸をかっこいいと思えなかった。どうしても思えない。思えなくたっていい。本人がかっこいいと思っていればいいのだ。本人は本人の行動を大事にすればいい。何か、それを認めるとわたしの中の美の軸が揺らぎそうになる。そういうものはやはり受け付けないのだ。どうしても。アレルギーのある食べ物のようなものだ。ごめんなさい。本人が勝負してるのはわかるけど、私は縋るような態度が素敵ではないと思う。

 

見た目の良し悪しや、病気や障害が憐れなのではない。お金の有無が憐れなのではない。自分の尊厳を明け渡してしまう人のことを、私は憐れだと思うのだ。ごめんなさい、私と彼女はは別の本といえど、耐えられない。私はそれを憐れまないことにしたら、嘘をついていることになってしまう。何が素敵で素敵でないか、何がダサくてダサくないかは、はっきりしたい。私は私の物語に集中する。だから、こういうことを言っていい。

 

カメラテストで坊主になったり、突然脱ぐことを誇ればいい。フェアってそういうことでしょ!私はそれは一番見たくないものだ。ごめんなさい。つらい。だから、ここに書く。オフィシャルのミスiDに関する記述には載せられないことを書く。本心だから。自己を痛めつける女の子は、痛めつければつけるほど、美しくなくなる。ごめんなさい。それがたとえ勝負の服装だったとしても、急にビキニ、が私は受け入れられない。焼きついた、普通の尻が忘れられない。普通の尻なのだ。わたしは何か品評されるものに陳列されに行く人が嫌いなのだ。ぶっ壊した脱ぎを見せろよ!!!

 

 13.75倍の中に入って、とても素敵なクリエイターの友達を得て、好きな格好をして、多少ガチャついたけど頑張った。結果も残した。偉いじゃん私。ミスiDに出てミスiDになりたかったんじゃなくて、ミスiDに出て、ミスiDというものを知って、言語化して、一部を支配下に置いてみたかった。そういう話だ。わたしは結局絶対品評されたくないんだろうなと思う。そのことが社会の果てにわたしを向かわせている。

 

◾︎ミスiDを私の執筆下に置きたい。

 

「あなたの世界を見せて」って、漏れ出してる人や漏れ出させることをキャリアにする覚悟ができている人にとってはいいけど、結構ポルノだ。なんか、徳の低めな男がする「えっちな写真送って」に近いな。プロのストリッパーと、愛されたい一心でえっちな写真を送ってしまう女の子は違うだろう。プロには誇りがある。焦りも素人に比べたら少ないだろう。今ここでえっちな写真を送らなくたって、大口の顧客がいたら、特別なステージがあれば、自分というものがあれば、本当に切り取って出したい部分だけ見せられる。それはその人を強者たらしめるし、そういう人にはより人気が湧く。もっと見たい!と人は思うから。全部差し出さ必要もなく、これ以上愛されなくても、大丈夫な方がこの世は強い。だから、富めるものはどんどん富む。貧するものはどんどん貧する。

 

ミスiD出場中、私は多様性礼賛の裏側で、なにか、ないものを出せ、と脅されているような脅迫感があった。私は手軽におかしくなった。自分の物語を語れというのは苦しい。わたしはこのブログを読んでくれてる人にはわたしの物語を伝えたい。伝えたくて仕方がない。何人も浮かぶ具体的な顔があり、この人たちに話しかけたいと思う時にわたしは美人である。でも、それが、大きな大会で伝えたいかどうかは違って、わたしには選考委員よりも違う宛先たちがある。それは幸せなことだったと思う。自分の物語を読んで欲しい受け取り手ががいる。文脈のわからない人に読まれたくないと思う。内面は裸と同じなので、たとえそれがどんなに立派な人であろうとも大きなチャンスがあろうとも自分の一番大事な扉は売りたくなかった。

 

わたしの世界、わたしの扉は私だけのもの。それ以外の全部はぶつけたけど、このブログの人格みたいなものを絶対に出したくなかった。絶対に出したくないというのは私にとって一番大事だということだ。

 

私はここから世界をまなざす。ここは誰にも譲らない。審査なんかされてたまるかよ、ばかと思っている。私は自分のこういう崇高さをもっと褒めていいのではないかと思う。偉い!

 

こっちは心脱いだんだよ!

渋谷の街の真ん中で裸になるのと、高いお金払ってストリップ劇場に来てくれた人の前で裸になるのは大違い!心の痴女より心の淑女。別に吉田豪に見せたい自分とかおらんしな。戸田真琴さんはわかってくれると思っている。戸田真琴さんになら伝えてみたいと思うことがあったな。

 

読み手の方々〜読み手に見せたい私はいます〜👋

やっぱよそで心見せまくると性病もらってくるから良くない。深さのエロがあります。

 

ちゃんと出し惜しみしていく。美しいものはやっぱり秘密なんだよ。あと美しくないものも混じるんだよ。私はこのブログが気に入っているけど、カメラテストで丸坊主にした人と、ファイナリストの集いで急に脱いだ人のことを悪く言っているから、ミスiDの公式の何かで執筆することは難しい。やっぱり圏外地のミスiDでも、さらに圏外でありたい。批評する余地や自由を残しておきたいと思う。でも!だって!変だもん!だめだよ!

 

最後の最後に愛があれば言っていいんだと思う、思ったこと。ていうか、私たちは彼女たちのことを大事に思っているからこそこんなに不審がっているといえるしね。多くの人たちは彼女たちの尊厳まで興味ないからね。その意味で言うと、がっかりするのは彼女たちの尊厳を信じていたからだ。どうしても、そういうもので認められようとする人たちが悲しい。

 

◾︎ミスiDと距離を置きたい、今。

実際に出てみて思うのは、やはり「玉石混交だ」と言う事で、素晴らしく才能あふれる子たちに出会えた一方で、希死念慮が強かったり精神疾患人格障害っぽいものを持ってる人たちもいる。それ自体に罪はないのだけど、ミスiDに立ち込める「全てが素晴らしい、みんな仲良しシスターフッド」的な価値観は、参加者同士の絡みになると突然牙を向く。かくいう私も、いろんな人と絡んでみて、自分の見た事ない世界を知った。同じような音楽や、同じようなアイドルが好きだ。だけどこんなにも別の世界を生きており、私がそれまで知ってると思っていた尊厳とか知性みたいなのが、ぐちゃぐちゃの承認欲求の渦みたいなものの中で、ものすごい磁場で乱世を繰り広げており、付き合う相手を間違えると、容易に飲み込まれる。私はこのことは注意喚起をすべきだと思う。

 

全ての個性は素晴らしい、それは、審査員がその人1人を見つめるときであって、それはそれとして、一緒に絡んでいい界隈かどうか、人間かどうかは、分け隔てなくの前にそれぞれ防御してくれ、ということはちゃんとうっすら伝えておいた方がいい。そんなものは自分でやれ、と言われたらそれまでだが、やっぱり、やっぱり、私はイベントでほんの少しあった女の子の訃報を見ると悲しいんだよな。近寄ったことが正しかったのかはわからないけど、人の自死率も結構高い。ミスiD界隈のインターネットにいると、自死した女の子たちに触れる機会もたぶん、出なかった時より多く、そういうものが私を蝕んでいるのも確かだ。普通はそんなに人は死なないよな。

 

それはミスiDが悪いわけではなく、ミスiD的なものが出場経験者を死に至らしめてるのではなく、もともとそういうギリギリの子が出るオーディションだからだ。そう思うと、彼女たちがいたことも知らないままこの世からいなくなってしまうよりかは、私が彼女たちのことを知ってること、誰かがその死を悼みその人を思い出すことを思えば、オーディションそのものに意味があるような気がする。一方で、その人の死はその人のものというのがあり、別に悼む人の数なんて関係ないという硬派な考え方もあると思う。それでも、その人がいたことを知ることは、意味がある。一人一人が見た世界そこにいたことは、一冊の本のような意味がある。

 

その上で──なのだが──。私はこうした本にもう囲まれたくないと思う。名著は見つかった。これ以上、人が死ぬ可能性があったり、尊厳が傷つく描写のある本を受け入れられない。それは私の尊厳だ。もう苦しいのだ。そういう描写の本を読むことが、その本棚の周りにいることが耐えられない。

 

過去の出来事のフラッシュバックがあって、見られない映画がある人とか、あと、最近その映画で犬が死ぬかどうかをチェックしたいみたいな人がいるように、私は人が自死したり、尊厳がボロボロになったり、ゴミ恋愛をしている人間を見たくないのだ。どうしても拒否!

 

ミスiDであることは誇るが、その本棚から逃げ出したい。見つけたキラキラの本だけ持ち帰ってこの美人ブログに並べたい。もう読みたくない。つらい。私は尊厳低い女が大嫌い!それが私の物語である!それは、ジュンク堂の「崇高」の棚に入ってるだけの話。ていうか、ミスiDで仲良くなった子達、軒並み「崇高」の棚に入っている。「痴情・もつれ」の棚に入っている人は合わない。「惨め・哀れ」も、もう読まない。そう、それだけの話。メタ認知は世界をフラットにするな。慢性的に人が自死するコミュニティ嫌すぎ!