美人ブログ

拝啓、美人でございます。

なぜ書けないのか考えてたんですけど

なぜ書けないのか、考えてたんです。

まったくもってあの頃紡いでた文章とは似ても似つかない私になってしまって、書くことを仕事にしようと、思ってたんですけど、そう思った途端、なんだか薄っぺらくて、説明的で、人生の本質を捉えていないハリボテみたいな文しか綴れなくなってしまったのです。

 

書ける文章が変わるということは、ものの見方や考え方も変わるということで、私はこの数ヶ月ボーッと、何も考えず世の中の「現実」とやらを見て過ごしていました。

 

お金がないと生きていけないこと、遊んでいては暮らせないこと、嫌なことを我慢しないと生活はできないこと、世の中は綺麗事ではできていないこと。そんなことを嫌という程教えられました。

 

いえ、実際にその現実を見て思ったわけではないのですけど、最近仕事でお世話になってる人にそう言われたのです。

 

お金を稼ぐのは大変だ、商売は厳しい、とよく言われます。おっしゃる通りだと思います。思えば私は一人で生きていくということを考えたことがありませんでした。

 

自分でお金を稼いで生活するということを現実的に考えたことがありませんでした。両親の期待に答え、中高では成績上位、生徒会もやりました。文化祭では率先して仕切りました。よい大学に受かりました。華々しい活動も1つや2つしました。よい会社に入ってそれなりにしてれば、それなりに暮らしていけると思っていたのです。1日も休まずに小学校に通ったように。毎日決まった場所に座って、決まったようにやっていればなんとなく、そんな風になると。お小遣いのように給料がもらえると。 

 

だけどそんなことは全くなくて、人に合わせたくない私はとことん社会性もなく、わがままで、発達障害特有の粗雑さを発揮し、社会において大変に面倒な甘やかされた「使えない」人間だったのです。

 

生きてゆく覚悟と責任が私にはなかったのです。いつも誰かが何かをやってくれると思ってきました。遅刻したら母が車で送ってくれました。忘れ物も届けてくれました。掃除も洗濯も洗い物もほとんどしませんでした。大学への入学届けも、母が書いてくれました。

 

ハタチになった2ヶ月後に母が亡くなったあと、私はなにもできなくなりました。年金の学生免除の書類も提出を間違ったまま放置してました。老後になにが起こるかわからないのに、なんとかなると思ってました。大学も卒業してない20歳に、お金を払うように言われるなんて、考えてもなかったのです。甘えてますね。

 

大人になれると思ってました。大人になれてると。しかし22歳になって、偉そうなエッセイで人生論垂れても、机上の空論にしかならないのです。発達障害なのか、性格なのか、教育なのか。そうは言っても大人になった以上自分のせいであることには間違いがないのです。自分で生きていかなくてはならないのです。

 

稼がないと、食ってかないといけないんです。じゃないと、私は私の人生を生きられないから。それはわたしがなりたい美人ちゃんではないと思うのです。

 

それを気づかせてくれたその方には大変感謝をしています。しかし一方で、厳しい現実だけが、世の中かというと、そうでもないと思うのです。

 

その人には、人生が楽しい人なんてほとんどいなくて、生きていくって厳しくて、人生とは辛いものだと、伝えられました。だからそのように生きてみました。そのような目線で生きてみました。

 

日々が凍りついてゆき楽しいものも、生きてる意味も見出せず、ただただ虚無のまま死にたくなりました。人生楽しいという父に、「人生は楽しくないのはマジか」、と毎日毎日問い詰めてやさぐれました。母がドロップアウトした世界でわたしは、楽しくないなら生きてる意味がないのです。

 

辛いことをしたくないというわけではありません。より大きな目標のためなら、降りかかる理不尽やストレスにも耐える覚悟はあります。父は自分らしく生きられる人が増える社会をつくるため事業を起こしています。なので、もちろん仕事において裏切りや、人間関係の問題や楽しくないこともあると思いますが、本人は楽しく生きていると胸を張って言えるのだそうです。わたしはこの人の娘なんです。ハッピーに生きる才能だけがわたしの取り柄なのです。

 

だけどそれは綺麗事だと、言われました。「人は現実を見ようとしない。現実は厳しくて辛いから。」と。私はその言葉によって、その世界に引きずられました。毎日毎日、世の中を疎んで過ごしました。

 

「世の中のごく一部の相性のいいカップルを除いて、結婚相手なんて誰でもいいものだ。」とも言われました。好きな人と夫婦になれないならこの世に生きている意味がないのです。私にとっては。

 

悪気のない「現実」主義者に、私のささやかでハートフルな楽園は潰されてしまいました。

人それぞれ生きる意味や、人生に必要としていることは違います。「現実」とはなんなのでしょう。私はその人が見た世界が「現実」だと思います。

 

私はこれまでのブログで綴ってきたことを読み返しました。誰にも理解されないと思っていた私は人と心を通わせることができるということ。私が持っている感情は馬鹿げたものではなく、意味のある実在するものなのだということ。綴ることで、読んでもらうことで繋がれたらことを思い出しました。

 

私はそういうことを忘れたくない、忘れたくないんです。

 

この前ブログ再開の投稿をした時に、ほとんど知り合いのいないクラスで「わたしは文才とかないからよくわからないんだけど、ブログ読んでる、応援してる」と声をかけてきてくれた人がいました。なんだかそういうことだけでその場で泣き崩れたいくらいの悦びを感じてしまいます。

 

私は人一倍感情や考えを伝えることがうまくなく、開いてるように見せかけて、自分の心の壁は分厚く高く塗り固めています。そうしたものをちょろりちょろりと漏れ出した文章を誰かに読んでもらえる時に本当の私が少しだけ誰かと繋がれたような気がするのです。

 

人の心や、豊かな愛や、感情の機微を大事にしたい。私は私の感じるそういうものを誰かに、何かに、伝えることで生きて生きたいなと思いました。感情だけではだめです。でも、「現実」だけでもダメだと思います。人は見たものになります。私は私の見たい現実を見ます。それはすでに虚構や逃げだという人もいると思います。でも、見たものが事実なのです。  

 

「美人」という人格はわたしがなりたい自分でした。ずっと。あの頃より人に対して異常な劣等感を持たなくなりました。恋愛も少しはできました。

 

わたしはあの頃見た世界に生きてます。悩みは尽きませんが楽しいです。

 

まだお金を稼ぎ、一人で生きてないからかもしれませんが。

 

「美人ちゃん」は私であり、いつも私の数歩先を歩いているひとです。

 

かしこく、しなやかで、やさしい。芯のあるひとです。私はきっと、一人でちゃんと生きていくと思うんです。

 

しっかり稼いで、感情を大切にして、誰かやみんなを愛せる、そして心から人生が楽しいと言える、美しい人に、わたしはなりたい。それを証明するために、辛く厳しいと言われる人生をもう少し生きてみようと思います。