美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

位牌はメディアであり、供養とは残された人がちゃんと生きるための発明である

母の七回忌があった。私と父で参列した。法事なんて面倒だ、と思っているが、大きな会場で大きな仏像を前にお坊さんが二人がかりで大きな木魚を鳴らしたり、綺麗な紙吹雪のような札を撒いているのを見ると心が癒される。なんだか涙が出て来るのだ。

墓に行くたびになってしまうこの感情を私はてっきり後悔や懺悔や寂しさなどのネガティブな感情だと思っていた。しかしそれは違ったのかもしれない。むしろ、忘れたことにしていた幸せな記憶が噴き出したのだ。

近頃は、毒親だとか、家族が絶対的な価値観ではないとか、そういう多様性にまつわる言説がよく見られる。だからこそあんまり家族家族いうのもトレンドじゃないし、と思っていて、「家族の幸せ」について味わうことはタブーなのではないかと思っていた。我が家の物語は母の自死と弟の不登校で終わってしまったのだし、(と、思い込むこともできた、というだけの話だが)と、家族の記憶をなるべく切り捨ててきた。それは母親が家事労働やケア労働の負担を一手に背負い、私たちが彼女を消耗させてしまったのだ、と思っていたから。誰かの犠牲によって成り立ってた生活を慈しむことはできない。そして未来の自分が、失った自分と家族の時間を取り戻すことを目標にその再現に命をかけて別の人たちの人生を巻き込み、エゴの箱庭を作ってしまうということも恐ろしかった。だから、過去は切り捨てていたのだった。ひとりで生きる人が増え、慣例はなくなり、家族制度のめんどうなところが指摘されるようになってきた。親族の集まりとかもだるいし、そういうものもこれから解体していくんだろうなあ、とぼんやり思って、わたしもゆるやかな、みなしご気分を味わっていたのだった。(赤毛のアンも、あしながおじさんも、キャンディキャンディ も孤児なので、私は家族に溺愛されつつ、自我の半分を孤児だと思っていた。)

 

話が逸れた。そう、私が法事をしながらなんとなく感情が胸に迫って涙が溢れてしまったのは、普段忘れたことにしている幸せな記憶なのである。家族というユニットで過ごした、蜜月の時間なのである。これがどれだけ恵まれてることなのかを思えば思うほどなぜか罪悪感に駆られてしまう。うちのユニットは結構良かった、ただそれだけのことなのだが。家族で車に乗って近くのショッピングモールに行ったり、外食先を探したり(これも毎週末かなりの頻度で行っていたので自分たちが恵まれていることを後々知った)。ああ、自分大事にされていたな、母がいたな、ということをちゃんと受け入れていいのだ、と思うと、母は存在しないのにも関わらず、自分の中にふっと守られて包まれているような感覚が蘇るのだった。あれ、やっぱり楽しかったよ。

 

そんなことを考えている中、お坊さんは、お位牌に対して念仏を唱えている。わたしはそれをぼーっと見ているうちに気がついたのだ、ああ、これは死んで無くなってしまったはずの存在を、別の存在に依託することで、「いる」ことになって(して)しまうメディアだ。位牌はメディアなのだと思った。それは別に都合のいい幻や妄想の類なのではなく、残された人間がそれぞれの故人の記憶をその位牌や墓に託すことで、私たちの中にいた「その人」を立ち表すことができる、発明なのだと思った。

 

皆、意外と自分のためには頑張れない。通過儀礼などもなく、大人へのなり方がわからなくなった、高度経済成長期以降の大人たちは、「子供」という存在を作り出し、彼らの世話をしたり彼らに物を買い与えるために相対的に大人になろうとした。しかし今やその子供たちが大きくなって、「大人」という存在を作り出すこと自体が難しくなっている。「自分のために」は難しい。他者に対してできることの方がわかりやすく、生き甲斐になりうる。だからこそみんな「推し」が欲しいのかもしれない。

 

位牌があり、法事がある、自分のことを慈しんでくれた人間の記憶を形に託すメディアがある。なんのテクノロジー要素もなく、個別の再現性もなく、原始的だが、儀式と慣習として素晴らしい発明だと思う。その人の存在が消えてもなお、その人にちゃんと愛されていたことを確認できる永久機関である。なんだかちゃんと生きていこうと思えるので、供養とは生きている人のためのプロジェクトなのだと感じる。残された人が故人の残したものを力に変え生きる糧にしていく、引き継ぎ行事だともいえる。供養、いいじゃん、だてにこんなに続いてないな。

我が家は小規模でやったけど、回忌ごとに故人を偲んで人が大勢集まるというのも、かなり面倒要因を上げているポイントのひとつだが、本人が存在しないにも関わらず本人を囲って集まった人々との縁や出会いを確認しあえる機能があり(これは多分意外と困った時に役立つとかもあったんだろう)、また本人は存在しないが本人を知っている人たちが集まることで本人の姿を立ち現せることができる発明でもあると思う。記録や記憶は、人が死んで消えてしまうことに対する抵抗だとも言えるが、とっくに無になってしまった空白の席を、今ここに存在している人たちの記憶によって、「いた」ことを確かめ続けることができるのだからすごい。

「いた」人のことを消すことはできない、「いた」はずなのに「いなくなった」ものを「ある」に変えることでその不自然さを埋めていく。自分のためにもちゃんと仏壇の手入れとかした方がいいんだろうな。

「死んだら無」と思っていたので、母の供養に関してもほっぽらかして今日までやってきた。花を買える時もあるが買えない時もあり、毎日仏壇に茶と米を供えるなんて夢のまた夢、自堕落生活だ。

娘に先立たれ、祖父に先立たれた祖母は、毎朝神棚と仏壇にお供えをする。お茶を淹れて、ご飯を入れて、決まった言葉を唱える。(家族の名前と、どうぞお守りください、を添える。)私は幼い頃夏休みにその祖母にくっついてその手伝いをするのが好きだった。それは当時茶を入れることに凝っていた、だとか、お手伝いしたい年頃だった、とかもあるのだと思うけれど、振り返ってみるとかなり整った生活ができていたからだと思う。

ひとりで大分の一軒家に住む祖母がいる。祖父が亡くなった時、私は彼女がこのまま生活をやっていけないのではないかと思った。だけど、きちんと掃除をして、メイクをして、食事をして生活している。祖母が以前ポロっと「私にお仏壇を守れってことかねぇ」と言ったことを思い出す。祖母は、仏壇を守ることによって生きていた。それまで愛しいと思ってきた人たちのことを思って、仏壇を守るということが、彼女自身の生活を作っていたのだ。

 

それを思うと、自分がこれまで放っていて「いつも十分に供養できず母に申し訳ない」と思っていた仏壇に対して、「ああ、これは自分が大事にされたたということを確認するため、自分のためにやることだな、私のエゴですがあなたの思い出とあなたがいたことをお借りします」と思って、埃をかぶっていた仏壇を拭き上げる。不思議と掃除が楽しくなってくる。

「ええっと、本当は毎朝ご飯とお茶を供えて…うち毎朝ご飯炊かないからなー、お花もいるんだよな…」などと考えるうちに、「ウワッ」と思う。

そうだ、同居人が亡くなった時、その人は食事から乱れていく、掃除ができなくなっていく、そして人と繋がれなくなっていく。毎朝ご飯を供えるというシステムがあることによって、その人は朝、故人のためにご飯を炊くことになる。茶を入れることになる。仏壇をきれいにしようと思う。花を飾るようになる。手を合わせて誰かを大事に思うことになる。その気持ちは多分何もない人より遥かにメンタルにいい影響をもたらしている。

自分の大事な人に見守ってもらって生きるということは、生活に張り合いが出る。Twitterキーエンスの社員が分刻みで営業のアポと移動を書いて報告させられてる、車載カメラで監視されてるといった話を見かけたが、私はそんなものはパノプティコンディストピアだと思う。でも、誰かに適度に見られているということは、生活をきちんと送る上で大事だとも思う。いいじゃん、仏壇。仏壇パノプティコン、かなりいい。私の心の中における監視社会は、誰かに搾取されることもない。愛しいと思う人間に恥じないように生きようという張り合いってとっても素敵かもしれない。と思うわけだ。

 

もちろん血縁が全てではないが先祖に対して手を合わせることは、先祖が主役なのではなく、「自分が今ここにいる」ということにリスペクトを払えるというのが実の目的なのではないだろうか。自分の存在ために念じるのは難しい、自分が存在するに至った経緯にリスペクトを払うことで自分が生きやすくなる。なんでも自分のためである。もちろん縛りになるような先祖観は捨ててもいいと思うが。〇〇家の血統みたいなのとか、一家の恥などで誰かがハブられたり、誰かの人生を邪魔してしまうような類のものはいらない。

 

供養には、いなくなった人の力を借りて、今生きている人の生活を前に進める機能があると思う。私も幼い頃の楽しかった生活を思い出して、実家での暮らしをかなり良くできる気がしてきた。我が家の楽しい記憶は、やっぱり存在していたのだから。再現して自分なりの工夫を加えて生きていく。多分数多の慣習は「やったらいい感じだった」で続いてるのだと思う。それがどこからか目的と手段が反対になり、「やらなくてはならないもの」「やらないと責められるべきもの」「白い目で見られるもの」になってゆくのだ。いなくなった人のことを思って、朝ごはんを炊かせるための仕組みやっぱりすごいと思う。残された人の生活を回すための素晴らしいアイデアだ。その原動力になるのは、それぞれの心の中にある「故人がいた思い出」であるとしたら、存在しなくなったはずの概念が紛れもなく現実を動かしている。ああ、これは、有る(いる)、ということだ。と、思ったりする。

 

面倒と思えば全てが面倒くさい、ただ、法事のお返し今はこんな可愛いのもあるんだ〜、と思いながらお気に入りの雑貨屋で、従姉妹の家に送るふきんやお茶を眺める。「ちょっと疎遠になっていたけど、良い距離感でまたご縁ができるといいな」と考えたりする。

 

親戚活動総解散もアリだが、たまにフェスくらいはいいんじゃないかと思う。誰か(例えば長男の嫁)が我慢をしているなら改善をすればいいし、人と会うのが嫌なら気軽に欠席できる方がいい。やべーメンバーはちゃんと諌められた方がいい。ゆるやかな形でゆるやかな距離感でゆるやかに残ればいい。

 

仏壇に茶を添え、手を合わせる日常をしばらく送ってみようと思う。昨日の夜、家族で昔よく行ったイタリアンに行ったら閉店していた。イカ墨のリゾットが美味しかったから今度自分で作ってみようと思う。幸せな記憶は多分生きることを何度でも楽しくする作用があるのかもしれない。