美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

群馬に行き、極めて好きなことを極めて好きでいようと思った

 

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大学時代の友人が群馬の実家にいるというので、当時から仲良くしてくれている友人たちで遊びに行った。うち1名は前日から全く連絡がつかなくなり、結局来なかったが、そういうこともある。数年ぶりに直接会う群馬の友人は、楽しみな気持ちが前のめりになってしまったようで、私たちが着く1時間以上も前から高崎駅で待っていて、出迎えてくれた。そして、彼が好きだという地元のパスタ屋に行く。店が、かなりいい佇まいだった。

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屋根はどう見てもイタリアン向きの風情ではない、居抜きらしき建物がいい。楽しくて、肝心のパスタの写真は撮り忘れた。スモークサーモンのパスタを食べた。友人は年が明けてからもう8回もこのパスタ屋に来ている、と語っていた。いろいろと前のめりなことは前述した待ち合わせのくだりから伝わるだろうが、完全に狂っていた。

 

それから次の行き場所を決める。ノープランの遠出だった。するとその群馬の友人が、「俺が告白した場所をみんなに見て欲しい。」と切り出し、山の途中の高台に連れていきたい、と私たちを誘った。最近彼女ができたらしいのだけど、その場所を見て欲しいのだという。確かに見晴らしの良いスポットで一般的な観光地ではあるが、かなり個人的な思い出のあるスポットである。それが、面白かった。私たちは思わず笑いながら「いいよ!いこう。」と言って告白スポットへと向かった。群馬の名所である。彼が告白したという高台とそこに並ぶベンチの景色はさながら高崎のララランドだった。

互いの近況をおしゃべりしながら、彼がタバコに火をつける。灰皿として、高台の柵の部分に雑に針金で括り付けられ、原型の留めていないヨックモックの缶がぶらさがっていてウケた。もう一人の東京から来た友人は持ってきたデジカメで高台から一望できる高崎の景色をおさめていた。

 

あまりの寒さに車内に戻り次の行先を練る。「国道沿いのファミレスとかでもいいよ。」という東京から一緒に来た友人の一言が良かった。「国道沿いのファミレス」という言葉は、やはり声に出して読みたい。90年代のJ-popみがある。

 

国道沿いのガストに行って、アイスを食べて、ポテトを齧った。学生時代の情景の延長のようだった。東京から来た友人に昨年兄弟でチャレンジしたという富士登山の思い出を聞き、普段劇場に足を運び映画もたくさん見ているという話を聞いた。JAIHOというマイナーだが愛を感じる配信サイトのことも知ることができた。群馬の友人は最近草野球を始めたこと、彼女のことをさん付けで呼んでいること、ジェラピケを買っていったら喜んでくれたことを、楽しそうに話してくれた。

 

私はそういうことがとてもうれしかった。自分がいるべき場所とか、関わっていて安心する人たちのことを久しぶりに思い出した。どんな生き方をしていても、今どういう状況にあっても、互いに何かを当て嵌めたりすることなく、今自分が好きなことや次にやってみたいことをやわらかに受け取り合える人たちがいることが暖かかった。あまり多くのことや外側のことを求めなくてもよかったのだ。自分の内側にもう好きなことややりたいことや続けていることは決まっていて、変わっていくこともありながら、でも軸の部分はみんなあまり変わってなくて、それをそのまま生きることしかできないのだ。ちょっとずつ新しい興味に手を伸ばしながら、私たちは私たちをやっていくことしかできないのだ。

 

変わってゆくけど、変わらないことの方も際立った日だった。

 

それから古い映画館を改築したカフェに行った。f:id:toyopuri:20220116022249j:image
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いわゆるレジャーらしいレジャーはせず、ずっと何かを食べたり飲んだりしゃべったりの連続だったが、それがいつも通りな感じで楽しかった。高崎には「高チャリ」と呼ばれる100円で借りられる自転車があるが、使っていい範囲を大幅にオーバーして放置されたりなどしている話。帰省の時にちょっと値の張る駅弁を食べたら美味しかった話。やりたい仕事の話。きっとそんなに昔と変わってないと思った。喫茶店を出て、最後にラーメンを食べて、東京まで電車に揺られて帰った。

 

普段思い切って遠出をすることとかはないのだが、この日は本当に出かけてよかったと思った。この日帰りで特に大きな何かを「した」というわけではないけど、全体を含めるとなにか大きな「した」があった。

帰りの電車でも、カメラの使い方や、ウイスキーの種類がたくさんあることを知って、日常の中に新しい目線が加わったし、こういうことはインターネットに張り付いていたところで起こらないきっかけだと思った。

 

おいしいもの、たのしいもの、誰かの地元、思い出の場所、思い出の味、大切な人の話を聞くのが好きだった。自ら陳腐でわかりやすいように誰かに売り込まなくても大丈夫なのだと思った。自分の解像度を落として損をするのは自分なのだ。

自分の好きな地味なことが、伝わらないのではないかと外界の理解力や感性をナメて、生きることの質を落とすのは自分なのだと思った。

極めて好きなことを、極めて好きでいれば、相手が最初はそれを十分にわからなくても面白い。肝心なのは本人がそれを心から面白い、好きだ、と思っているかどうかだ。

会ったことはないけどその名スポットで告白された、さん付けで呼ばれている彼女のこと。

私がボーッとベッドでスマホをいじっている間にこの東京でたくさん上映されている映画の数々のこと。

いろんな人生がパラレルに進んでいるが、それを垣間見せてもらえることが嬉しかった。そして私はこの友人たちのパラレルの人生に非常に関心があって、それらがたまに交錯したり、ダイジェストを見せてもらえたりすることをとてもありがたいと思っている。

 

行きたいお店や、やりたいことが増えた。思い出の場所もできた。あと私が何をしてようと何をやめようと、何を続けようと、ほんとーに変わらない関係性があることを改めて感じた。私は自分の中の解像度の高さについて逃げないで、なるべく自分の中の質を高めて、生きていようと思った。

 

今まではそれをしてひとりになってしまうことが怖くて何かにのめり込んだり、潜ってしまうことが恐ろしかったのだ。でもきっと、その眼でちゃんと見たものの良さを話したい人がいる。これくらいの方がわかりやすいだろうと思って舐めプして起こった出来事を見せたり話したりするのには、あまりにももったいない、もっとちゃんと話せる人間が沢山いる。極めて好きなことを、極めて好きでいよう。面白いと思ったことをもっとちゃんと面白がろう。自分の中のやってみたいことをちゃんとやってみよう。良い場所やいい食べ物は共有しよう。

 

自分に合う場所で生きていれば、変わらない軸を持っていれば、何があっても大丈夫だと思った。