美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

ふたたび 美人ブログ

今日会った友人に、「あなたの書いた文章でいちばん好きだったのは美人ブログです。」と言われて、その気になったので、熱量の続くうちにしたためようと思う。最初の方のエントリを読んで、このブログを書くときはいつもお酒を読んでいたことを思い出す。今夜もよく飲んでしまった。彼女は「なんか、私は、あなたと会う時、ものすごく酔っ払ってしまうんです。」と言い、私は「私もそう!あなたと会う時しか酔っ払えないんですよ。」なんて言って、結局今夜もたっぷり話して、気持ち良く酔っている。生き方とか、家族のこととか、今の自分を形成した過去の体験についてとか、そういうことを率直に話せる友達がいることはいいことだなと思う。

 

嘘や欺瞞に満ちたことはきちんと指摘し、実直に向き合う友人が放ってくれる言葉は、まっすぐ受け取りたいと思うものだ。私も、私が書いたものの中で1番好きなのは美人ブログである。

 

今年の春から週イチで、お酒を出すお店にママとして立っているのだけど、昨日はそこに、また上記の友人とは別の友人が後輩と一緒に来てくれて、私のことをその後輩に「美人ちゃんは結局、好きなことしかできないタイプだしどうせ続かない。だけど、文章書けたりする。」と紹介してくれて、「まったくもってそうです!」と思ったりした。自分のできないところや、ムラッ気や、半端さも知っていて、自分を気にかけてくれる人がいるってのはありがたい。変に盛って褒められるより、なかなか言ってもらえないことだよ、と思うのだった。

 

このブログの初めて書いたエントリから、もう5年も経っているらしい。びっくりした。かつてこのブログを書いていた頃は、5年もしたらもうちょい、色んな意味でなんとかなってるかと思ったけど、結局このブログも放置しっぱなしで、ライターとして何かになることもなく、普通に5年が経った。

 

そういえば、最近「エヴァンゲリオンを見よう」と14歳の時に思ってからもう10年も放置している事実に最近気がついてびっくりした。こうしてあっという間に10年がまた経って、死んでしまうのかもしれない。時って怖いけど、その10年にあったことをちゃんと振り返ってみると愛しいものだ。

 

ブログをコツコツと続けることはできなかったけど、あの頃書いていたようなテーマは変わらずずっと気になっているし、あの頃「こじらせ」ていたことは、あらかたちゃんと勝負をしてカタをつけてきたと思う。というかそんなことをいちいちつぶしていたから、大人になれずに、自分のやり残したチェックリストを埋めることにしか興味を持てない。

 

ぬりつぶしながら、少しずつ先に進むこと、をやっている。最近やっと、自分がずっと気になってきたことの正体がわかるようになってきた。そして、そのことを何らかの形で残したいと思うようになった。

 

やったことなかったけど、やってみたかったことをバカ正直にぜんぶやって、結局、この世にルールなどないこと、正解がないこと、だからこそ自分にしっくり来ることを続けるしかないんだなあという、シンプルな答えにたどり着く。混沌と秩序の難しさについて。私は秩序と倫理を愛しているのに、頭の中と感情と行動は大抵混沌としている。行き当たりばったりの即興性と、確立されたスタイル、後者が欲しくて最近は研鑽中である。

 

この文章は、かつて私のブログを読んでくれていた人たちを想像しながら書いているんだけど、結局私が「読んでもらいたい」と思う人を選んで書いているわけで、それ以外の人たちにはどうせこんなことを書いても読み取ってもらえないだろうとハナからあてにしてない。だけどそうやって、読まれる層を想定して書いたものの方が1番広く深く多くの人に伝わったりするのだけど。

 

でも、最初から大勢の人を想定すると、うまく書けなくなる。だからといって、自分一人で内言を書くことは苦手である。こう、書いたものを読まれたらめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど、この人たちならわかってくれるかもしれないし…という一種の「賭け」のような気持ちでチラリと、ソッと出したいと思うような、「秘密の自分」こそ、自分が実のところで大事にしたいと思う自分なのかもしれない。思ったより出せる範囲が狭く、脆く、消えやすいこの美人ブログの人格を守るためにはどうすれば良いのだろうかと思う。

 

このブログの記事が好き、と言ってくれた、ちょっと普段付き合っている縁から遠い人たちとも、結局ここで書いている時と同じ深さの話をして仲良くなれるかはまた別だったりするから。

 

自分が心の内側を書いて、その内面を持つ者として丁寧に扱ってくれる人々のことを、私はとても大事にしていたことを思い出す。私が陳腐なことを言おうとしたら止めてくれる人たちのことを、私が料理を振る舞えば「美味しかったよ!」と声をかけてくれた人たちのことを思い出す。

 

自分の全てを書いていいと思えるくらいに信用できる人はそう多くないことを意識することがある。読んでもらっても、陳腐な受け取り方をされると本当に腹が立つ。それに、ここのブログ以外のメディアで書く文章にはあんまり魂が宿らないのだった。焦りと虚栄心から、空回りの野心を出して、「美人」の名前で他のメディアにエッセイ書いてたりしたけど、やっぱりうまくいかなかった。ここに書いているものは、売りに出すものでもないんだと思った。伝えたいと思う自分がいる場所の方が掲載する媒体として大事だと思う。

 

誰にも消費されない自分、みたいなのがずっとここにいた。誰にも譲り渡したくない自分、がずっとここにいた。人との関わりにおいて妥協できない人たちといた日々のことを思い出したりするのだった。安易に言葉にすることへの畏れや、その場を便利にやり過ごそうとしたことがしっかりはっきり見透かされてしまう人たちとの時間は、ヒリつくほどに贅沢で愛しくて、私を変えてくれたと思う。

 

小手先の理由づけじゃ通じない真摯な生き方ってなんですかね?とか思う。こんな感じならうまく行くんじゃない?みたいな舐めプじゃない生き方って何なんですかね?と思ったりする。結局自分の欲をまっすぐ受け入れることが怖くて、嘘をついているだけなのはよくない。

 

嘘が通じない人たちの中にいたときの自分を思い出したくて、ここにまた何かを綴りたくなった。だって、私はここにいた私がものすごく好きだったし、その後もそれを超えることはなかった。あの時自分にとってものすごくハードルが高いと思っていたことは、今は笑っちゃうくらい簡単に通り抜けられるから、魂の課題は、ちゃんとクリアしていると思う。いいじゃないかと思う。合うこと合わないこといっぱい試して、結局残る場所がここだったなら、仕方ないよなあと思うのだ。

 

散文的なんだけど、ただ部屋でスマホで文字を打っているだけで腰のあたりから湧いてくるような、パワーを感じる。このブログを書いている時に「調子いいな」と思う時の、「自分の言葉に嘘なく書けているな」というときの独特の感覚。それが今ちゃんとある。人に「ここに書いていることは伝わるかも」と思えるような希望を感じられる、不思議な予感。それを思い出すのだ。

 

このブログに恥じない生き方がしたいな、と思う。欺瞞への感度が高い友人を持っているのは、心地の良い畏れと緊張感をもたらす。本当に今やってること、本当にいいと思っている?あの頃の美人ちゃんにちゃんと偽りなくやれている?

 

今、やるべきことは心の中でわかっているから、淡々と進める。この週末は初めて学会へ行く。

この前、本当はずっと扱いたかったけど、する必要のない打算で、避けてしまった研究テーマを、本当はメインで扱いたいと発表して、教授に「美人さん、ひと山超えましたね。」と言われてものすごく嬉しかった。

 

最近始めた、食とものづくりに関わるお仕事も、自分にものすごく合っている感じがする。ガラス張りの大きな窓から太陽の光が差し込む場所で働けるのがただただ嬉しくて楽しくて、外の天気がわかるような空間で1日を過ごすことが自分にとって、ものすごく大切なんだなと思ったりする。

 

帰納法的な生き方しかできない、体験したことや、「違う」と思えることを見つけてからしか、大事なものを見つけられない。でもまあそれでいいじゃん、と思ったりする。膨大な「なんか違う」の中から、「ここはしっくり!」のポイントが、見えて来たりしたのだ。

 

残念ながら、頭でっかちになってこうした方が格好がいいんじゃないかみたいなことには、体も心も追いつかないのだった。小賢しくなったって、ちっぽけな私には出来ることが限られているため、愚直にできることやるしかないのよな〜と思う。

 

本当は、 何より大事だと思っていること、慈しまないとね。だってもう知ってるのにさ。捨てたらもったいない。一生懸命やりたいこと、本当は決まってたのにそこから逃げてしまったからな。自分の欲に向き合うのが1番しんどいなー。

 

大人にも美人にもなれないまま、でも前よりは自分と仲良くなれたような気持ちの5年目の美人ブログ、よろしくお願いします。