美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

徹夜をするために眠る。

 

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最近お気に入りの飲み場所にしているところがある。前に会った客の1人で、また話したいなと思ってた人とまた会えた。

 

そこのお店の雰囲気やコンセプトもあって、普段、私がこういうところ(ブログ)で話しているようなことが話せる。

 

人の受け入れられなさ、どうしようもなさ、いたたまれなさの中に一緒にいてくれる人たちがいて、私はそれがうれしい。

 

それで、前にお店であった人がこう言ってくれた!

 

「美人さんは、人間に対する解像度が異常なんですよ!人間って近くで見たら顔に細菌とかいるんですよ!それが見えちゃってる!!!!!!!見えちゃってるから、たじろぐんですよ。多くの人は。でも、それの面倒を見ようとしているんですよ。」

 

「まぁ、汚れ、見えてますからね、見えたら掃除しないと…」

 

「その上、美人さんはOSがプリキュアおジャ魔女の世界観で、ベースが浄化前提になっているから、細菌がよりおぞましく見えてるはずなんですよ!でも、その掃除をしようとしている。菩薩すら感じる。」

 

と、まで言ってくれてまじで晴れやかになった。(仏教研究に最近興味持ってるらしくて、どうしようもないものを見た時の南無阿弥陀仏に変わるものが欲しいよねって話を以前してくれた。)

 

ひとえに私が気持ちよくなれること、気持ちよく話せることは相手の心の綺麗さのおかげ!

 

私はよく「優しすぎる」とか、「考えすぎる」とか言われる。それを、私の人に対する解像度の高さと、自分に備わっている理想的なありようとのギャップを埋めようとする姿勢だと言葉にしてくれたことと、敬意と応援をくれたことが心の底から嬉しかった。人の言葉と理解の中にいることが居場所なのかもしれない。敬意は1番の心の栄養だ。

 

見えすぎることは、諸刃の剣である。その後もいろんな話をしたけど…。

 

「ケアできるってことはたぶん相手の急所がわかるってこと。」

「つまり、攻撃しようとすればできるということ。」

「生殺与奪の力をこちらが持っているという、暴力性があるかも。」

みたいな話もした。

 

とか。私は昔大学に入りたての頃、フォロワーを褒めるみたいなハッシュタグが流行っていた時に、便乗したら、あるフォロワーに「美人は、人が褒められて気持ちいいところをわかっているね。」と言われて怖くなった。これ、広義の『人間失格』で、竹一の耳そうじをした時に「お前は、きっと、女にほれられるよ」と言い当てられた時のやつだよね。怖いわー。他者。

 

頂き女子りりちゃんのマニュアルは、読むと無意識のうちに、自分の中に取り込んでしまいそうな感じがして、怖いので読むことはないでしょう。でも、人は人のためになりたいと思っているし、思い出が欲しいと思ってるし、必要とされたいと思っているんだよな。りりちゃんが魔法少女を名乗っていたことを、他人事とは思えない自分がいるし、りりちゃんが愛されたかったから自分がして欲しかったことをやったわけだけど、あれだけのお金を集めるのは、それだけの絶対値分の埋めたかった心の距離があったということだろうな。

 

私は自分の中に虚しさがあるから、人の中の虚しさが見えるのかもしれない。目に見えないものを感じるのは、私が同じだけの引力で同じようなコンプレックスとか、いたたまれなさを感じるからだと思う。この前、発達障害(作中では言及されてないが)の男の子たちを題材にした『君と宇宙を歩くために』という漫画の冒頭を読んだ。

 

 

マンガ大賞2024」を受賞したこの作品の中に、何をやってもすこし人とずれてしまう主人公の男の子が、家に帰ってから、1人で大泣きするシーンがあり、私はページをめくる手を止めてしまった。「私、知ってる。」こういう虚しさを知っている。私にもある。そして、私がかつて接した男の子たちが話していたことを思い出す。

 

忘れられない。地方の少人数の学校で育った彼らは、皆と同じではない、という理由で、今では使われていない薬を処方されたり、村の外れの施設に送られそうになったと言っていた。彼らはそれぞれ、名門大学に進学し、十分な知性を持っていたけれど、人ができることができないという理由で、端に追いやられた時の苦しさを聞いた時のことが、私は忘れられないのだった。だからこの漫画の中で、主人公の男の子の大きな目から、ぼろぼろと涙がこぼれる描写を見ると苦しくなった。「知っている」から。

 

「知っている」わけがない。私とあなたは別個体の人間で、それぞれが独立していて、同じ体験や同じ感覚を持つことはない。彼らから聞いた話だって、私の頭の中で積み上げた想像でしかない。漫画と彼らの人生なんて、関係ないと思う。でも、私は「知っている」と思った。同情とか憐れみなのだろうか。違うな、悔しさだと思う。その悔しさが、きっと女の子よりもある側面においては男の子の方が大変なんだと思う。「泣く時は家に帰ってからにしている」というその漫画の中のセリフが忘れられないのだった。思うままにならない身体、自分が自分であることのいたたまれなさを、全て抱きしめたいと思う時がある。多分私にとっての愛ってそういうものみたい。それが多分、悪いものも寄せ付けているが。悔しさを、わかるって思いたいんだよな。なんなんだ、この気持ち。いたたまれないくらい、愛。慈愛かなぁ。でも、頑張ってるから涙がこぼれるんだよな。悔しくなくなったら、人生終わりだよな、と思ったりもする。でも、なんとなく、男の子が感じるいたたまれなさとか不恰好さの方が、自分の中に感じやすいものかもしれない。

 

ああ、そのお店の店主が「格好つけてる人のガワを脱がせて中身を出したいと思うのは自分がそうされたいことの裏返し。」というようなことを言っていて、あまりに良かった。テンションが上がっていたら、「美人さんは、格好つけてる人の中身をひん剥いて、けちょんけちょんに抱きしめようとしてますよね?」と言われたことがあり、ど直球すぎて怖くなった。私が幼少のころ「心をあてないで!」と親に反論したことが我が家では語り草になっているが、本当に美人ちゃんは昔から冴えてんな。「心をあてないで!」すぎる。

 

自分の中にあるものは、他人の中にも見える。「他人のことなんてわかんないから、そんなに干渉したらダメだよ」というやりとりを友達とLINEでしたばかりなのに。私には「見える!」という傲慢さの方が依然優勢である。見えてまーす👀🌟

 

10割はない、ただ、7〜8割はある。そしてそれが2〜3割に過ぎないという謙虚さと現実。なんかさ、気持ち悪さもあるけど、人にちゃんと言い当てられると、気持ちいいときない?私はあるよ。インモラルなことが気持ちいいことなんてたくさんあるじゃん!私には私の得意分野があるんだから許してよ!と思う。

 

「他人の考えていることなんてわからない」よりと、今日言われた「解像度高すぎて、見えてはいけないものまで見えている」の方が、しっくりくる。わからないこともある。でもわかることもある。というか、支配的になることもあるけどわかりたいと思っている。逃げてくれ。

 

虫が大好きで昆虫のことばかり調べて気になっている人は責められないのに、私が責められたらおかしいだろ!まあ、他者だからね、非常ににデリケートに扱わなきゃいけないんだけど。でも、本当は言い当て合える関係性があれば、ドキドキすると思う。本当はそれがやりたい。私の見えてるもの全てで、人と対峙してみたいと心の底では思っている。これは、ボーナスステージ編ですね。日常でやったらダメみたい。心の殴り合いがしたい。

 

ぼやけた視界を矯正するメガネはあるが、くっきりと見えているものの、解像度を落とす方法はあるのだろうか。相手が見て欲しくないものまで見えてたり、見た気になってるというのもあまりよくない。服を着ている人間の下着を妄想するくらい、下世話である。

 

それから、私とそのお客さんとで、

「相手を知ることって、結局めちゃくちゃエロくないですか」と、いう話題でひとしきり盛り上がってしまった。

 

相手の内面に踏み込むという、その急所を握り合うという関係は肉薄していて、極めて、恥ずかしい。それはとても、エロいと思う。

「エロいのって、いわゆる、夜の大運動だけじゃないですからね…。」と先方が言ってたけど、本当に心をどこまで、裸にできるかと、身体を裸にできるかという話は割と同列で語っても良いよな。私が自分の心に話しかけてくれると思う人の文章は、往々にしてAVと縁があるんだよな。雨宮まみ(AVライター)も、戸田真琴(元AV女優)もそうだ。心と心を肉薄させることは、やっぱりリスクもあるけど、だから気持ちがいいのかもしれない。

 

以前、友達がおすすめしてたエロ漫画の帯に「ココロとカラダの契を結ぶ」と書いてあったけど、あれ、名コピーだなと、よく思い出す。

 

多分、多くの人は日常生活で、心の中身を見せ合うことをそんなに重んじていないのだろう。そして、多くの場合性が夜の領域に押し込められてるのと同じくらい、心の領域もまた、あえて開けるべきものでもない。でも私は見たいし見せたい。

 

「きちんと服を着ていかなきゃいけない場所で、常に服をちゃんと着てない人はどうかしているのに、ガーターまで履いて突入しようとするような、得体の知れない感じに、自分がなっているのはうっすら気がついている。」

 

という話をしたら、「露出狂ですから!頑張ってください!」と言われて笑ってしまった。たぶん、ゾーニング関係なく、心と心のぶつかり合いを誰からかまわずしようとするため、ちょっと様子がおかしい人になっているという自覚はあったが、人間というのは名前がつくと落ち着く生き物なのである。本当に。

 

私は心をこれだけ見せたけどそちらはどれだけ見せてくれるんですか?どれくらい私の小ささや虚しさやずるさやいたたまれなさや格好の悪さを見てくれるの?みたいな、なんかそういうハードな殴り合いを求めていて、これもまた最近友達に言われた「格闘技はリング上でやらないとダメなんだよ。」という言葉を思い出すのだった。

 

これだけ書けば、今夜の楽しさはひとしおに伝わったと思うのですが、もうひとつ話題があって。いわゆる清濁合わせ呑む、みたいな。アガペーと、リビドーみたいなものって、太極図☯️のようになっている、という話が出て。どちらか片方でもうまくいかない、というのを、芥川龍之介が『河童』の中で書いているという。

 

私は清濁を合わせ呑めない。距離感を間違えては、アレルギーを起こし、絶叫してしまう。でも、今日私が本当にしたい会話をできる場所がある、と思うと、「自分とは違う世界観の登場人物」として少し距離を保てるようになる。たぶん、心の奥行きの絶対値が広がると、受け入れられるものが増えるということなんだと思うな。逆に言えば私は「濁の仕事」みたいなえぐみのあることができないし。でも、そういうものが回してる部分は大きいと思うし、居心地の良い世界も人それぞれだ。

 

私は自分がしてきたことを、俯瞰した位置から見てもらって、その上で「尊敬している」と「応援している」という言葉をもらって本当に嬉しかった。ひとえにそれは、その言葉を言ってくれた人たちの心の美しさを借りてのことなんだけど。

 

誰かを救うためとか、アウェーに乗り込むためには、相手に取り込まれないだけの幸せを自分が持ってなければいけない、と、言ってくれた。

 

徹夜するために、寝る必要がある、とその人が言った。心の中が聖じゃないと、キャパが狭くなる。引きずられなくていいから、私は私の幸せを全うしていればいいようだった。

 

まだ魔法少女でいられるっぽいな。変身しても、脱いでても、異形である。それで結構。やり合おうや。が、私の答えだわ。