美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

鋭利にさせられてしまった

忘れかけてたし、もう忘れようと思っていた感情だったのに、さっき、更新されていた、あまりにも内面すぎるブログを読んでしまったから、自分に嘘がつけなくなってしまった。

 

そういう書き手やアーティストは今までにも何人かいたが、変わっていってえぐるものが失われてしまったり、本人がこの世から去ったりしてしまったので、私には拠り所がなく、基本的に発狂している。

 

そんなものは私が拠り所を探していないからで、この世には文章も音楽も映像も無限にあるのだから見つけにいけばいい。でも、過去のものは嫌で、今同じ時代に同じ時間を生きている人の痛烈で内面を切り裂くような言葉を目にした時に私は背筋が伸びて、凛として生きることが馬鹿らしくないよなと思えるようになる。

 

そんな言葉を綴ってくれる他者がいることに縋り付きながら生きている。周りにいてくれる人よりも、何年も一緒にいる人よりも身近に感じるような、一瞬で何かに勝利してしまうような、会心の一撃みたいな、文章に出会ってぶちのめされたい。

 

そういうものを見た時の私は、自分の頬が緩むのを感じる。初めて志磨遼平見た時そういう顔をしていたので、私は志磨遼平を見た時の顔をしちゃうものは、嘘偽りなく美しいものだと思っている。いい文章を書ける時には、フリック入力が指先と繋がる感覚が存在する。

 

そしてその感覚が今である。いちばんだいじなものを見せてもらったお礼にこちらも同じだけ切り出さなければと思う。そういう極上の反応みたいなものを欲していてどこまでそれができるかをためしてみたいとおもっている。

 

だから、嘘をついたことを詫びるような本当のブログが好きだ。人は何かしら嘘をつきながら生きており、その嘘にどれだけ敏感であれるかが、生きることの質を上げると思う。そのことはとても美しいと思う。怠惰にならずそのことを辞めたくないと思う。自分の嘘に嘘だと言い続けること以外、誠実である方法はないと思う。人は嘘をつく。そしてそれに敏感であるべきだと思う。

 

心の奥底を抱きしめられるような感覚を思い出すし、たまらない気持ちになる。ここにいるという感覚がたしかにある。そういう文章を読むと生きててよかったと思う。ブログは人格だと思っており、書く文章がその人だと思う、私は、鋭利な優しさがある人が好きだ。

 

鋭利であることは知性である。明瞭である。ハッキリとしている、ハッキリとしているものは美しい。自分が自分になる感覚がある。

 

この人の言葉があれば、他のはいらない!と思うような文が私には必要で、今までそう思えたような文章を書く人は3〜4人くらいしかいないんだけど、それは私が読書をしてきた量があまりに少ないからかもしれない。

 

自分が孤独であるということを忘れて、自分の世界に初めて他者の自我が存在したような喜びをくれる人はそう多くはないから記憶に残る。それはもはや私の中で息苦しいほどの感激を誘う。自分を見て欲しい、自分の生は特別だと主張しまくる、痛々しいほどに美しい文が私は好きだ。たくさんある文章の中で、ここに自分がいると叫んでいるような文章が好きだ。惹きつけられる。

 

そういうものを見られて今日は良かったという話。もっともっと言語化が上手くなりたい。痛切であることは面倒なんだけど妥協したくないなと思う。理性と感性の狭間で揺れ動く文が好きだ。また読みたいと思うんだ。なんのために書いてるんだとそのブログには書いてあったけど、私はずっと書いて欲しいと切実に思っている。全くの他人だけど、ただその人が書くことを求めている自分がおり、辞めないで欲しいなと思う。欲しいものや見たいものや近づきたいものに容赦がないけれど、欲しいものを欲しいと言わなくてなくなってしまったらどうしようと思うのだ。

 

ずっと痛切でありたいと思う。自分に嘘をつかないのは大変だけど、辞めずにいたい、自分の欲とか嘘くささとか妥協に誠実にありたい思ったんだよな、心にめっちゃ近くにありたい。その自我を保ち続けるのは大変だと思うけどずっと待ってて欲しいという気持ちを押し付けることしかできない。圧だけど。でも書き続けて欲しいって、生きてて欲しいって願いに近いな、ずっとそこにいて欲しいと思える人の数で、豊かさって決まるのかもと思った。誰かが書いてくれることがありがたい。

 

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