美人ブログ

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オリーブ少女ライフだったのに、スチェンカ

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インターネットの勃興により、私たちは自分の心の中の秘密の存在を、わからなくしてしまったのではないかと思う。以前友人が書いた文に、「死」という言葉がなくなりかけた世界についての虚構が描かれていたが、あながち遠くない未来なのだろうなと思う。

 

心の中にある優越や、自分の中のさもしさや、浅はかさ、他者に対する見下し。それだけが人間の全てではないけど、それがないことにすると心の奥行きが失われてしまうのではないかと思った。『オリーブ少女ライフ』は、当時雑誌オリーブの愛読者で、その後連載も担当した山崎まどかの青春回顧録だ。

 

友達の好きだった先輩のことをすっかり忘れて、その先輩に告白されたけど対して興味ない、みたいなことを言ってしまって女子に糾弾されて「この茶番が面倒だ」。と思ったり、その先輩にそれを伝えたら「結局誰かは傷つくんだよ。」と言われたり。その先輩と付き合ってみれば安っぽいドラマを押し付けてきて、なんだか全部が陳腐で嫌になったり、山崎まどかが中学生の時に思っていたような『オリーブ』の作った虚構の国は壊れていった。そして、早くここではないところにいきたいと思うティーンの頃の感情が書いていた。

 

そうだよな。人にはいろんな感情がある。あ、ここはなんとなく負けの香りが漂う、この子と一緒にいると私は大学受験に失敗する、と思った人と距離を置いた。

 

普通に他者を傷つけないようにごまかしできたけど。これは最近思うんだけどさ、他者は私によって傷つけることが可能であるという傲慢さでもあるんだよな。尊大すぎる。

 

私はやっぱりみうらじゅんの『やりにげ』で、最後に解説を書くことを許された内田春菊を。勝ち組顔でM-1王者のくるまと一緒に表紙を飾るサーヤを格好いいと思う。

 

私はそれにしか興味がないということだ。人の目標はどこにあっていいけど、私の目標はそこにある。自分が語る場所を持たせてもらえること。なるべく本当のことを言えること。

 

私がスワイプで誰かに「ナシ」とされるように、私も「アリ」と「ナシ」を持っていく。修羅をやるのだ。面白くないもんは面白くない。面白いもんは面白い。

 

やっぱり、カルチャー的に才能がある人以外のことを私はどうでもいいと思っている。そして私もどうでもいいと人に思われてる。それでいい。その方が気持ちいい。本気の殴り合い。

 

やっぱり書いてて思ったけど、インターネットと、本になるものって書けるの違うや。

 

人のことを陳腐だとか、私の方が面白いとか、私の方が才能あるなとか、くだらないな、と思うこととか全然あるし、そのことは丁寧に独白するように書けば一つの作品となる。だけど、多分今の感じだと、私が書いても何にも昇華できずただ人を傷つけることになると思う。

 

シビアさを書くための箱が私には必要で、そのシビアさと自分は向かい合うべきで、とりあえずそれがここではないことはわかっている。

 

私はどうしても心の中にある人のずるさとか、どうしても思ってしまうこととかを、怖がりながら書いているものが好きだ。ずーっとくだらないと思ってたことを、くだらねぇなぁ、という言葉でくくってしまえることをしばらく忘れていた。本の中にはあって、ネットの中からは消えている言葉。

 

祖父の葬式の時に会った、初めて顔を合わせるような親族たちのおしゃべりは、うっすらと病んだくだらない自慢と私から見て何一つ素敵と思えない場所であってくだらねぇなぁ、だし、全然好きでもないし、こういうものとは距離を置きたいと思っているし。

 

全然好きでもない年下の女の子が、上京して初めてマルチに引っかかった話も果てほどどうでも良かったし。つまんないんだよな。こうやって書くと、うっすら田舎をバカにしてるとか言われますけど、文化的じゃないし語り口も凡庸でつまんないから嫌いってだけだ。その方がフェアだろ!私はフェアに見てるからな!初めて遭遇したものをどう語るかって、結局その人の主観だからなー、話つまんなかったんだよな。

 

ホモソーシャルな会話は話にオチを求めてしまうのでよくない、というのを、よく私は指摘するが、残念ながら…つまらない話が本当に大嫌いなのだ。大罪と言ってもいい。

 

その代わり、私がラウンドワンに行った時に私の動きが人の足を引っ張ったとしたらそれを大罪という人がいてもいい。私はそこでは動きが珍妙でも許される人たちと行くから。

 

顔が悪い、身体が良くない、と冷遇されても仕方がない。その人の中ではそうだ。

 

私は自分がこれはガチという価値観を決めたい。ここだけはマジでボコボコにしたい。多分私は話の面白さやものの見方のプロになりたいんだなと思う。

 

面白い人はどこにいても面白い、その人が住んできた場所、初めて見た景色、遭遇したもの、その人の目を通すと、いいことも悪いことも全部面白い。そういうものが好きだ。それは、世間知らずさとか、生まれた場所に関係ないからな。

 

何がつまんなくて何が楽しいかに苛烈にならないと美学を追求できないし、自分をその価値観で常に刺し続けなきゃいけない。『ゴールデンカムイ』のスチェンカに準えて、フィールドでそういうことやっちゃいけないんだと友達に言われた。

 

「美人さんは金カムの岩息だから、認識を変えた方がいい」と言われた。私はオリーブ少女のつもりなのに岩息だった…。

 

 

・岩息は暴力を本気でコミュニケーションだと思い込んでいる。

 

・『もっとあなたが知りたい!』と言いながら素手でパンチを繰り出して、相手が凶器を取り出すと『分かり合えると思ったのに』と嘆いてその場から逃走する。

 

・熱々のサウナ(バーニャ)に人を監禁し殴り合いを強要

 

あーーーー…友達に指摘されてわかったんだが、私はかなり化け物寄りかもしれない。路上でファイトしちゃいけないんだ。

 

 

 

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もしかして、私、公園でサッカーできる少年たちにJリーガーが入ってきてボコボコにするみたいなことをやっている?それは、ダメだね。

 

上京したての女の子のマルチの話は、「あらー、初々しいなぁ」だし、祖父の葬儀の話は「いろんな人が集まってくれて嬉しいなぁ」である。真実は選べるのでスチェンカモードは、時と場所を選ぼう。

 

「オモコロ」って、「おもしろコロッセオ」の略なんだよな。