美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

何に傷つかが、何を大切にしたいかでしょ

 

 心の中で誰が好きでもいいんじゃないかと思う。

読み返したけど、たぶん、めちゃくちゃ好きなんだよな。殺傷力が強い。でも、今世で、今の社会常識の中ではどうやら悪いことだからなー。平安時代なら、ずっと和歌のやり取りしててもなんのお咎めもねーのに不公平だよな。

 

てか、好きだし、なにも求めないけど好き。これ以上近づくと明確に何かを傷つけてしまうから、もう連絡取らない。でも、好きだよ。心の中に充てる言葉に嘘をつくと自分の人生がどんどん嘘になっちゃうからな。やだなー、心の中に好きという確信があるという状態。でも、誤魔化してた時より晴れやかだな。ぜんぜん、叶わない恋とかでもなくて、明確に私がめっちゃ好きという自覚を持っていると、幸せなんだよな。心の中のお守りって、あるから、めちゃくちゃ好き!それって幻影なのかもなと思うけど。

 

「自分の感性で感じたことは間違ってない。美人さんは、自分の感性を信じられるようになったわけで。次はそれを証明するフェイズなんだよ。」

 

と言ってくれたことを思い出す。

 

私がこれから先何かをするたびに思い出すと思う。私のする行動にその言葉が、その出逢いが生きてるからなあ。今会ったら違うかもしれないし、1番美しい時間は続かないかもしれないけど、感性を信じることに、私は、保証が欲しい。別に、それが虚言でもいいんだよな。だまくらかされてもいいと思う!いや、そうなんだよな、この人にならだまくらかされてもいいと思う時に、たぶん惚れた弱み的なところがあるんだよな。だまくらかされてもいいや!ってなることが好きってことかもな。私にとっては。

 

私の文章がまあまあちゃんとしたメディアで掲載された時に、紹介のされ方がdisだったんだよな。傷ついたし、ムカついた。それで私が掲載元にキレたら、ちゃんと褒めてくれた。別に、懐深くも、器も大きもないが、尊厳を守ることにかけて超一流で、自分のことを宝物(欠けのある)だと信じてる人にしかできない言動が多かった。一緒に怒ってくれたしね。あの時泣き寝入りして、あのメディアに書き続けてても、合わなかったと思う。自分の尊厳を守ることが、人生の第一目標になってる。

 

あ、書きながら思ったけど、その人が自分のことを宝物みたいに扱うところが好きだった。こんなに自分のこと大事に思っていいんだ!!ってレベル。でも、自分のことを大事にしている人じゃないと思いつかないことを思いつく。自分をかけがえなく思うのは、他者をかけがえなく思うことと同義であり、だから一緒にいると楽しかったんだろうな。自分がかけがえのないことには根拠がない。それまで愛されてきたこと、だけでは足りない、信じるのには勇気がいる。でも、最後の最後で、この人、自分が大事なのを捨てられないんだろうなと思った。自分が大事なのを捨てられない男の人は、特に大変やなぁと思うんだけど、本人が、「自分がめっちゃ大切です」って存在で言い張ってるから仕方ないんだよな。

 

これは、恋じゃなくていいのかもな。本人に対する嫉妬と依存だ。私もそんなふうになりたかったんだよな。自分を大切に扱う勇気がなかったから、相手の価値観に依存した。一緒にいると自分も宝物になったような気分になるから。それは私はその人の勇気をかりてたことになるな。言語化と知性は力。やっぱ、盲目的な状態って、別に他者に対する好きじゃないのかもな。前半部、なんだったんだ?

 

すっごい大事なものをもらったんだよな。自分のこと宝物みたいに扱おうね、ってことやな。

 

わたしは自分のことを宝物みたいに扱うのが怖い。根拠がないからね。だからその人のことを好きなことにしてると、楽なんだよ。なんで特別なの?なんで自分のことがそんなに大事なの?って言われた時に答えられないんだよな。

 

やっぱり、その人と私のキーワードは「感性」であって、一緒に過ごした時間めっちゃ楽しかった。ひとつひとつ何か相談したり、言葉を選ぶ時に、感性に響いたかどうかを重視する。響いた瞬間、私は「泣いちゃう!」と言った。わからないんだけど、胸の奥の方がズドンとしてそれからゆらゆらと揺れて少し涙が滲む。それがクリティカルヒットの決定打なんだよな。たぶん、官能に近いものがあると思うんだよな。なんか不倫とかどーでも良くなってきたな。私は「泣いちゃう」があるかどうかを大事にしてて、あれがずっと欲しいよ。ま、感覚あるから1人でやればいいんだけどね。心の奥から腰のところに響く、「泣いちゃう!」。

 

感性って、身体性と一致してるんだよな。自分を異常なほど大事にしてて、自分が宝物である核心って、感性に敏感になることだ。感じることと痛みは大事だ。痛みは主体を思い出させると思う。この前生理痛で動けなくて発狂してた時、なんか自分の身体性のこと、久々に思い出したしな。身体的なものもそうだし、心もそうだ。なんか、傷つかない方がいいってのはある。失恋で傷つくのは、相手を自分の一部だと思っていたからで、たぶん境界線を重んじるなら、失恋で傷つくこと自体が間違いなんだと思う。

 

だけど、なんか、何にも傷つかなくなったら、何を失ったかもわからなくなる。何を失ったかわからなくなると、何が大事だったかもわからなくなる。私は痛みに対して目を逸らしたくないというマゾ的な欲がある。何が痛かったが私だから。何に痛みを感じるかが個性だ。

 

私は好きだった建物がなくなると痛みを感じるし、人が意地悪してると痛みを感じるし、人がコンプレックスを感じている時も痛みを感じるし、スキャンダラスなことも苦手である。事件は少ない方がいいし、恨みはなるべく買わない方がいいからな…。邪気って怖いから…運気的に…。

 

それらに痛みを感じると言うのは、結局のところ私の感性なんだよな…と思ったりして、「感性で感じたことは間違いじゃないんだよ」を頭の中で繰り返している。結局私がその人みたいになりたかったって話でしかないんだよな。その人もまあ私がこんだけ沼ってるってことは、本当に色んなスキャンダルが多い人でもあり、何かを一緒にやるにあたってリスク要因ではあったんだよな。やっぱりね、なるべく恨みは買わない方がいいのよ、シンプルに。好きだった好きだったと騒ぎ立てながら、この辺私冷静だからなー。

 

感性を信じること、自分を大事に扱うと、他の人を大事にできる行動や発想ができることを教えてもらった人だな。私めっちゃ影響受けたよ。私は私の「泣いちゃう」に正直に生きてたいなー、マジで好きだったので。

 

愛してたよー!🫶

あっ!忘れてた感覚!

そう、私、思ったんだよ。

周りの人が自分より頭が良くて、自我があって、自分の考えていることより遥かに、私と全く同じくらい考えてて、相手にも自我があって、自分が恥ずかしくなって口数が減るような感覚がたしかにあった。

 

人間の奥にちゃんと中身があって、自分が世界を色々見ているように、他の人も見ていて、緊張した。相手に自我があるって初めて思えた。相手が考えていることを待たなきゃって思って、こわくなる感覚。怖れ、畏怖。

そういうものを私は持っていた。その感覚を取り戻す。人が怖いけど、人に自我があって、私と同じくらい、もしくはそれ以上にちゃんと考えてて、ハラハラする。自分だけの世界じゃなかったと思うそういう感覚。

私はそれを知っている。

 

忘れたくない、と思う。

他人が頭良くて良かったって心から思って自分の小ささを知った時のことを思い出しながら電車に揺られている。

 

 

死ぬまでに見るVRをなるべく美しくすることに集中したい

最近ダイエットしたくてオートミール食べてる。友達がスーパーで安かったらいちごよく買ってるって言ってて、私もいちご買おうと思った。

 

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昨日は当たりの日だった。夕方から、人に声かけられた会行ってみて、夜は大学の頃の自主ゼミの飲み会だった。

 

夕方から行った会はどうやら、かつて何かしらしらのメディア業界とかの前線で活躍した方たちが集まってるらしく、みなさん年配の方が多い。私に声かけてくださった方は多分40〜50代の女性だったんだけど、6〜7人で、ざっくりこれから仕掛けたいこと?とか、話すらしい。初回なので概要は掴みきれなかったけど、多分自分との環境フィット度でいうと、かなり高い。

 

まず、場所に辿り着く前に、連れてってくれた女性に「今までどういうことをしたんですか?」と聞いたら「日活ロマンポルノが〜」と話してたので、(おっ、これは大丈夫そうだ)と思った。完全に信頼した。そして、たどり着いた会場は秀和レジデンスの一室!

 

秀和レジデンスというのはヴィンテージマンションで、さまざまな場所にあるマンションなのだが、その特徴的な青い屋根と、曲線を描くアイアンの窓枠(と呼べばいいのかな)に根強い人気があるのだ。(あ、今日当たりだ)と思った。

 

主催者のオフィスだというその一室は、内装が完全にカスタムされており、間接照明が、柔らかな光を生み出している。あ、既存の白っぽい光の蛍光灯を全部取り外してる。いい!廊下には、空撮された東京の大きな写真がかかり、それほど広くはない室内に、温もりのある素敵な丸テーブルと、それを囲む複数の椅子。奥の作業スペースには大きなmacと可愛い椅子。作業スペースと大きな机のあるスペースを隔てる棚には小さな観葉植物たちがならんでいる。その観葉植物が載っている棚には、たくさんのCDが綺麗におさまっている。ものは多い。だけど、無駄に多いのではなく、その人が好きなものだけが置いてある。棚の上にはプロジェクターもあり、なるほど、壁のところにあるロールスクリーンを下ろすとプロジェクターも使えるのか!と思った。(あ!ここは我が家と一緒!)と思った。小さなスペースにアイデアがたくさんある。とにかくセンスがいい。POPEYEの部屋特集が熟成された後って感じだ。こういう部屋を雑誌で見るのと体験するのは違う。見たものは、作れるな、と思う。

 

壁際にある本棚には、一番上には家族の写真(これも何枚もではなくて大切なものを数枚)、ぎっしりと詰まった本棚だが、ここも、本当に大事なものだけ残している感じがする。良いオーラを放っている。良いオーラを放つ本棚は大丈夫な本棚だ。信頼。お茶を出してくれるコップが乗ったトレイは、金縁の飾りが載ってて素敵。いい。洗練、(私ここが好きだわ)と思う。

 

その人からもらった名刺に載ったQRを読み込むとなんだかいろんな情報の乗ったサイト?に飛ばされたのだが、こう…入り組んでおり…どんどん自分のサイトに、情報を足してる感じ?自分の部屋が広がってる感じだったので、まあ一旦スマホは閉じて、部屋を味わうことにした。あ、内向の人だ。と思う。インテリアの趣味が良く、置いてある本が洗練されている。心の中で(ヨシ!安全!いいぞ!かなり私の世界に近い!)と思う。

 

会に集まった人たちはご年配の男性が多く確かにちょっと権威的な香りもするけど、話していることもマトモだ。むちゃくちゃ与党推しの話とかもしているが、思想はかなりソーシャルで、地域性とか、小さなコミュニティみたいな話をしていて大まかに私が描きたい未来みたいなものと重なっているし、理想主義者な感じがする。そして、権力がある。コネもある。大きなものとつながりながら、何かをしようとしてる人たちの中にいると、実現性高そうで安心する。社会の中のデカい話をしてる人はいい。権力は自分で得るだけが策ではない。プライベート的な場所でぬるっと入り込むのはわたしはすごく得意。

 

まあこの日は結構お固めな話をしたので「本当に日活ロマンポルノ!?の話題が!?!?」と思ったのだがもう少し様子を見る。とりあえずあの部屋に行く時間を人生の中で増やしたいと思った日だった。

 

まあこれも数ヶ月経ったら違ったとか言いはじめるかもだけど、この世に100がないことをやっと私が分かり始めたので、ヨシ。いつか私が100を作るための、70とか80。とにかく部屋がいい。部屋がいいから信頼。相対的にわたしの感性にじんじんくる度合いが高そうだ。とりあえず月に1度この場に来れることは私の精神チャージに必要と判断!楽しみ!

 

それから、大学の時の自主ゼミの方々が先生交えて飲み会すると言ってたので顔を出した。相変わらず楽しそうで良かった。超よかった!大学ではじめて話が合う人と会って、でその後触れる世界は特に話の合わない人たちの中の世界に元に戻っていく、という話をしている人がいて、なるほどー思った。まあ大学ってある種のユートピア化してるよなーって先生が言ってたけど、私はそうかーと思う。

 

私は多分、人間に会った機会が少なく、基本的には、小→中→高→大→院→その他諸々、どんどん話があうようになって行ったので、さらに良くなると思ってた。私は全然違うビジョンを生きてきたらしい。「あれ、世間知らずだったか!?」と思う。でも、私は私の前にある道を歩いてただけだ。確かにギャップを知ってど絶望してこのブログ書いてた時もあったんだけど、切り替えてみると、私個人で言えば、どんどん楽しいことになってるのも事実なんだよな。

 

それこそ、一緒に『テルマ&ルイーズ』見に行こう!って超ハイパワーな女の子に誘われて、熱烈に「何かを変えたい」「あれをしたい」「これをしたい」「これをしましょう」と言われたり、数ヶ月に一度都内のホテルに泊まってる時に声かけてくれるお友達は、いつも部屋で待っててくれてイチゴを剥いてくれる。それでひたすら話す。この前私の都合でちょっとしか会えんくて、それでも2時間は一緒にいたけど、もっと話したかったになった。こちらが関西に行く行く詐欺をしまくってたので、言霊のパワーを上げるためにもどんどん行かなきゃいけない。

 

あ!あと、一昨日、友達と、夜中に長電話した。なんか結局普通に盛り上がって終わった。家族を大事にする方向のエネルギーと、仕事を大事にする方向のエネルギーと、両方に引き裂かれると大変なんだよな〜とか話した。自分たちが27になりそろそろ身の振り方を…という話の流れにもなり、「いや、本当にそうか?ぶっちゃけみんなあんまよくわかってないけど、とりあえず選んでみただけじゃない?人間そんな簡単に割り切れなくない?」みたいなことになり、もちろんまた別の場所に行けばそちらの物語や環境が待ってるが、なんか楽しかったんだよな。元に戻りたいとか時間を遡りたいってより、自分の存在って軸からまっすぐありたいんだよなー。

 

軸の波動が合う人と一緒にいた方がいい。軸から人生伸びていくからな〜。軸があれば嫌なもの見ても凹まないし。でも、今は軸が弱い時期だから、なるべく自分とシンクロ度が高い場所に行った方がいい。ぐわんぐわん揺れてる軸をちょっとずつ周りにクッションつけて、その振れ幅を正していく感じ。

 

こうして書いてみると、院出てからも、人生良くなってんじゃん!(気がつき)むちゃくちゃ自我の強いカッケー友達がおって、自分の世界から遠いものを知って愕然としたり、だから自分の好きなものがわかったり(何が嫌いかわからないと何が好きかわからない)、ちょっとずつやりたいこと見えてきたり。Eじゃん!ダンスダンス(ダンスを踊っています)

 

長電話相手の友達と、「外側からどう見えるかを気にするよね〜」という話をしたんだけど確かにそうで、多分私がやってることとか、やりたいこととか、今どんな立場かって、客観的に話そうとするとなんか自分でも良くわかんないから、肩身が狭くなる。結局見てるものはまともというか、人間やってるんだけどな〜。私は"状態"だから。エッセイなんだよなー。エッセイを生きてるし、本来、人ってそうでしょう、私は何かの立場に落ち着けるんじゃないかと思うけど、実際そんなこともないし、今私から見て何か安定したポジションを得た人や何かを決断した人だって本人からしたらその確信には満ちてないんだと思うし。みんな〜そういう不安とか、吐露してこうな〜。磯野〜野球しようぜ〜。なんで、なんか「定まりました」みたいな言説ばっか出回るんだよ。定まらねぇだろ、生きてたら、と思うんだけど。でも結局、それって、語りであって、冗長なものなんだよな。その人がどんな生き方をしてきたかとか、何を見てきたかとかって、時間もかかるし、互いに興味がないと続かない。いや〜文学すぎる。

 

結局ミスiDってそれを聞いてくれる場所だったんだな。社会に文学を残す取り組み、偉すぎ、審査委員長、講談社編集長小林司小林司が出場者の少女たちをまなざすとき、私たちもまた小林司をまなざすし、少女たちを批評する時、少女たちにも批評されるからな。小林司を解釈したい。小林司が少女たちを解釈するのと同じくらい。

 

何かのスキルを持った人として、キャスティングされる場合の社会との関わり方に対して、これは非常に"無駄"が多い。でも何を無駄とするかなんだよな。無駄が大事みたいな言い方があるけど、私は無駄は無駄だろと思う。仮に効率的ではないことを無駄というのなら、その効率的ではない中で本当に無駄なものがあり、効率的ではないが選んでしまうものは、それは無駄ではない上、効率的でもないから、めっちゃ大事なものなのだ。むしろ効率の方が無駄。例えば、時間を度外視して何時間でも喋りたい友達ってかなり特別案件なのだ。

 

お金をもらって人の話を聞く、話すを仕事にするということは、時間が来たらおしまいの関係だということだ。互いに何時間でも話せるということの中にも、その人の人生に興味があることにも優劣がつく。結果、ついてるんだよな〜優劣って話を『テルマ&ルイーズ』見に行った時にその子にしたら「でも、全部にやってると抱きしめられるものも抱きしめられなくなるから…」というようなことを言っており、「あーーー!」になった。何かを切り捨てるんじゃなくて、何を大事にするかなんだよな。無駄が大事なんじゃないんだよな〜大切が大切なんだよな〜。

 

てか、その大学時代の自主ゼミの飲みで、日記の本を出して売ってる人がいて、本当に人はエッセイを書いて売ればいいと思う。生きることをエッセイにすることはむちゃくちゃ主体性をぶち上げる行為だと思う。エッセイを書く時私は個人になるから社会問題について考えなくていいし──そんなことはないけど。(例えば、何かしらのトップクラスの友人とばかりつるんでいることが、全体の何%かとかをいちいち考えることは、1回知ったのでもういい)自分が自分であることに勇気を持っていられる。

 

なんでサザエさんに、はまじが出て来ないんですか?と言われたら、違うアニメなんで…ってだけだ。私は私のアニメに出てくる人とか、登場する場所とかがなるべく自分の世界に近くなるようにカスタムしたい。死ぬまでに見るVRが最高ならそれが人生なので、とりあえず、死ぬまで見るVRに出演してくるものと場所をなるべく自分に合うものにカスタムすることを第一目標にする。それは私がどれぐらい恵まれてるかとか、そういうのも考える必要がない。みんな各々最高のVRをやっていくだけである。VRで見るもののカスタムに執着してるだけで別に差別をしたいわけでもないし、それぞれの不平等や理不尽や困難は克服されるべきだが、それはそれとして私は私が見るVRをめっちゃいいものにしたいなーと思う。

 

社会的な正しさとか、そうは言っても実際問題難しいこと…とかもあるんだけど、私個人の人生でいうと、その身体を持っていける場所も、

キュレーションであり、エディトリアルだから、時間の配分を考えて生きる。心の配分を考えて生きる!編集なんだよな〜。てか、日記映像とかもそういうことよな。日常をクリエイティブと編集で見つめるって楽しいな。いや、編集者がミスiDやってるってそういうことよな〜。ミスiD論考書くか〜。最近ずっとこの話してるんでなんだかんだ自慢にしてるとは思います。楽しかったね。

 

エッセイとか生き様評価性のものがこの世にあってもいいってことよな、総括。

どの本のどの棚に並びたいかの話だ。自分が並びたい棚(客観)と、私が見るビジョン(VR)にこだわって、それを続けるだけ。最近思ったけど忙しい方がいいな。自分の好きなことに一生懸命になった方がいい。それを考えながら疾走してる間はいろんなことを考えなくていいから。考えられてないことのことを考えなくていいから。そんな感じです。あ、貸切スナックやるから来てね〜。あと、ホームパーティ上手くなりたいな〜ちらし寿司とか作りたいんだよな〜これは私にとって「大切」なことだ。手を動かす感覚、手のひらから料理が生まれる感覚は「重要」である。大切で重要なことを当たり前のように信じること。それって自信なんだよな。

ほとんどの人は地獄から出てきた女を目指していない

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「『お前ら地獄から出てきたのか!』って、セリフめっちゃ良かったですよね!」

と、興奮気味に隣で語るのは、ミスiDで出会った最高のガールフレンド。小さな身体に爆弾みたいなパワーを秘めている。

 

1991年公開の『テルマ&ルイーズ』の4Kリマスターが再上映しており、一緒に見たいと誘ってくれた。光栄である。映画の主人公は、中年の女性のテルマとルイーズ。テルマは旦那に酷い扱いを受けている。そんな旦那のことも忘れて、女友達のルイーズと出かけたバカンス先で、飲み屋で出会った男にレイプされそうになる。咄嗟の反撃の末相手を殺してしまったルイーズは殺人事件の犯人になる。女2人の逃避行ロードムービーである。

 

彼女たちは作中で、極めて屈辱的な行為を受ける。彼女たちの暴動と、逃避行と、絆は、そのすべてに対する反抗であり、誇りを取り戻すための旅なのだ。その崇高さと、生きることへの正直さに、涙が出る。66年型のフォード・サンダーバードコンバーチブルで走り去る彼女たちがどれほど眩しいかといえば、それは生きることへの祝祭であり、歓喜であり、幸福だと、私は思う。2人の罪が半分ずつになっていく後半が特に良かった。愛は、同じだけ罪と賭けを背負うことだと私は思ってるから。

 

あまりの清々しい反抗ぶりに「地獄から出てきたのか」と言われたテルマとルイーズは眩しい。もちろん、当然のように今日映画を一緒に見た私たちもまた、地獄から出てきた女である。ついでに、突然地割れが起きて、ギリシャ神話のハデスみたいに、地獄みたいな男にも出てきてほしいなーといったら、共感してくれた後で「でも人間みんな地獄からきたら大変になっちゃう…」と言っててウケた。人は地獄からやってくると思ってたし、みんな地獄から出てきた女になりたいんだと思ってた。びっくり。

 

そのあとお茶してたら、彼女が「『テルマ&ルイーズ』を見に行こうって言える友達と言えない友達っているなー。」って言ってて、「え!『テルマ&ルイーズ』を見に行こうって言えない友達が!?」と復唱してしまった。人間が不当な扱いに対して誇りを取り戻し、女性同士が鮮やかに生き抜く映画は誰と見ても楽しいかと思ってた…大変だ…。

 

彼女と話していると、自分が何を大事にしたいのか、本当はわかっているのに、憚って口に出せなかったことを言葉にできる。言葉にすると、本当は自分が願っていたことがわかる。私は私のままでいたいと思っていて、私のままでいるための方法を探している。自分探しのようだけど、たぶん自分のままでいられる場所を探していた。自分なんて環境によって変わるとか、そんなものはないというのなら、私がいちばん極上だと思う時の私でいたい。

 

自分が極上だった感覚を知っている。残りの一生もそうでなければ嫌だと本気で思っている。じゃないとブログが曇るからである。私が美人でいられるのは、自分が極上だと思った自分を知ったからその自分をここにとどめておきたい、これから先そうやって出会えた自分として扱われたいと思って書いているからだ。あ、結局ミスiDも、ブログ褒めてくれた人としか仲良くなってねーな。美しいということは自分の美意識に殉じている。私が何を大事にしたいかが現れる。だからそれに集まってくれる人と人生のいつ終わるかもわからない人生の残り時間を過ごしたい。ああ、昨日のブログの続きの話だけど、私はこのブログが美しければ他は何もいらないな。お金があろうがなかろうが、身体の調子が悪かろうが、ここで書く文章が極上で、それを極上と思ってくれる人がいたら私はそれでいいんだよなと思う。まあ限界な状況の時の文章が良いかどうかは別としてね。

 

やっぱり自分が本当に好きな自分でいないと、それを愛してくれる人と出会えないから、結局損だ。なるべく、そうありたいと思う自分でいられる場所や時間にbetしたほうがいい。時々本当に孤独でおかしくなりそうな時があり、人に慰めてもらっている。

 

毎回、人生に絶頂がおとずれて欲しいみたいなことではなく(まあ訪れてもいいんだけど)、何か、地続きでありたいだけ。あとあって欲しいものにbetする…というシンプルなルールを忘れたくないだけ。

 

また別で批評書こうかな、noteにでも。とりあえず今日いい日だったなー。常にこゆことしたいなー。

 

あーーいい映画だったーー、あれだね、『少女革命ウテナ』の映画は『テルマ&ルイーズ』のオマージュだね。ラストシーン見返してゾクゾクしてる。ウテナと姫宮が走り去ってまっさらな道創造してるの、『テルマ&ルイーズ』へのひとつのアンサーだよなー、やっぱ私は少女系アニメと、少女系(主人公が中年でそれがめっちゃいい)ムービーの批評を書いた方がいいかも。最近そういうのまやかしかと思ってたんだけど、この時代にわざわざ『テルマ&ルイーズ』を公開しようとした人がいることとか、こういう物語があることそのものが励みになると思った。なんか、微力ながら手を合わせたいと思った。

 

宮台真司がファン抱きしてる間に、岡田斗司夫が愛人リストを流出させてる間に、私が書けることもある気がするのだ。もう少し自分の能力にフラットに自信を持とうと思う。コンスタントに、軽やかに社会の物語を変えるような批評を書きたい。エッセイに近いかもしれないけど。やってみようと思った。

beingで生きてる人やっぱ強いな

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中高の時の同級生が、プロとして歌をやっているのだけど、急に思い立って、調べて久々に見てみたら、びっくりするほどすてきになっていた。修学旅行も一緒に行ったくらいの仲のよさだ。中学の時から音楽投稿をしていて、高校を卒業するときにデビューした。今は結構メジャーなレーベルの関連会社の事務所に入って活躍している。すごい声が特徴的なんだけど、一度聞いた人は、かなり記憶に残る。その力をフルに使っていて、その特徴が、類稀なる魅力として活かされていた。ギフトってそういうことなんだよな。

 

多分この数年、ボイトレとかしたのかもしれないけど、表現の域がすごくひろがっててびっくりした。感性がそのままひらいてるかんじがあって、表情もすごく伸びやかになっていた。「こう見せたい」とか、「こうあって欲しい」みたいな感じがない。昨日、私が、ユングのこと調べてたからかもしれないけどペルソナが限りなくその人自身に近く、抑圧されたシャドウを感じさせない。あと、中性的なんだけど、アニムスと一体化している感じがある。無理がない。なんか、泳いでいるイルカを見る気持ちよさみたいな。自然現象のような美しさを感じる。

歌ってて楽しいんだろうなって感じがしていて、その子の中に、私の知っているその人と今のその人が地続きにいて、すごく、すごくよかった。やっぱり、なにかを「頑張っている」という感じがない。いや、頑張っているんだよたぶん、努力はしているんだけど、外に対する圧がない。昔会った時より、「その人だ!!」って感じがした。7年前の動画も見たんだけど、ステージで立っている時が当時は棒立ちだし、表情もない。カラオケの上手い人という感じだ。だけど、今はプロだ。それは、プロをやっているという緊迫感より、なんか解放されている感じがある。晴れがましい感じ。

 

あ〜〜〜心からよかったねっておもう。その子がメイプルストーリーやりすぎて授業中寝まくってたし、下校中すさまじいスピードで太鼓の達人PSPを連打していたのを思い出した。あと合唱コンクールで、他の友達がすごいがんばってて金賞取って感動して泣いちゃった時、その子が背中をさすってて「なんて美しい光景!」とおもって見てたら、右手で当時流行していたなめこのアプリで、なめこを収穫していた。なんやねん。

 

知っているその人と、そこから魂レベルがさらに上がった感じがあっていい。わたしこういうタイプの、人の魅力が増す感じが好き。顔や表情が、どんどん洗練されるし、それは、無理してない。その人の魂が増幅されている感じがよかった。そりゃ、実際会ったら全然変わっていると思うし、ぜんぜん噛み合わんのかもだけど、存在すぎてすごい、存在が存在すぎる。いや〜〜〜今の方が素敵だ。多分、ここ1〜2年で劇的に上手くなったんじゃないか?肌艶が良すぎる。中性的な感じなんだけど、かなり、天海祐希とかに近い種類のどきどきを感じる。

 

媚びていない。たしかに人前に出るから挙動とかも、キャラクター的に芝居がかっているところもあるんだけど、アクがなくて、すっごい素敵なんだよな。かっこいい。しばらくこれ聴きながらがんばろう〜〜。本当に上手だ。自分の内面が外界との境界でシンクロしている。本人色々大変なことももちろんあると思うんだけど、まじで誤魔化してない。声と歌と文章にはメンタルが出ると勝手に思っている。あと佇まい。嘘がない!本人が楽しそうにしているというのはいいことだ。私幸せになっちゃいけないんじゃないかと思ってたんだけど、幸せそうな人見ると安心するな〜。「歌うのは楽しいです!」って別にファンサとかじゃなくてさらっとその後のトークパートで言ってたのもよかった。ここ数日のブログ含め、なにか恵まれたことを自罰的に思って、自分も何か我慢しなきゃいけないかな、と思ってたんだけど、私もなるべくしあわせでいたいな〜〜。

 

これを書きながら、その動画のトークパート聞いてたら本人が「昔とは感覚が変わった。思いのまま歌っていると、受け取りづらい、独りよがりになっちゃう部分がある。2年くらい前の自分の音源を聴いていると『押しが強い』と感じる音源もある。」と、言っていて、鳥肌がたった。そうだよね。そう。私もそう思ったよ。今そういう文章を書いている。その子は「逆に、押しが強いのが合う音源もあったり、長年積んでいくキャリアの中で微調整の材料を集めていく」と話していた。美しかった。彼女にとって大事なのは、「視聴者の人たちと歌を楽しむ」、ということなのだそうだ。今後の展望を聞かれたその子は「ミュージカルですかねぇ。」と、歌と芝居のことについて話した後、「本心…というか…正直なところをいうと…」と、切り出し始めた、ぞくっとした。

 

「本心」という言葉が耳にはいったときに私の胸が沸き立ちはじめる。その子はこう続けた「なんでもいいから、細く長くやっていきたい」。「シンプルだ!格好いい!」と思った。「表現の道に携わっていられれはあとは何も要りません、くらいの。」と付け足していた。声は、年齢を重ねれば衰えるかもしれない。その子がやっている歌のジャンルがあと何十年後にどうなっているかもわからない。すごく人気が出たかと思えば、低迷するかもしれない。収入もわからない。でも、そんなことは関係なく、微調整を繰り返しながら、歌っていたいというシンプルなものですごくよかった。〇〇を届けたい、とか、〇〇になって欲しいとか、じゃなくて、その子が大事にしているのは、歌っているという状態なんだなというのが、いい。細く長くその状況が続くというのはとてもいい。ファンレターでも持って、次のライブでも行きたいなと思う。

 

その人がその人のまま、晴れやかにしていることが、ずっと会ってない誰かを励ますことがあるよなぁって。思った。

 

その人になる、って、いいよな〜。私ももうちょっとなんかできるかな、と、実家にいながら思う。一人暮らしもした方がいいかな、と思うんだけど、圧倒的に、私、一軒家に住んでることが何より楽しいんだよね。この冬は玄関にパンジーを飾っている。全く枯れない。ありがたい。料理もうちょっとやろうかなぁ。昨日肉じゃが作ったんだけど、自分は料理が結構うまいかもしれない。正直自信がある。三口のガスコンロとシンクがあるって私にとっての幸せで、それってどこに住むかより大事かもしれない。確かに雑なんだけど、味にセンスがあると思う。料理も、ひとりよがりじゃいけないからなぁと、思う。

私も、細く長く料理作ったり、表現したりしていたいんだよなぁ。あとブログ書くのも好きだ。と思いながら、今度借りるカラオケバーの次はキッチン付きのスペースで肉じゃがでも出すか、と思って場所を調べ始めた。明るい気持ちになっている。動き続けると幸せになる。カイロス的な時間しか生きられないかもと思う。ナイスシンクロ。彼女の動きに合わせて、私ももうちょっと勇気を出してみようかなぁと思った。私もそれが細く長くできていれば他にいらないなぁ。

 

どんどん自分になっていきたいなと思う。今日は、一日中その子の歌う動画を見ると思う。

痛みについて

その話を聞くとショックを受けてしまうという話をしてくる人に対して、受け容れなければという気持ちを抱いていたが、私の痛みが無視されている。私が痛くなる話は聞かなくていい、距離を置いてもいい。

 

それは人が亡くなったとか、事故、事件に巻き込まれた、とかそういう類の話とはまた違って、なんかさ、それこそミスiDや地域コミュニティで遭遇した、さまざまな、接近禁止命令の出てる彼氏とか、妊娠中絶とか、パーソナル障害大波乱、交際相手にお金持ち逃げされる、その後交際相手はアル中になり公衆トイレで死亡、みたいな類の話ね。

 

受け止めきれない、無力。私はそのことを受け止めなきゃ、それが正しいと思ったけど、ずっと受け止めきれずに持て余して傷付いている。傷つかなくていいのではないかと思う。

 

世の中にはそういう話を聞いても傷つかない人がいる。たぶんその人たちの役割で、私の役割ではない。専門外の領域に突っ込む必要はない。私には私のケアがある。そういう話を聞いて傷ついた、と言ってる人を今日ケアした。私にはこっちならできる。世界は交わらなくていい、と思う。

 

私は人との関係性をきちんとやりたいし、真面目に紡ぎたいし。傷つきたくない。

何にショックを受けるかって何を大事にしたいかと密接だと思う。自分の痛みに素直でありたい。

プロになりたい、本当のことを言いたい

今日もイベントがあった。もう6〜7回目で、慣れたはずなのに、いつも終わった後は、これでよかったのかわからなくなり、晴れがましさと共に、ものすごく苦しさと焦りと惨めさが伴う。お笑いやってる人ってこういう気持ちなんだろうか。

今日は話したいことが話せたけど、ちょっと手探りだった感じがある。多分甘えもあった。ていうか自分の中でのエンジンをどこに持っていっていいかわからなかった。平日だからそんなに人を集めなくて大丈夫と言われているのはそうなんだけど、そうは言っても人件費すら出ないと申し訳ないという気持ちがありいつもソワソワしている。今日は多分、人集め的にはダメだ。好きなことをやればいいというのと、beingを大事にすることと、結果は違う。結果は大事だ。やっぱりダメなもんはダメなのだ。

 

別にダメとは言われないしこちらは赤字ならないし、やってくれるだけでと言われてるけど、そんなのでいいのかなと思う。私はやっぱりすごく居心地が悪いのだ。多分少しストレスになっているのは、実績が伴わないからなんだろうな。でも、本当に実績を求められているのかというと、そりゃあればありがたいが、なけりゃないでなんかなってくれるだけでいいというのは本音で、私が勝手に高い目標を設定して暴れまわってしくじってるのかもしれない。でも、やっぱり何度やってもそう思うというのは自分の中の満足点に達してないということなんだと思う。だから何を言われても、認知を正しても難しいのだろうな。

 

やっぱり、一定の手応えはあるけど、もっと手応えが欲しい。悔しいという気持ちがある。悔しいのだ。競争から降りたいけど、悔しいという気持ちとか、もっともっと上手く行きたいという気持ちがある。それを否定できないし悪いことではないと思う。もっと頑張りたい。頑張りたいのだけど、そのことに向き合うエネルギーが足りなかったなと思う。今日一緒に話した子はやっぱり客観視もすごくできているし、大きなメディアとも仕事するだけあって、やっぱひらいてるんだよな。

 

私は自分の箱庭を大事にすればいいと思っていて、自分にとって身近な人たちとステージに上がることも多かったんだけど、もしかしたら私自身が何者なのかとか、はっきりさせなきゃ行けないんだ、と思い始めた。あれやこれやと顔を出しているが結局なんなんだという話になるよな。社会に出るということがよくわからないままぬめっとしてたのだけど、私にとっての社会に出るって、そういうことなんだと思った。

 

この前、大学院時代の先生のところに会いに行ったら「自分の名前で仕事がしたいなら〜」という趣旨の話をされた。個人的なことも大事だけど、あっさりざっくりとわかりやすく自分が何者なのかブランディングする必要がある。それは自分が半分社会に飲み込まれることだから、私は最近人前に立つとき、自分の苗字を違うものにしている。自分の一番好きな人たちから呼ばれやすい苗字を、違う人たちに呼ばれると、その文脈に飲み込まれてしまうから。守る。

 

少し個人じゃなくなるのが寂しいけど、でも、客観ってそういうことよな。自分と社会の境界が溶け出すこと。私はそういう感じで大人になることにした。半分個人で半分社会。たまには、買ったけど着たことないビキニがあるからお風呂はいろ♡ - 美人ブログだけど、やっぱり、ちゃんと外側から見て人気なものでありたい。結果を出したい。学歴じゃないは学歴を持ってる人が言う、お金じゃないはお金持ってる人が言う。人気だったそうだ。てか大森靖子もメジャーだしな。やっぱり私アングラ感というよりはメジャー感に自分の適性と好きさがある感じがして、全然外界にいい感じで魂売れるのです。ポップさって大事。やっぱり本気でやりたいかもしれない。それは今日そうやって自分の趣味仕事にしてる人と話したからだな。やっぱり、人は見たものになる。私お金どれだけ稼げんのかとか、将来どうなるかとかわかんないんだけど、その子と一緒に頑張りたいなと思った。

 

もっともっと、会場の人にも期待されたいし、頑張りたいし、何か自分のために必死でお客さん呼ぶとかではなくて、私も楽しくてお客さんも喜んでもらえることをしたい。頑張りたい。マジでやりたい。ほんと、今までもマジじゃなかったわけじゃないけど、本気でもっとやりたくなった。やっぱさ、結果じゃないし数でもないんだけど、結果や数はわかりやすい指標。それを続ける。でも、本当に役立たずなら次の声がかからないわけで、別に過度に謙遜して、会場貸してくれる人を避けたってしょうがない。

自腹でこの会場借りたらどんな話するかとか、もっともっと自分ごとで考えたい。

 

やっぱ楽屋で唸ってる人の方がなんか、伸び率はあるなと思う。過去思い返しても。やっぱ悔しいって気持ち、人生全般に持たないことにしてたんだけど(徳が低い感じがするので)やっぱ、持ちたい!他人と比べるとかじゃなくて自分が自分にずっと悔しい。それは多分本気でやったわけじゃないからなんだろうな。もっともっと自分に課したことをクリアして自分を好きになりたい。超マッチョ思想なんだけど、こちらの方が楽しいのである。お風呂の中でビキニを着てもいいが、ちゃんと痩せたりして海で着たらもっと楽しい気がする。海だ海!!!

食べログ評価を自分たちで上げていくのだ。べつに縛られる必要ないけど。

 

私は私の名前で仕事がしたいしもっと自信を持ちたい。プロになりたい。自分の満足感がなんで少ないのかは多分努力不足に尽きるな。来てもらった方には悪いけど、普通に楽しいし普通に満足感はあります。でももっと上に行きたい。これじゃ嫌だって私が思っている。もっと楽しいことをしたい!

 

初めて憧れの場所のステージに立った時は、地下アイドルの真似事をしていた時で、他の子たちのイベントの端役でいれてもらった。夢は叶ったがこれはそれほど嬉しくなかった。それは私がわざわざ見てもらうようなもんでもないと思ってたからだ。衣装を作ったりするのは楽しかったから、自己満のものなんだよな、あれは。またアイドルについても今度書く。色々あった。私は、それからしばらくして、自分が話したいトークでやれる機会をもらった時はとても嬉しかったし、前より透明じゃなかった。透明なのは嫌なのだ。

 

もっと上手くいきたい、もっと頑張りたい。もっとお客様呼びたい、一人一人が足を運んでもらったことは嬉しいし、それにも感謝してるし量より質だけど。それでももっと会場の人たちに恩返しがしたいなと思う。まあ初めと比べれば、ビビらないとか、コンテンツとして成立してるとか全然いいと思うんだけど。でももっと頑張りたいし、なんか自分の主軸となるものがないことに焦り始めてきた。いや、私なんなんだろうな。なんなのか?と思われていると思うが私もわからない。頑張りたいとかやりたいとかばかりで軸がない。軸というのは、絞ることだから他が見えなくなりそうで怖かった。

 

でも、ずっと私このブログで何かを見限るのが怖いとか、自分が何か強者みたいな立ち位置で書いていたけど、そんなことより、イベント会場に来てくれる人たちにもっと喜んでもらう方法とかもっと足を運んでもらう方法を考えた方がいい。今日のブログの私は、人生の主体が私でイキイキしている。ケアも大事だけど、会場をちゃんと埋めたいとか、責任を果たしたいとか自分のことで精一杯!!!精一杯になった方がいい!ちと苦しいが幸せ!頑張りたい!!!!

 

イベント会場から毎回帰る時に「捨てないで!」という気持ちがある。次呼ばれなかったらどうしよと思う。焦る。多分満席にできたら違うのだろうか。やりたいことをやることと、ちゃんとやれば違うんだろうか。プロになりたい。

 

やっぱり、自分がこうだ、と決めたことを守れないことが多いと自分のことを嫌いになっていくし自信がなくなるな。ストイックさやっぱり大事だと思う。どうしても自分が決めたことをきちんとできるようになりたい。私は私の半分が外界に染み出して、私の半分が個人でありたい。そういう凪みたいなものを探したいと思った。熱量だけで走っている。

 

今日のトークでも出たんだけど、やっぱり自分が本当だ、とおもうことをやるべきで、それは心の中の手応えでしかないんだよな。メジャーシーンを賑わせているものにも嘘がいっぱいあり、そういうものに触れるたびに絶望するのだが、結局嘘をつかないことって自分が世界を信じるために必要なことなんだろうなと思う。

もっともっと真剣になりたいし、嘘つかないでいたい。超真剣すぎて恥ずかしい。

 

染み出していくぞー!社会!

好きになるぞー自分!