美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

人生は時間の切り売りにすぎず、願わくば川口アパートメントに住みたい

ブログの様子が、ここ数日頑なで少し変なモードになっていることは自覚しているのだが、書くことをやめることができない。書くということは考えることで、話しながら考えるのが常である私にとって、こうするほか、思考を巡らせる方法が思いつかない。

 

紙にでもひとりで書けばいいではないか、人に公開する必要があるのかというのはごもっともなのだが、自分だけの世界というのは、たぶん、これよりも独りよがりで、自分が何を考えていてどうしたいのかがわからなくなる。まあそのために読書とかがあって、本をいっぱい読んだのちに綴る自分のためだけの文章は魅惑的だと思うけど。隠されているものの方が官能的だからなぁ。

 

私はどうにも、自分の内的なものが絶えず外に出ていないと、落ち着かない。堰き止められない。子供の時から常にしゃべりつづけ、手元で何かを作り続け、終わりが来ることから逃げ続けた。主観が極めて強く、外界が嫌い。基本的には誰かの内的世界が外に飛び出したものしか受け止められない。こちらが見ているものを世界にする方が、すでにある世界に順応するよりはるかに心が落ち着く。

 

なんでこんなに人生へのやる気に波があり、突然の短期的努力と瞬発力と、低空飛行を繰り返してしまうんだろうか。多分、生きることに対する活力がいまいち足りない。いや、溢れているだろ!というつっこみも受け付ける。あと、とくにテンションが上がる目標がないんだよな。世の中の人はほとんどそうと言うのもわかるんだけど、なんか、命をやっていくところにもう一個ほしいのよね。ケアの実現かな〜と思ってたんだけど、受け入れられる人間のキャパがあまりに狭すぎた。純愛の未亡人貫き女性との時間と贈与を愛していて、そちらにステフリしたいので…。

買いたいものもない。ぱらぱらとした出費はあるけど、推し活とかみたいな、駆動力になるお菓子のようなお金の使い道がない。タワマンにも興味がない。腕も2本しかないので、バッグも1つでいい。好きな服を着たいとこの前のブログで書いたけど、確かにいいお値段する服を買うことを目標にしてもいいかもしれない。だけど、身体も1個しかなくて、私、服も人からもらうことが多くて、それが本当に似合うし、べつにそれだけでもいい。

叶えたいものは大体叶えたし、結婚も出産も興味ない。あ、本を出したいとか?私は自分の言葉を読んで欲しい人にはこうして届いているので、何か文学やエッセイで勝負したいという気持ちもない。元々、なんだかのんびりと友達と過ごせればいいかなぁと思ってたんだけど、皆それぞれの人生もあると思うので、私の個人の目標というものがないと誠実じゃないなぁと思い始めた。

やっぱり、本当に死ぬまでにもうやりたいことがないのだよ。一昨日、ネトフリ『浅草キッド』(ビートたけしの自伝を柳楽優弥がやったやつ)みたけど、頑張っててすごかった。コンプレックスも成り上がりもなんか、もういいじゃないですか、という気持ちがある。でも、ちゃんと自分が信じる芸事とか美学とかは妥協せずにやった方がいいという、昭和的な極道みがあってよかったよ〜〜。

私はさぁ、人の力を借りながら、無理をせず、明日のご飯があり、おしゃべりだけしてればいい、という思想なんだよな〜。さもなくば死にたい。急。なのになんで、ここ数日のブログおかしいんだろう。たぶん、さみしいんだよなぁ。「おしゃべりしてればいい」というのがくせものでさ、誰でもいいわけじゃなかったんだよな〜。話し合う人間のがすくないわ笑 無理 笑 まぁ、本読んでいたら、話の合う人とのおしゃべりしているも同然だけどね。


何者にならなくてもいいはずなのに、何者でなくてもいいと思える関係って、それは、別の優先順位の話でしかないんだよな、ということがしんどい。何時間だって待てる友達はいるけど、地球の人全員を待っていたら、何も始まらない。何時間だって待てる相手って、それはそれで、存在という価値のエリートなんだよな。多分関係性って広義の恋愛なんだよな。「美人さんはいつも選ばれない人のこと気にしているよね」と言われたけど、なんで私は「選ばれない人」のことを気にするほど自分を偉いと思っているんだろうと思って、そういうのはやめることにした。なんか、結局偶然性以外に人が救ったり救われたりというのは存在しないということになった。救おうとするのは傲慢。

神の所在について述べられてるこの記事めっちゃいい。

 

vetechu.hatenablog.com

 

この記事のラストで引用されている

 

捨てられた車が神の役割を果たす子猫と雪を隔てて
-「オールアラウンドユー」木下龍也

 

をよく思い出すんだよな。人の存在って、たまたま役立ったとか、そういう話でしかないんだよな。あれだ、『化物語』のやつ。「きみが一人で勝手に助かるだけだよ」ってやつ。それです。結局。

 

 

これも読んだのだけど、この中に「アンサングヒーロー」という概念が出てきて、その人が助けようとも思わず偶然助けたり、その存在が誰にも歌われないようなヒーローのことが書いてある。この中だと、偶然防波堤の蟻の巣をなんの気無しに埋めていた人のおかげで街が災害から救われたが、結局本人も周りの人もその人がヒーローだと気がつかないという話が出てくる。上の短歌と同じだね。

 

これもいい、宇多田ヒカルの『automatic』を題材に、偶然性により作意なく、思いがけず授けられるものこそが利他であるっちゅ〜はなしなんだけど。本当に、無理をしないでいいんだよな。ってなると自由意志の所在の話になりすぐ私の周りの人たちはスピノザの話をしてくる。


私は、選ぶのが苦しいんだよ。「人間が死ぬまでにやることなんて、人と語らってご飯食べることじゃないか!」と思ったのはいいんだけど、それを市場に出せば競争は生まれる。YouTubeだってそう。握手会だって、スパチャだってそう。お金を積んだ分だけ、その人の一生の何秒かを買う。そういうことだ。文章を読んでもらうこともそうだ。映画なんて人間を暗い場所に監禁して、120分もある人が作った世界を浴びせかけるのだからすごい。全ては価値と時間の奪い合い、競争だ。もし競争出ない可能性があるなら、創造と偶然性だよな。自然と惹きつけられるものから目を背けてそうじゃない方に向かおうとするのって、なんか、変なマッチョさなんだよな。

 

でもさ、人が集まる場所に行った時に、その時にいる誰と話せば先の出来事が巻き起こるかがわかる。名刺を貰えば「やっぱり」と思う。私だって、合コンとかで「こいつないな」と思われたら悲しいのに。秒でわかることってある。私はもうある場所では「選ばれる側」であり「選ぶ側」でもある。でも、それってあまりにも自分の決定事項を絶対視しすぎていると言うか、私が何かを選んだり選ばれたりするのも過去の流れの集積に押し流されているだけで、たった一人の人間である私に何かを決めて誰かを傷つける力があると思うほど、自分の力を大きく見るのも傲慢なのだ。自分の決断で世界が揺らぐと言う大きな自信と、自分の決断如きで世界は傷つかないという謙虚な呑気さをどちらも持っておく。他に誰にも愛されていなさそうな(本当に失礼だが)おじいさんが、地元の缶詰バーにいこうと言ってくるのを適当にいなして、先行きのありそうな人と知り合いになっておかんといけん、と思うことを気にしなくていい。


配信は、お金を払えばコメントが読んでもらえる。1人の配信に何人もが群がる。時間の希少性は、全く平等ではない。人生は平等だが、人間は全く平等じゃない。でも、救いがあるのはやっぱり、一人一人に人生が平等にあるということだ。だれにも他人の人生のことはわからないのだ。だから、なるべく気持ちよく接しようと思ってはじめた。

いや〜〜〜〜〜完全に闇落ちをしていたね!受け止めきれないものがこの世には多すぎる。無理だよ。無理をしないことを掲げる私が無理をするのは違うね。人間って大変だよ。私は私が話してて楽しい場所にいるべきだよ。利己と自分を大切にすることが利他に繋がるからなぁ。この前、友達が「自然淘汰だよ…」と言ってたけど、本当にそうだ。神に逆らえん。もっと私もね自然と心惹かれるものに行った方がいい。

この前、早稲田のミュージカルサークルのseiren musicalをapplestoreに見にいった。

 


いや、うっめぇよ。うっめぇ。非の付け所なくうまい。最高だった。私高校生の時に1回真冬に新宿に公演見にいっているんだよね。最近、自分がわざわざ足を運んだり手間をかけたものって本当に好きなものじゃないかと思って、再訪することにしている。入学してから、新歓公演も行って、正直圧倒的だった。みんな早朝バイトして、ハードなレッスンしてて、私には絶対できないと思って、入るの諦めたけど、やっぱ、覚えているもんな、いまだに。なんか、私もちゃんとやってちゃんと頑張ろうって気持ちになるんだよな。ほんとうに。しっかりしている人を見たいよ。自分の美意識に沿うものを見たい。

急に新歓公演の時に聞いたディズニーランドのショーの挿入歌が良かったのを思い出して、applestoreからの帰り道、その曲を聞いた。やっぱな〜覚えてるんだよな。覚えているって好きなことなんだよ。


やっぱね、レベル高いものにしか興味ないんだよな。私は、自分が報われなかったり、コンプレックスがあったりするから、そういうちょっといじけたものとかをなるべく応援してあげた方がいいかなぁと思ったんだよね。でも、エンタメにおいて「私だってこうなりたい!」みたいな自己実現や、これまでの生い立ちを克服するための何かしらが見えると気持ち悪いんだよな。自家中毒気味で、足を運んでも疲れるんだよ。マジで好きじゃない。誰が見るんだ。私は自分のことで精一杯なんじゃなくて、客観的に見て成功、成立しているものが見たいのだ。


私、憧れのトークライブハウスでアイドルステージやったけど、ちょっと虚しかったもん。 私以外の子達がZOCの『Family name』を泣きながら歌ってたけど楽屋から見ていて正直冷めた。どうしてこんなに一生懸命なのにさめちゃうんだろう。それは二番煎じだからだろうな。あと、オナニーだから。既存の曲に人生当て嵌めて歌って酔ってるのを見ても、仕方ないもん。世界は優しくて、そして辛辣だ。世界は、交わらない。ただ、少しだけ重なるのだ。

やっぱり、勉強ができたり体力があったりして恵まれた人のコンテンツより、生い立ちが大変な中で頑張っているところに光とか見出した方がいいかな…と思って、ミスiD界隈にいたけど、だめだ。それは観光客的な態度であり、めちゃくちゃ失礼だ。そうとしか思えない人間は、去るしかないな。最近映画の『FIGHT CLUB』やっと見たけど、患者会にツーリスト的な態度で参加している主人公のあれだわ私。ちょっと気持ちよくなってたわ、正直。どうしようもない女の子たちに囲まれている時に。優越感を感じていたと思う。はっきりしましょう。

 

確かに、表参道のapplestoreでやるミュージカルって難関大学に行って、恵まれた人も多くてそりゃ強者のエンタメですよ。でもね、圧倒的すぎて、そんなルサンチマンいいようがないんだよな。いい意味で自我を感じさせないんだよね。自分が透明になるようなシンクロ性を生きている。文句がつけられない。圧倒的な実力で黙らせるミュージカルが見たい。甘えがないんだよな。私seirenが好きで、学生ミュージカルとか、社会人サークルのミュージカルとかあるんだけど、seiren超えてこないんだよな。高校生の時に見に行っている時点で答えなんだよな〜。答えが出てるものを何度も演算しない。


やっぱ属性外の人と会うとか、関わるって危険だからな、私、人と握手した時に、「あっ!いまこの人から今パワー吸い取られてる!」ってなんとなく手の感覚でわかることがあるんだよね。多分当たっていると思うんだよな。初めてそれを感じたのは、大学生の頃飲み屋でバイトしてる時に「美人ちゃんは一番好きな人と結婚しちゃダメよ…二番目にすきなひとにしときな…」って女の人に手を握られた時。指先から、どーんと落ちていく感じ。運気が下に下に落ちる。「それは一番好きな人と結婚できた人にしか言えないことですよ〜!!」っていったけど指先から邪気が…年長者の闇にふれると怖くてねぇ…ちなみに波動強そうな人に触れると注がれる感じがして、安心する。私が親しくない人とのハグとかボディタッチ嫌うのって、すごい拾いやすいからなんだよな。

この前、子供の時から仲良しの女の子を誘って『テルマ&ルイーズ』(私は)2回目見に行ったんだけど、彼女ちょっと嫌なことあったのかなって感じで。ぶっ放そうぜ、と言う気持ちではあったんだけど、なんか、彼女が隣の席に座った途端に私も背中がイガイガする。隣にいる人の感覚が自分に乗り移る時があるんだよね。これ多分自他境界があいまいなところにも起因しているんだけど。多分間違いじゃないと思うんだよね。映画が進んでいくうちに、少しほどけていく、あ、楽しいと思っている、気に入ったな、と言うのが、これ変だと思うんだけど、めっちゃ伝わってくるんだよな。多分楽しかっただろうなって、上映後言葉を交わさなくてもわかる。これ私の勘違いかなぁ。でも、中学生くらいの頃から、好きな男の子が次に言う言葉がわかってハモったりして怖がられたこととかめっちゃあるんだよな。わかんないんだよ、私も怖いんだよ。でも相手の身体感覚を拾ったり、数秒先のことが読める時がある。

ともかく、なにか感情の刺抜きみたいなことが自分にはできるんじゃないかと思ってたのよ。自分の話ばっかりするところが大半なんなんだけど時々人の話が聞ける時があると思っているからね。配信も、アイドルも、YouTubeも、スナックも、コーチングも「人間と温かく接する」で生きていけるかな?の実験だが、やはりね、とてつもない邪気に触れる時があり、「お、ここは『千と千尋』の湯屋か〜〜?」と思いながら邪気を吸い取れるときもあれば──やっぱカウンター越しじゃないと無理だ、プライベートで会うと取り込まれるね──

 

まじでやばい、人の心に深く入り込むと、これは心の触れてはいけない部分に触れにいって何かを癒そうとしているという、支配欲と背中合わせの危険性を感じることがある。結局、『千と千尋』って、湯女だもんなぁ。お風呂屋さんなんですよ。最近あまりにも泥を被りすぎてて調子が悪いんですよ。ご自愛ポイントが減って他者に当たり散らしている。基本的に自分が住むべき世界と違う場所にいたので削られたんですよね。早く元いた世界に帰った方がいい。

 

この世は私が見てきたより、すさまじい。壁に指突っ込んだらどんどん出てくる。

やっぱ、人の闇って底なしなんだよな。向かっていっても仕方ない。私が楽しいことをやったり、書いたりしていてそれを読んだ人が偶然とか、そう言うのしか成立せん。無理や。


そうそう、昨日、ハウルの話したけど、ハウルが鳥になってからの時間のことを
「本当に面倒くさい」と思っているもんな。あれいらないよう〜〜〜。
そうなるとやっぱ「在宅」と「監禁」の話になっちゃうもんな、『ハウルの動く城』。

でも、一旦鳥になって守りたいものができるまでの流れ、面倒だよう〜〜〜。
やめようよ〜〜〜。鳥きもいよ〜〜〜。端折ろうよ〜〜〜〜。
一旦氷漬けになったあとの回復の過程も面倒だよう〜〜〜。

 

 

やっぱ前半部の空中散歩とかしているから後から皺寄せが来るんだよな。
イキって目玉焼きを作ったり、髪色が変わってドロドロになっているところの繰り返しで人生終わっていくよ?と思うんだけど、だめ?

『すずめの戸締り』もそうだよう〜。一旦凍る過程面倒だよ〜〜。

勝手に男が作った社会で氷漬けになったものを溶かすの手間だよ〜〜。
でもな〜〜、結局私が上澄みとしか会ってないからな。

おしゃれなブログ書こうとしたのに変な感じになっちゃったよ〜〜〜。

うちの弟もずっと家で凍ってるよ〜〜。私のパッパも私が鬼詰めしたので凍ってしまって最近実家帰って来なくなったよ〜〜。

 

人生これ▼がいい

 

まあ。人間が凍りつくような競争やめようや、は、結局やっぱ箱庭の中で紡いだ理想論でしかなくてさ、私は本当に上澄の何かとしか出会ってなかったからこんなことを言えるのであって、やっぱり競争原理は働くんだよな。まじで、「話も通じん、うんともすんとも言わん、なんや、時間使ってどうするんや!!」というような人が出てくるからなぁ。


seiren  musicalの並の仕切りをできる人をずっと憧れの対象として見てきて、誤った世界の認知で生きていると。噛み合いません。エリートのハーレムに囲まれすぎて完全にボケている。基本的にライブ配信とかやってた時に思ったけど、コメントの日本語がおかしい、コミュニケーションがかなり厳しい人だと言うのがパッと見てわかる時がある。すごい弱者なんだよな。たぬかなと宝鐘マリンに全てを任せたい。あと、私が歌謡曲とか魔法少女とか大衆向けコンテンツが好きなのって、差異を透明化するお祭り的な役割があるからなんですよね。SMAPの『SHAKE』を聴いて今日も自室でおどっています。

 

むり!のポーズ▼

 

大学院時代の友達が店に来た時、「美人さんエヴァ見て怒り狂った方がいいよ。怒り狂ってそのままカウンターの中で喋った方がいいよ」って言ってたな。見てないんだよな〜エヴァ。年末も、友達に一旦シンジくんがウジつくシーンを見せられたな。あ〜、こういうこと話してると自我取り戻してくるな。

 

性別の話をメタ認知して話せるのも一部の人、というのも最近知ったね。別に多くの人は、人間の自我よりも目の前の性別を優先させてその興味に基づいて自分の欲を優先させることを、特に問題だと思っていないんだよな。美徳とかダサいかどうかとかを気にしていないんだよな。恥のない世界においては何一つ機能しないのだと知った。恥と矜持と美徳って人間のオプションだからな〜。信じられんけど。

基本的に身体性が自我より先に来る場所では、「ベーシックインカムみたいなモテ」と私がよく呼んでいる「女体扱い」が増えるんだよな。その場の全ての女体に配られる、なんか気持ちの悪い優しさのこと。すごいんだよ、自分が育ってきた環境と全然違うバイトとかすると、ベーシックにモテるんだよ。それをモテというかは微妙だが、「みんなプラン」みたいな謎の気持ちの悪い忖度と不思議な空気。こりゃクセになるね。何もしなくても存在だけが尊重される(ただし何かしらの不穏さがある)ってそういうことかとおもったよ。


自我ってオプションらしい。私はいま皆さんの自我に話しかけてますからね。自我〜〜息してるか〜〜??

まぁ、そうは言いつつやっぱ、最近男女ってやっぱ違うんじゃね?本当に全てが社会により規定されただけのもなのか?とも思い始めているんだよな、ここだけの話だが。やっぱ女体の価値がエグすぎる。友達に「大学院でフェミニズムやった身で言うのもあれだが、やっぱり女体のステ振りがバグすぎる。」と言ったら爆笑された。各地で元も子もないことを言って困られまくっているが。やっぱり…女体カードが強すぎる。

一応立場的に「男女は関係ない」とは、部分的に思っているけど、人間と接する場所に立つとやっぱり男の人が来ることが多いので、ケアという文脈や、男性性と孤独、の文脈だけで語るのは無理があり、自分が女性であることが要因として大きく寄与していることは否定できない。フィールドワークとしてはこれで十分じゃないだろうか。もうちょっと自分が楽しいと思う方向で動くしかないな、やっぱり趣味の良さとか、センスとかって大事だわ〜〜。やっぱほら、ハロプロ性ってそう言うところに宿るから。

女体って底辺にいくと可能性を減らせるんだけど、上位に登ろうとすると女体ポイントなのか実力なのかよくわからなくなると言うのがあるんだよな。私22歳くらいの頃、めっちゃ一生懸命スナックやってたのに、昔そこ借りてたレンタルスペースのおじさんに、あんたのところの一緒にカウンター立ってる女の子たちが、男の子たちと寝てるから来てくれてるんだって言われて泣きながら大喧嘩したことあるんだよな。死ねばいいよな。

やっぱまだ戦うしかないな〜。

 

あと、私はサシで人と会うことを「命の削り合い」だと思っているので。やっぱり、サシはすごい。その時間分とその時間分が等しく削られていく。チームで会うのとサシで会うのって全く別だからなぁ。BTSとか大変だと思うよ。数秒ずつファンに購入されるオンラインのお話会とか、もう、人生の売春というか一生がどんどん切り刻まれて販売されて多くの人のものになっていくのって怖いんだよな。個人をやめなきゃいけないんだよ。

そういう人のことを私は「男巫女」と心の中で呼んでいる。ミスiD審査委員長の小林司も「男巫女」だね。『まどか☆マギカ』の最終回で、まどかが全ての因果を終わらせるために、魔法少女になって概念化して消えてしまったが、BTSも「もはや何を伝えたらいいのかわからない」といって、ホワイトハウスに招待とかされたあと、休止に至ったもんな。生贄みたいな形で人が個室を出て世界中に消費されると、個人というものがなくなって無になっちゃうんじゃないだろうか。あ、あと阿良々木暦も男巫女。自我がよくわかんないから。男巫女は大変だよなぁ。


あと、結局そういう瞬間を切り売りするものって、文脈が積み重なって行かないんだよな。SNSの流れていく投稿にストーリー性がないのと同じで、物語にならないんだよな。なるべくまとまった時間を一定の価値で人に届けるというスタイルの方がいい。

あとこうやってエッセイを書くとか。podcastでもやろうかなぁ。

 

て言うか本当に張り合いのある目標がなくて、住みたい場所もなくて。生活もひどい感じなんだよな〜〜なんかどうしても叶えたい目標あるかな〜〜。と思ったら、「そうだ、川口アパートメントに住みたい」と思った。川口アパートメントって、私の好きな作詞家の安井かずみ加藤和彦と一緒に住んでたセンス抜群マンションなんだけど、もし死が迫ってくるなら、住みたい家はたったひとつ。人って自分の夢とか目標とか持っていいんだな。ここに住みたい。1/1の目標じゃないとテンション上がらないからな。

 

brutus.jp

 

超文化度優先趣味であれなんだが、どうしてもここに住みたいんだよな。加賀まりこ野際陽子も住んでたんだってさ。今まで8800万円とかの購入用の物件しかなかったんで諦めてたんだけど、昨日ふと見たら賃貸が出てた。家賃22万円だった。クッソ高いけど、購入よりは、初めて現実味が出る。賃貸の値段今まで出てなかったんだよな。見える目標があるって、夢ができるからいいな。2LDKの値段だけど、ルームシェアならさらに現実味が出る話だし。

都内のタワマンで2LDKだと 平均45万らしいから、半額以下じゃん。マジでこっちの方が500倍趣味いいな。人それぞれだけど。確かにお金は関係あるし、家賃22万の家と45万の家を比べている時点ですでに基準があれなのは自覚しているんだけど。私がストーリー至上主義だからな。

やっぱ成金趣味って悪趣味なんだよ。本当に住みたくて住んでいるのかよくわからないから。やっぱりね、自分の欲望の形がわかってないのって一番怖い。私もまたそうで、万人に優しくできなかったんだよな。もしそうなら、今度は自分の欲望を希求するしかない。救いえないもののことは見ずに、seiren musicalを時々見にいって、川口アパートメントのことを考えて暮らしていきます〜〜。利己利己。話の合う人となるべく一緒にいます〜〜。

 

私本当にエスパー力強いんで、多分叶うと思っているんですけど、私が借りる時、なんとなく安井かずみが住んでた部屋が開く気がしているんだよなぁ。そう言うのはあると思うんですよね。ベストタイミングがこれから死ぬまでの70〜80年の間に起こるといいなって思って暮らします。楽しみ。これが私の人生で手に入れたいものだなぁ。あとは変わらない生活。川口アパートメントに住む時にそれに見合う自分でありたいな。

ロマンチック・シンドローム

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「ほしいものが、ほしいわ。」というキャッチコピーは、糸井重里が1988年に西武百貨店のために書いたものだ。時代を惹きつけた女、宮沢りえが、美しすぎる。あと、広告が粋な時代だね…。私は小粋な時代に生まれたかったと思っているよ。はぁ、、、格好ええなぁ。ほしいものが、ほしいよなぁ、と思うのだ。キャッチコピーは、時代の物語をつくるからな。あたりまえのことをあたりまえのように発する、そういう豊かな時代って羨ましい。まあ、封をして私はもう完全に内向モードに移行したので、80年代の景色を見ながら生きていくと決めましたが…。わくわく。

 

昨日散々やりすぎブログを書いたんだけど、そわそわしている。打たれ弱い

 

昨日の夜は記事にも書いた、亡くなった、大好きだった旦那さんとの思い出をすごく大事にしてる女性とお会いして、帽子を譲ってもらった。

 

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ご夫婦でよく買い物に行った、アルマーニの帽子。網目がかぶせてあるけど、真っ直ぐの紐と、なみなみの紐が交互になってて本当に可愛い。旦那さんが、彼女のために選んだものだという。そんなものを、もらってしまって、良いのだろうか!!私はこの帽子をかぶるたびに、2人の思い出と、愛の存在を確かめると思う。大事にするのだ。旦那さんは子どもの頃、8人兄弟の末っ子で、戦後の大変な時代貧乏で苦労したというけれど、大人になったら値札を見ずに物を買うのが夢、と言っていたそうだ。「結局、戦後の好景気の中で、値段も上がってしまったから、値札は見なきゃいけなかったんだけどね。」と言っていた。自分が子どもの頃満足するまでご飯を食べられなかったから、親戚の子どもが来た時はたらふく食べさせてあげたのだという。自分が見なかった幼少期を、後ろの世代の子どもにつくったあげるというのはとてもいいな、と思う。

 

それから、これは恒例のお話なんだけど、まだ結婚するまえ、彼女が本人の実家の都合で、ハワイに行くことになっており向こうに到着し、部屋に入った途端、100本の薔薇の花束が、届いていたのだという。今から40年くらい前、海外のホテルに花を手配するって、どれだけ難しいのか。「そういうことにお金を使うのに憧れてたみたいなのよ。」と、笑った。

 

このお話は、多分2年くらい前に初めてお話をした時に聞かせていただいたもので、その時、「私、この話、初めてしたのよ。今まで忘れてた。久々に思い出したわ。」と言ってもらった。私の存在と呼応するように出てくる人の記憶の話が好き。『おジャ魔女どれみ』ってそういう話なんで…。過去の話が、好きなんだよね。死んだ人もそこにいることを感じる。私は、今から20年以上前に亡くなった旦那さんのことを知らない。だけど、彼女がピアノを弾けることを知って、「お父さんお母さんにピアノを聴かせてあげなよ」と言って手に入れてくれた茶色いピアノ。2人でモザイクタイルを張ったキッチン、テーブル。その全てに私は生かされている。

 

「諦めるな」と「できないことはない」が口癖だったという旦那さんは、部屋の内装にこだわったという。同じマンションの中でその部屋だけ、間取りが違う。壁をぶち抜いて、部屋を思うがままにしてしまった。

床のカーペット、廊下の壁についたモールド(縁飾り)、黄色に塗ったドア、壁紙。全く同じ補修をしながら当時と同じように紡がれている。

 

「ふたりが暮らした。」は、糸井重里が、『ハウルの動く城』のために書いたキャッチコピーだったっけ。私は糸井重里と、キムタクの話ばっかりしてるな〜。

 

バコン!と広がった部屋も、こだわりの内装も、魔力を使ってハウルが増築するシーンみたいだ。ソファが置かれているところはちょうど壁が入り組んでいて、カーテンで間仕切りができる。「ここによく夫が寝てたの」という。ソファの上の壁に飾られたその写真をまじまじと、よく見たことはない。ただ、そこにいたなだということだけを知っている。彼女が良くつくったお弁当に入れていたお惣菜を食べる。

 

「諦めるな」と「できないことはない」という言葉を、ふと思い出して、その言葉の力の美しさにため息をつくことがある。神に逆らおうというわけでも、鬱屈としているわけでもない、歪んだ全能感でもない。ただ、自分の暮らす場所を好きにカスタムすることくらい、叶うのだと、思う。この前私は自宅で洗い物をしている時に、キッチンの蛍光灯がチカチカしており、「これ照明器具ごと変えられないかなぁ」と思うも、(まあ無理か、接続部とか合わないかもしれないし)と考え直して、再びシンクに向かう。でも、そういう時に、ふとその旦那さんの言葉を思い出すのだ。「諦めるな」と「できないことはない」を思って、ふっ、と顔が綻ぶ。そうだよなぁ、壁ぶち抜いて間取りを変えてるんだものな。もっと自由にできる。壁を好きな色にするくらい、照明器具を変えるくらい、できるよなぁ。と、思う。会ったこともない、死んだ人の言葉が、生き方が今日も私の中にある。

 

「諦めるな」と「できないことはない」で作られた空間とそこに暮らす人を見てしまうと、私はそれが現実になることを知ってしまう。だから、ほしくなってしまう。個人のセンスと趣味が詰まった空間とはこういうことを言うのか!と思うのだ。私もそんな場所をつくりたい。そこに誰かがいたことが、匂い立つような家。

 

思い出のうちに あなたはいない

そよかぜとなって 頬に触れてくる

木漏れ日の午後の別れのあとも 

決して終わらない 世界の約束

いまは一人でも 明日は限りない

あなたが教えてくれた 夜にひそむ やさしさ

「世界の約束」──『ハウルの動く城より』

 

物語は続くのだ。私は、継承に確信がある。自分で言うのもあれだけど、ずっと純粋な笑顔でいたい。純度を極めて高く保ちながら、純度の高い話を受け取りたい。

 

社会学的に見れば、果たして私が聞いた話は、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに過ぎないだろうか? この世の関係性の、何百分の1だろうか。相手が死んでいるのだから、遺された側が改変した理想の物語だろうか。部分的にはそう。だけど全てがそうではない。

 

でも、人と人との間に愛は宿るし、そこには2人の人間が同じ時間を紡いだ軌跡がある。そのことを美しく思うことは真実であり、私が帽子を受け継ぐということは、そこにその関係があったということの結晶である。

 

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昨日食べた杏仁豆腐は、フルーツがたくさん入ったもので、昔わたしの家のホームパーティで出していたものに近い。そんな記憶を、私は、ふと思い出す。

 

家に帰ってから、その日その女性からもらった手づくりのパンの耳揚げを食べる。昔家でつくったなー。祖母に作ってもらったんだっけ?意外と外で売ってるものではないからな。(これこれ、美味しいんだよね)と思う。美味しいわ。100本の薔薇も、何も諦めない空間も、パンの耳揚げも、同じ時空にある。これは現実なのだ、と思う。

 

「ロマンチックであるというのは、がんこ、ってことらしいですよ」と、昨日私は彼女に言った。彼女は笑った。「たしかにそうかも。」と。虚構も物語も、貫き続ければ、そして手を動かし、好きなものを集め、再現すれば現実になっていく。その現実の続きに、私がいることが、ただ嬉しい。

 

東京の街は、私に優しい。

過去の延長に、今私が生きている。

ねぇ、私たちがいつか死ぬって、知ってた?

 

今朝見た、桐朋高等学校の生徒が書いた答辞が本当に美しかった。私にはこんなものは書けない。圧倒的に頭がよく、文才に優れ、そしてこのような話をして噛み合う自我を育成する環境があり、それを受け取りあうに相応しい同級生たちがいたのだろうな、と思う。自我というのは周囲の環境との相互作用で生まれて行くからだ。こんなもの、もう、絶対に自分が18歳の時に書けない。そのことが、嬉しい。

 

桐朋高等学校、78期卒業生の答辞に賛辞やまず 「只者ではない」「感動のあまり泣いて10回読み直した」(ねとらぼ) - Yahoo!ニュース

 

自分より10歳近く年下で、このような言葉を放つ人間がこの世にいるのだと思うと、私はもう少し生きてみても良いかな、生きるのが楽しそうだなと思う。孤独ではないということはそういうことだ。こういう言葉を綴る人たちのそばにいたい、と思う。しかも、これ、同級生の名前の漢字を1字ずつ、とってるんだって。すごくない?圧巻だよ。生涯残るこの言葉をもらった同級生たちは、この先も何か迷うことがあったり、悩むとき、彼の言葉を思い出すのかもしれない。すごいプレゼントだ。どうか、彼らがどんな風にも負けず、ここでの幸せな日々を自分の自信のひとつにして、ささやかだけれども全力の羽ばたきを見せて欲しいと願うほかない。彼らは自分たちの力と責任を信じている気がする。

 

10歳くらいの時から何度も思ってたことだが、私は名門の男子校というものにものすごい憧れがある。「男子校の男の子になりたかった」ということを通算1000回以上は言っていると思う。自分たちのことを自分たちでやることが許される自由が、女子校のそれとはまた一風違ったように見え、その圧倒的な活力に、羨ましさでひっくり返りそうになる。上の答辞だと、修学旅行のしおりが著しく分厚いのとかいいよね。基本的にエネルギーがデカくてぶつけ先とアウトプットがとんでもないのよな。

 

自分が高校生の時から、校外のコミュニティで私はそういう子たちに会ってきたが──その中でも生徒会だったりするからさらに自治的な気持ちが成長している人達なのだろうが──彼らが、自分たちの力を信じ、自分たちが持っているものを使って自分の外側に影響を生み出せると思っている姿は、私にとって初めて見たもので、私に衝撃を与えた。1件だけではない。何件かある。なんか明日からIFの自我で生きて良いとしたら、頭がいい男子校の男子になりたいなー。なるかー。なりまーす。

 

私は最近、友人から「美人さんは結局上位5%の人間にしか興味がないよね。」と指摘されているが、この答辞なんて、1%よりさらに上澄の上澄だろう。でも、私はこういうものを読んでいる時に、あ、安心だ、と感じる。自分の目の前のものをなにひとつ変えられないと思う時、私は死んだような気分になる。人生で読める文章は限られてるのに!?!?人付き合いできる数も限られてるのに!?!話噛み合いたくない!?!と思っている。

 

最近、また、これまでずっと仲の良かった友達に、「若さを失うのが怖いんだなと思った。」と言われて、私はその言葉が気持ち悪くなり、「諦念を、拾いたくないから、ごめん」と私も言い、距離を置いた。最近人と喧嘩をすることが格段に増えてしまった。

 

(これは異常事態だ!このままだと周囲も自分も傷つけまくる!)と判断し、オンラインでコーチングを受けて、自分の話を聞いても特になんの影響も傷つきもしない人に、自分のモヤつきについて、正直に話して整理した。「美人さんの中で、これを大事にしたいなーって思う言葉って今、浮かんだりしますか?」と言われて、「あの、ほ、本当に思ってることを言っても良いですか…」「すごい変かもしれないんですけど…」と前置きし、「えっと…び、び…美学」と答えた。特に笑われなかった。「あと、倫理観とか、仁義とかも大事だと思っています。周囲と軋轢があっても、どうしても貫きたくて、このままだと不和を起こしてしまうんだけど、自分の中で大事なものが決まっていて、捨てることができない。」と話した。

 

4年ほど前渋谷の、七宝っていう、好きな具材を選べる辛い春雨ヌードルのお店によく行っている時期があった。当時、一緒にやっていた試みのメンバーの人々と通っていた。リーダーのお兄さんから「美人さんって、どんな人がタイプなんですか?」と言われてなんの気無しに、「んー、美学?」って言って、そのあと大して、話が噛み合わなかった。

 

当時を振り返り、ものすごいイタかったんじゃないか、とか、すごい変なことを言った!と思って、「私が変だったんだ!もう一生こんなことを言うことはないんだ!なんか文化系人間の内輪ノリを出してしまった!」と3年くらい後悔してたんだけど、幸か不幸か、自分に対して求めるものも他人に対して求めるものも、私は、「美学」で間違いないんだと思う。何度演算しても叩き出される答えが近くなる、それはもう、答えだ。しょうがない、何度出してもそれが出てしまう。息をしてただ死ぬだけでは私にとっては生きることにはならない。縛りは少ない方がいいのだが、「美学」と言う縛りが私の人生を面倒くさくしており、なおかつ華やかに彩っている。

 

コーチングって基本的に、相手の言葉繰り返すだけなので(プロはそこら辺がプロフェッショナルなのだが)、「美学と倫理と仁義を…」と話を聞いてくれたコーチに繰り返される。「はい…それを残りの人生でなんとしても希求したくて…」と言うと、これもまたお決まりのセリフではあるのだが「今回のコーチング始まった時よりも、美学や仁義といった話をされている時の方が美人さんの表情がイキイキしているように見えます!」と言われた。それは本当にそう。じゃなきゃ美人とか名乗ってない。「でも、これには暴力性が宿るんですよ、でもどうしてもやめられないんですよ。」と言うと、「あなたの性格診断では、『オリジナリティ』と同じくらい、『一流志向』の指標が高いのでその部分に現れていると思います。」と言われ、腑に落ちる。本当にそう。

 

肉親に対してもそうだ。ほんと最近この話しかしてなくて申し訳ないんだけど、父が怖気付いて、再婚結婚式に私を堂々と呼べず、埋め合わせに、都内から湘南の方に移転した昔家族で行ったイタリアンに連れて行くことを要請するも、傷に向き合うことができず、ナンセンスな言葉──過去に何度も行った店にも関わらず「良いお店を教えてくれてありがとう」など、強制的に場を仕切り直すような、不可解な言動を行い目の前にあるものを無かったことにする──によって私の逆鱗に触れた。傷を見ていない。喪失を見ないのはなにが大切かを知らないことだ。たとえ痛みを伴うとしても、美しものを見たい。痛みのないものは大切なものではなく、また、初めから痛くないように何かと関わるというのも私は違うと思っている。言葉というのはその時の状況を定義づけしたり、物語の語り手を取る力がある。傷を見る強さがないとはいえ、ヤワな言葉でこの体験をまとめられてたまるかよ、と思い、家に帰って私がその店への激烈な思い入れを込めたSNS投稿を認め、上書きした。私が語った方がいい、うまいから。そういう自分は頭がおかしいんじゃないかと思う。私はそういう他者の弱さを受け止める度量がない。ごまかしを糾弾したくて発狂しそうになる。それは、そういうもので私が幸せになれない性分であり、おためごかしの嘘でその場をまとめてやり過ごせる他者に対して「逃げるな」という強い怒りと嫉妬があるからだろう。はっきりというけど、私は痛みを見ない人と自分の嘘でごまかしていられる人が嫌いだし苦手だ。美学を大事にしているのだから仕方がない。それが私の性格である。

 

父との度重なる口論の末、私はひとつの結論に達する。父が「美人ちゃんは人一倍過去に対する思い入れが強いけど、俺は未来に生きている、だからこうして事業をやってきて起業をして云々」

みたいなことを言われて、「あっ気持ち悪。」と思った。男の夢を聞くのは、覚悟と見込みのあるやつだけでよくて、逃げてる人間の、しかも肉親の夢はキツい。受け止めきれない。少年性というものを私は極めて重要なものだと思っているが、それをこんなにも気持ち悪い形でやられるとびっくりする。大事なものなので埃を払わないと。おそうじおそうじ。

 

還暦間近で発露する、うわべの人生の総決算と、残りを生きるぜ!みたいな態度全部がFAKE臭いんだよな。それをやられると吐き気がする。受け止めきれん。私赤の他人のおじさんのそういうのとかも普段から受け止めてるから敏感なんだよな。親のメンタル面の介護は無理!

 

未来というのは現在や過去からの逃避ではなく、過去と地続きのものであり、なんなら過去現在未来って全部同時に進行しているとかもいうもんな。過去を無視した未来なんて、傲慢傲慢!大嫌い〜。

 

残念ながら美学に反したため、断罪の対象となった。

 

「今のあなたに人と赦し赦し合う気持ちはないの?」と問われたが、赦しと許しは違う、人を赦すことと、美学が許さないことは違う。そうなのだ、自分のコミュニティの外に出て大暴れするのもこれが原因で、人は赦しているが、個人としての美学が堪え難いのだ。そしてそういう自分を赦すしかない。

 

私は私個人の人生で大事なカードが決まっている。「過去」「思い出」「一人一人の個人的な価値」「大事な人」「食べ物」「物語」「空間」「創造性」「セルフメイド」「矜持」。このあたりだろうか。カードにない。手札は捨てなければならない。物語を他者に強要してはいけないことは知っているが、それならば私は私の美学を続けなければいけない。袖を分つまで。

 

「これから先、そちらが、私の人生の節目に登場することは一切ないと思う。わたしは結婚式というものに意味を見出していないしそもそも人を呼ぶつもりもないが、もしやる場合でもそちらを呼ぶことはないだろう。価値観が違うことは責めないがなにが大事なものを分かち合う必要性を感じない。あなたがそれを選んだ。」と言ってしまった。

 

「あ、でもそれは親の場合とは違って、自分が育ててきた云々…」

 などというので、

 

「うーん、申し訳ないんだけど、私は、個人としては、自分が大事にしてるカードがある程度同じ人と分かち合うものが儀式だと思っている。例えば、赤の他人ではあるが、私には、親しくさせていただいている未亡人の方がおり、旦那さんが亡くなった後も、昔一緒に行ったお店に足を運んだり、旦那さんが揃えたインテリアの内装とお部屋で暮らしたり、旦那さんの仕事を引き継いだりして、思い出の中に暮らしていて、それは万人ができることではないし、それを選択する必要がないんだけど、私はこれがすごく好きで綺麗だって思う。たった1つの例でも、現実にそれが1つ存在しているなら、それになりたい。自分が好きだったものや好きだった人とか、過去に対してとても大事に思っているからそれが近い人と一緒にいたい。それはもう決まってることなんだ。赤の他人でも、大事なものがある程度揃っている──もちろんこれも理想や幻想の部分もあるけれど──死ぬまで貫きたいものがひとつある人、というのはきれいだ。好きなのだ。だから、他のカードはいらない。もっと軽いものだと思っている人と分かち合うと重厚さが下がる。そういう一緒にいたいので、これから先分かち合っていくことは難しいと思う。特にあなたが未来志向で生きて夢いっぱいなことには興味がない。違うことは責めないんだけど、私は私の手元にあるカードをなるべく純度を高くしたいので、1番大事なものが違う人とは、今後も難しくなってくる。すまない。」

 

と伝えた結果、マジで、「それは仕方ない、極道だ…。」といわれ、「あぁ、そうだわな。」と思う。しかし、やめられない。綺麗に生きなくてはいけないから。他者が自分の物語通りに生きているとは思ってないが、それならば私は私の見る世界の美学のレートを揃えなくてはならない。交換が効く、というメッセージは、私の人生において必要ないものの一つである。

 

これ以外いらない、という覚悟がかなり決まっており、私はカードの1枚1枚を覚悟を持って切る。他を失ってもいいと思っている分、そこに宿る呪術はデカいとおもう。人生の中で大事にしたいカードが決まっている。重要なカードをさらに選ぶとするなら、「思い出」と「1人1人の価値」である。あと、「食べること」だね。

 

極端な生き方だとは思う。誰もわかんないと思う。だけど、やりたい。なるべくモヤつかずに生きていたいから。そりゃ親とは私だって仲良くしたいけど、同じくらいのカードを切ってくれないとダメだ。最近反省したのか私に占い師を紹介しようとしてきて、私の母とも縁があった人で…とか、ポロポロ送ってくるようになった。完全に効いている。現実が私の美学に合わせて少し変わる。「まあこんなものか」と受け入れてたら私がくすんでいく。それで嫌われるならいいとも思っている。絶対に売り渡したく無いものは尊厳だと決まっている。こちらが出せる条件を向こうが飲むかどうか。ビジネスの世界なんて詳しくは知らないけれど、覚悟のあるハッタリをかませば、向こうからそれ相応のものがやってくる。やる。

 

なんでこんな生き方なのだろう。それは多分、死を覚悟しているからなんだと思う。

今週大学時代の友人から急に連絡が来て、「群馬から東京に来るのでランチできないか」とのことだった。「いいよー」というと張り切りすぎて「今から東京行くことにした!ネカフェに泊まる」と前日夜に前乗りしようとしてくるので、「躁状態ですか?」と尋ねた。相変わらずである。落ち着いて欲しい。

 

結局当日もだいぶ早く来て私を待っていてくれた。いつもそうなのだ。先走るほどに自分を待っててくれるほど関係性に賭けている人間というのは、なかなか出会えなくなっていく。

 

結局1時間ほどお寿司を食べてランチをしたのだけど、彼が全く変わっておらず私はほっとした。「今、自分の好きな街にいて、友達と過ごせるのが楽しい」という趣旨のことを言っており、「本当にそれ!」という気持ちになる。

 

許可を得たから書くけど、その友人は在学中に精神の病を患い、療養生活を送ることになった。ある種の自分の人生に用意されていると思ったレールから外れたことを気にしている時期もあったけど、「それが幸せだったのか」と思う、と言ってて、そう!本当にそう!と思う。

 

その友人は最近出会ったという知人の話を交えながら「やっぱね、死を覚悟したことがある人は違うと思う。」

と言った。「あっ、そうかも」と思う。私はね、基本的に、自殺をしないでいる理由を探している。今全てを辞めたくなったときに、辞めない理由になるような人生を送りたい。そういうふうに生きると決めている。明日死ぬならこれをしておこう、というのをやめたくない。個人でいることをやめない絶対に。好きな人に会う、好きな場所に住む、好きな服を着る、好きなものを食べる。これを全部やる。全部やらないと私が生きてる意味がない。どうしても切実になる。母親が飛び降りた時に感じるものって衝動的な後追いなのですが、なにか、そこに私が罪悪感抱くのって、やっぱりちょっと助けられたのに見殺しにしたって感覚があるからなんですよね。実際面倒くさかったんです。私には私の人生があるのに。この言葉を言うまでに時間がかかりました。私多分贖罪で他者への奉仕に向かってたんですけど、あのまま大学のファッションショーのデザイナーのまま、デザフェスに出て、とか色々考えてたのに、そう言うことにかまけてた自分が嫌になったんですよね。でも、私も私の人生を大事にしてよかったんだ、と思ったりします。人が精神を病むと言うのは、正直しんどいので見捨てたいです。見捨てることが許されていないことすらしんどいのです。あー!やっと言えた!やっぱり、あのまま突き抜けてればあったかもしれない人生と、男子校の男子の自我でやってくしかないんだよな。夢みがちとか、イタいとかじゃなくて、「っていうか死ぬんで!?」以外ないんだよな。

 

これは呪いの言葉をみなさんにかけますが、どんなアレかはわからないけどみなさんもそのうちなにかしら別の形で、身近な人を見殺しにしたと思わされるような機会が必ずどこかで訪れるし、それを社会は救ってくれない場合もおおいし、みんな死にたいながら頑張って生きてるのよ、みたいなおためごかしで誤魔化されてたまるか、しかし…というようなものを目にする機会があると思う。なにかしらの病気で立ちいかなくなる時もあると思う。生きることそのものをナメない方がいいと思う。

 

この前大学院時代の縁がきっかけで集まった人たちの飲み会で、長年付き合ってる彼女がいる人が、テレビドキュメンタリーで、戦地で深手を負ったフィアンセの女性兵士をいたわる男性の姿を見て、「俺が覚悟してた愛って、ヤワだった」みたいな話をしていて、正直びっくりした。私は「ええっ、結婚式の翌日に全身不随になったりするかもなのに!?」と思って生きてるから。実際そういう例あるし。あ、世の大半はそれくらいの認識で生きているのか、と思った。

 

 

だから全部覚悟なんだよな、愛って覚悟なんだよな。どのくらい覚悟誓えるわけ?と思っている。わたしは美学で親を断罪するくらい、性格がキツいが、反面愛すると決まれば、覚悟ができている。愛に対する覚悟が決まっている。決められないやつは決めなくていいけど、わたしは決まっている。同じものは期待しないが、わたしはその覚悟で挑んでいる。

 

ランチ一緒に食べてた友人が「死ぬと思ったらなんかめっちゃ覚悟でるんだよな。その最近会った知人の人は稼ぐことに振り切ったらしいんだけどさ…」という話をしており。本当にそうだなと思う。ここでもわたしが改めて気がついたことを言葉にしてみることにした。

 

「私、究極365日毎日好きな服が着たい。変かもしれないけど、それ、大事かも。この前服見に行ったらそう思っちゃった。」と言った。

 

──以前、いわゆる終活的な話題の場に参加して、あと1年で死ぬならあなたはどうしたいのか。という問いに対して、たぶん、365日毎日違う自分のすごく好きな服を着て写真を撮りたいと答えたから、多分それが答えなんだよな、美学と同じで。もしそれが本当の願いなら早くやったほうがいい。HEIHEIとMILKの服が好きだ。シックで品がいいのもすき、FOXEYも憧れ。とにかく縫製がいい服は素敵だ、大事にされてる感じがするから。──

 

私の本当はしたいことの話を聞いた友人は、「わかる。自分も、死をものすごく近く感じた経験があるから。だけど、それがないマジョリティには理解されないと思う。」と言っていた。

 

「あとね、雑なご飯食べちゃう時もあるけど、ご飯も美味しいものが食べたい!あと会いたい人に会いたい!今日は予定空いててあなたと会えてよかった!好きな場所に住みたい、好きな人と会いたい、好きな服が着たい、どうしても。」と言った。

 

その友人のすごいところは「死が覚悟できている人間に見える景色が他の人と違う。」ということに客観的であることだ。

 

「好きな服を着て好きなものを集めて、好きなように生きたい」とSNSに書いたら、不慮の事故で生死を彷徨った経験のある子からリアクションが来た。人のリアクションに、その人のバックグラウンドや意味性をみるのはタブーかもしれないしマナー違反かもしれない。だけどね、私のこの言葉が、わがままではなくて、開き直りであり、覚悟だとわかっているんだと思うんだよな。死を見た人は違うから。皆誰しも普通に生きてればそういう場面もあるけど、遅いか早いかだから。私は早めに覚悟ができたから、やるの。それだけ。格好良く生きたい。自分にとって大事なカードを手元に持って、それを意識して、超キラキラに死ぬ。コレはマジ。

 

そのために妥協しない。自分の中の超キラキラをちゃんと集めておく。そんなブログをこれからも更新していければいいと思う。私はなにひとつ変わってないし、むしろ輝きを増していると言っても過言ではない。自分の宝物は自分で見つけられると思っている。最近はバムセが欲しいけど完売が相次いで、バムセチャンスを逃している。

 

ロッタちゃんのポスターとバムセゲットが、超キラキラ人生の鍵のひとつである!

私は私が死ぬまでに「これだけでいい!」と思うささやかな絶品と極上品をこれからこのブログに書きたいと思う。外側も流行も関係ない。私の光は私が決める!

 

と思いながら、最近は2000年代のキムタクを応援しながら、家でSMAPの『SHAKE』と『オリジナルスマイル』を踊りながら生きている。

 

「応援してね!」なんていうアイドルはクソだ。男のぶりっ子に私は冷たいんだよ。ファンサやチェキをするな、媚びるな。照らせ。覚悟の決まったぶりっ子は好きだが…。私は、セカオワの深瀬のこと好きだった時期長かったんだけど、ライブ中に寝っ転がったり、ヘニャヘニャするためマジで嫌いになってしまった。saoriとライブ中にいちゃついてれば客が喜ぶと思うな、甘えんな。ちゃんとやった方がいいから、ライブは。瞬間を生きて欲しい。YUKI「お上手に歌うのではなく、心を込めて歌いたいと思います。」とか、今この瞬間を大事にしてる感じが強い。尊敬している。本当に。

 

JUDY AND MARYは解散し、SMAPも終焉するし、ジャニーズもクソだったが、SMAPのライブ映像はやっぱり真実の輝きなんだよな〜。昔の芸能人の方が覚悟が決まっててかっこいいと思うこと多いな〜。こういう突き抜けてるものを見るとだんだん癒されてくるので、もう少し父親に優しくしてあげてもよかったな〜と思う。自分が強い覚悟で決めていることの上位互換がないと人は発狂するため、本当に、貫きたいものがあって、トップオブトップの人って孤独と戦っててすごいよ。

 

やっぱ自分が一番頑張っているんじゃないか、譲っているのではという多いなる勘違いは人への加害を生む。キムタク、死ぬまでキムタクでやべーな。糸井重里との対談で話してたけど、1日6回公演とか、大変だったこととか思い返しながら「でも今、その話して、自然に笑えてるってことは、いいっしょ」と言ってて、まじで震えた。やっぱ1番よな〜。1番以外勝たない。こっちが応援しなくても、惹きつけられてしまうような感じであってくれ。キムタクって、スッゲー覚悟じゃん。覚悟、すげー!!

 

 

 

夢が叶ってるのだから、大暴れして人に迷惑をかけないようにする

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自室が最も綺麗だった時の様子を貼る。そういえば、子どもの時に思った夢で叶わなかったことはほとんどない、ほとんどの夢が叶っている、ということに気がついた。

 

それを意識したのは、先日、ディズニーランドに行った時のことだ。私がいちばん好きな場所は、ワールドバザールの中のコスチュームが入ったショーウィンドウだ。中のトルソーはたぶん昔とは変わってるけど、私が子どもの時からあったコンセプトのディスプレイだと思う。

 

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この前、このショーウィンドウを見て、「あ、私、子どもの頃、自分がこんな部屋に住んで、こんなドレスを作れるようになりたいと思ってた。」ということを思い出した。そしてそれが叶っていることに気がついた。びっくりした。

 

人生に積み上げなければいけないキャリアというものがあるとしたら、「これで大丈夫か?」と思うこともあるが、紛れもなく、子どもの時の、(絶対に叶わないかもしれないけど、こんな部屋に住んでこんな服を作りたい!)という願いが現実になっていて、「わ!夢叶ってるんだ!」と思った。

 

全く忘れてたけど、私の部屋の写真のトルソー、多分子どもの時にみたディズニーランドのディスプレイの影響が感じられるよね。

 

多分私が子どもの時って、トルソーにオーロラ姫か、シンデレラのドレスが飾ってあったと思うんだけど。今はアリエルみたい。

 

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私が友達のディズニーハロウィンのために作ったジャスミンの衣装見て!そっくり!ショーウィンドウの中にあっても変わらんよね!?

 

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繰り返しになるんだけど、何一つ将来の先行きが見えず、「自分って大丈夫なのか?」と思うことがあるんだけど、なんか、これを見ると大丈夫という感じがしてきた。

 

それから、子どもの時から早稲田行くのと東大行くの決めてたけど、それも叶ったしな〜。大学って1個しかいけないと思ってたから、どっちかかと思ったけど、どっちも叶ってびっくりだ。ありがたや。還元していきます。

 

それから、小1の時『窓ぎわのトットちゃん』を読んで、「エッセイって面白いな、私は記憶や過去がどんどん失われて誰も覚えていなくなるのが悲しい。いつかエッセイを書こう、そして一つ一つの記憶を細かく覚えておこう。」と思ったんだけど、こうしてブログという形でエッセイを読んでいただけて本当にありがたい限り。叶っているんだよな。

 

受験生の頃、18歳の時に憧れてたことは、大学のファッションショーでデザイナーをすることと、好きだったラジオのイベントを開催していたトークライブハウスに立つこと。

 

前者は入学してすぐ叶った。この1年で、立ちたかったトークライブハウスにも立てるようになった。この前、トークがうまくいかなかったもっとプロとして頑張らなくてはみたいな記事を書いては、絶望し発狂していた。「もうだめだー見捨てられる切られる終わりだー」である。しかし、ありがたいことに「またブッキングさせてください」と連絡が来て、わたしはいちいち自分の能力のことで発狂などせずに、自意識でぐちゃぐちゃにならずに、向こうの要請にのびのび応えたほうがいい。私の人生全般に言えることだが、全てが独りよがりである。ミス独りよがり。助けてくれ。

 

ちなみに、スナックに立ち始めた時も、全然お客さんが来なかった時とかに、「何人呼べば大丈夫ですか!?いつまでに集まらないと枠クビですか!!」と騒ぎ立て、オーナーママを困惑させた。勝手にハリーの家にやってきて、騒ぎ立てるドビーそっくりだ。

 

私はよく、「競争や戦闘や、勝ち組以外が報われない男性社会を辞めて、ケアと繋がりを重視する女性的な視点も大事にしよう!」と言ってたが、どう考えても、わたしは男性社会を内在化し、自分がまあまあエリートで不器用なところもあるができることもあるのに、自分は無能だと大発狂して人に当たり散らかしている。言語化して気がついた。最悪だ!

 

私はさらに何を望もうとしているんだろうか。

めちゃくちゃ持ってるじゃんか、ということに気がつきはじめた。え、今更?

 

私はコンビニバイトでマルチタスクができる人のことを全員MENSAに入ったほうがいい、クレカの番号を覚えられる人間は無形文化財、みたいに思っているが、それと同じくらい私も私ができるをちゃんと威張ったほうがいいなー。別に子どものときドビーになりたかったわけじゃないもんな。ドビーのことは好きだけど。

 

小学生の時にネットで見てから憧れてた、ブライス人形が欲しい、も叶った。高校の時にお友達のグループから誕生日にもらった。

 

中高の時にすごく女子に人気で私も好きだった古典の先生がいて、ひたすら古典の勉強頑張ってたんだけど、卒業後、偶然YUKIのライブで会った。

 

ショートカットが似合うようになりたい、ピンクハウスやMILKの服を着てみたい、も23歳以降に叶った。ピンクハウスのリュックを背負っているとしあわせだ。

 

あと、部屋の壁を好きな色に塗って好きなインテリアを飾りたい、も叶った。綺麗にできてないけどおうちに来てくれた友達ありがと。

 

松田聖子の曲とか、私たち世代で有名な曲だとマクロスの『星間飛行』の作詞をした作詞家の松本隆とも、ご縁もらって会うことができた。子供の頃からずっと歌詞カードで見てきた名前!隣で食事をした!ゆめみたい!

 

子どもの頃からの夢で叶ってないのは、ユーミン黒柳徹子に会いたい。あと、王様のブランチに出たい。

 

なんというか、私は自分に自信がなく自分が手にしてるものを誰でも手にできると思い込んで、自己認知が歪んでいるために他者に迷惑をかけ続けていることに気がつき始めた。世界の絶望に目を向け続けてもキリがないのだが、少なくとも、私は自分の部屋を、子どもの時に思い描いたようにすることができ、作りたいものを作ることができる。叶えたいことも大体叶えられている。全部出来ているのでどうとでもなるだろう。そういう自信を持っておきたい。

 

やっぱ夢叶え度合い強いな。なんで、自己卑下と自己処罰を繰り返してしまうんだろう。それって迷惑だ。

 

外界が、あまりにモラル守らなかったり、投票に行かない人がほとんどだったり、やばい恋人と付き合ってたり、尊厳が大事にされてなかったりして、世の中ってこんな感じか!と思ってびっくりしてたんだけど。(あえて危ないところ見に行ってばっかだけどね)

 

そのせいで、突然大学教育のこと、全てドッキリかと思って発狂してたんだけど、(ドッキリにしては手が混みすぎている。みんな、私を騙していましたか?)そんなわけはない。そんな『トゥルーマン・ショー』みたいな高等教育があってたまるか!全員が私を騙してたと考えるのは流石に極端すぎる。思想が極端すぎて人に迷惑をかけている!繰り返しますけど、本当に、思想が極端すぎて人に迷惑をかけていますね。

 

 

さて、いろんなことを書いてきました。やっぱり、「不倫ごっこ」的な投稿とか、数個前に、記事にしてんみたんけど〜、世間の汚れ具合に合わせて私も靡いてみただけで、自分の人生のメインストリームを綴っていくと、どう考えても文の流れに合わないから、やっぱ、不倫しなくて正解だったわ、と思った。私の文脈にスキャンダルないんだよな〜。夢叶え女児だし…。人の恨みは買わないほうがいいし…。

 

しかも怖いことに、ギリギリスキャンダルになりそうになっても、突然の祈祷とかが届いたりするんだよ。私の人生。(前に本当に好きな人がいて、既婚だったんだけど、神様に、「私今日までそんなに悪いことせずに生きてきたんですけど、あやまちって1回くらい大丈夫ですか?許していただけますか?』って必死で祈ってたら、次に会った時に離婚してたことがあった。全然私とは別件なので私が色目を使ったとかそういうのはない。)

 

あと、最近自分の意思でおみくじで大吉を引けるようになってきた。運がよくていつも勝ちを手にする友達が、一緒に遠出した時に大吉を引いてたのを見て、「やっぱり大吉って自分の意思で引かなきゃな」と思ってから引けるようになった。ビビッとなんかくるんだよな。

 

とにかく、なんか怖いくらい夢が叶う。祈りが届く。願いが現実になるタイプなのだ。

 

ああそうだ!ミスiDも中学生の時雑誌で立ち読みしてて、ずっと気になってたし、出たら爪痕残せた。それから、全然話は通じなかったが、好きなアイドルグループの立ち上げしたプロジェクトリーダーの人とも一時期一緒に過ごした。当時の企画書や、黎明期の映像も見せてもらった。本物だった。私はやりたいことを形にする方法を見せてもらったんだよなー。

 

自分が得ているものを無視して、自分はもうダメだーと騒いでるのはあまりに酷い。私はやっぱり自分が手に入れたものの価値を誰でも手に入ると思いすぎている。それはひとえに私が不器用で自信がないからである。でも、私が私の持っているものを誇らないと自己卑下の連鎖が止まらない。

 

自分が客観的に強者の位置にいることを自覚して、私が強者だと思わないと、周りに迷惑をかける。みんな自分の存在に満足することがケアの一環になるのに、私は自分が欠乏しているせいで常に競争の殴り合いをしてしまう。自分があわれだという思い込みを捨てましょう〜!!大迷惑!自由に大吉が引けるんだから。

 

あと、大学教育はドッキリじゃないんで、全然無教養な人が酷いことを言ってたり、話が噛み合わなくても、いじけたり発狂したり、見下したり、自分の討論を場の中で優先させないようにします!自分がおねえちゃんだってことちゃんとわかって行動します!

 

とりあえず、残りの人生で大学の友人か先生に「ドッキリ大成功!」って札を出される日が来るまでは──多分来ないが──、一応自分が思ってるモラルがとても良いもので、人を寛容に見るキャパがある、と思っておきます。

 

いやー、やっぱり自分が見てきたものとか信じているものに対して、誰かから許可や根拠をもらえると思ってたんだよな。自我が希薄だったため暴れてしまった。私の中のモラルも美学も真実も、良識もちゃんと自分で守らなきゃなのだ。自分が過ごしてきた時間がドッキリじゃないとしたらね〜。

 

でも、国家と組織ぐるみで、学部4年、修士2年、若い学生を箱庭に入れて、ドッキリにかける意味がなさすぎるもんな。流石にそれはない。やばい現実を見たからと言って、これまで、学問をやってきた先人たちがずっとドッキリノートを綴り続けてきたとしたらヤバすぎる。嘘すぎる。アホの営みすぎる。そんなわけがない。そんなわけがないのだとすると、自分は、こちらは何かしらの良識を学んでおります、というポジでちゃんとお姉ちゃんプレイをしましょうということです。強者の余裕が必要です。全ての場でガチ討論をしない、我慢しましょう。

 

世界の愚かさに絶望しない2024。

愚かさすらも愛していきましょう。

私もまた、自分が持ってるものを正しく喜ばないという愚かさを持ってるからなぁ。戒め。

 

これからもいっぱい夢叶えよーっと。

 

Too Lucky!

Too Lucky!

 

やっぱり自分の楽しさは 自分の確信として持っておこう!

 

いやー、今日楽しかった。

お友達とお出かけしてみんなで服選んだけど、本当に良かった。心から楽しかった。

なんか、たくさん外の世界に行って思ったんだけど、まじで話が噛み合う喜びに勝るものってないんじゃないだろうかと思っている。話と価値観。そして会話によって作る共通の世界観。それってあまり話が噛み合わない人に尊敬されるとか、多くの人に注目されるとかとは全然違うベクトルの豊かさがあって、またお金持ってるかともちがって、すごくそれが大事だなと思う。

 

いろんな人に読まれてて、いろんな人にわかりやすい本がいい本だろうか?

一番いい映画は一番ヒットしてる映画だろうか?

マクドナルドはもちろん美味しい。そしてたくさんの店舗がある。だけど、この世で一番美味しいご飯はマクドナルドか?というと微妙。

 

そう思うと、なんか自分と文化を共有してない人に受け取られても仕方がないんじゃないかという気がしてきて、価値観というものは合う人同士でやっていくにほかならないと思うのだ。つまんねーし。ていうか私そこらへんシビアでめちゃくちゃ嫌うもんな。このブログもあんまり文脈わかってない、地元の友達が職場の女の子に紹介して「なんか文字いっぱいでわからなかった」と言われてた話を聞いて、私がイヤになってしまったという事件が起きたし。

 

万人に好かれなくてもいいというのは気が楽だ。誰から格好いいと思われたいか、誰から嘘がないかと思われたいか。誰と話が噛み合う自分でいたいか、と思うと、それがメジャーかどうかとか有名かどうかとか人気かどうかがどうでもようなるな。なんか、そりゃ私は人気なものを好きになりたかったけど、私が好きなものはちょっとマスの方向とズレてて、今後も噛み合わないんだろうなと思う。こんなにセンスがいいのに私の一番好きなものが残ってないのがおかしい。(ラノベのタイトルみたいだ)。普通に世の1番のマス層とあんまり噛み合わないのだということにようやく気がついてきた。寂しかった。でも、こと昭和においては私が好きなものがメジャーなんだよな。なんでだろ。

 

雑誌のOlive(マガジンハウスから出てた雑誌で、いわゆるちょっと令嬢系の少女カルチャーとか、モテに振り切ってない崇高なおしゃれさとかわいさのある服の特集とか、オザケンとか吉川ひなのとかが出てた雑誌、自分らしさ、というところに主軸があって最高なのだ。)は現在は残ってない。

 

バレエウェアメーカーのチャコットがやってる下着屋のシュット!インティメイツ(なぜかPR動画に志茂田景樹武田真治が出演)はこの2月に閉店した(PRに失敗したのかも)。私の好きなものって、残らないんだよな。

 

映画の『怪盗ルビィ』も配信ないし。DVD高いし。(YouTubeに違法アップロードならある)。いちばん好きだったものって、なんか、なくなるんだよな…。センスが良すぎて…。

 

こんなこと言ってると、ロシアアヴァンギャルドの世界どっぷりで同人誌を描いている友達に怒られるが、「ロシアアヴァンギャルドはメジャーでみんな大好きですよ!」と言われそうな気もするのでまあいいか。

 

この世はいい人ばっかりだとも思うけど、つまんねーやつばっかだなとも思う。都市開発するやつとセンスが合わん。センス悪いやつばっか権力握るの最悪👎👎👎 ウチのがセンスいい🖕🖕🖕

 

美意識大事だなー。この前友達が立ってるバー行ったけど、ママさんの美意識が詰まってて本当に素敵な空間だったもんな。やっぱ美しさって、大衆向けじゃないんだろうなとは思うわ。

 

ていうか、自分の実感?別にハイソでお耽美な思い出だけ愛してるわけじゃない。最近、昔付き合ってた恋人と一番楽しかった時間を思い出すんだけど、いちばん楽しかったの、年末に出かけるか迷って、外出するギリギリまで一緒に見ていたゴットタンの『マジ歌王選手権』なんだよな。多分それなんだよな。私の幸せって。

 

『マジ歌王選手権』まだ見たいなーと思いながら出かけて、帰ってきて録画したの一緒に見たの楽しかったなぁ。

 

あと、この1年くらいパリスキッズの300円の指輪めちゃくちゃ褒められるんだよな。むちゃかわ。

 

こう、高いものかもしれないけどこれじゃなきゃ意味がない、この1個でいい!と思うものと、なんだか手頃だけどこの愛しさを手放したくない!というものもあり。やっぱり値段とかメジャーかどうかに関わらず、自分の美意識と楽しさを信じていくしかないと思いました。

 

やっぱ、しっくりくるとか、似合うって大事!😭 あと、換えがきかないもの。無二性。

エターナル女児として、青松輝・デスノート・YUKI

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▲子どもの時からイーヨーが好き。100エーカーの森で最も暗くて浮いてるのに、なんだかんだ他のみんなのことが好きなところ。思慮深くて、「つまんない尻尾だけど気に入っている」と言ってピンクのリボンをつけているところ。

 

永遠のガーリーはYUKIの代名詞なのですが、エターナル女児は我ながらなんとなく良くて気に入っている。オモロいんで。エターナル女児。

 

女児れ女児れ!職業女児。生涯女児。死ぬ日まで女児。passion oh yeah!

 

この前、店に来てくれたお客さんから、「美人さんは『選択的ティーン』でしょ。」と言われて、洗い物してた手が止まった。「あっ…そうそう」と、思ってうれしくなった。このお客様は私が別のバー立ってた時に「資本主義と愛の話」をテーマにしてた噂を聞いて駆けつけてくれた。自分が本当にしたい話をして、会いたい人が来てくれるのはうれしい。

 

その方は男性なんだけど、「自分の中の男性性が弱さを無視していることに気がついた」という件で、私が発信していることに興味を持ってくれたそうだった。

 

基本的に私戦ってるんですよ。青松輝っていう歌人に最近ずっとお熱で。サイン会とかpopup行っては、私はみっちみちの笑顔とはち切れそうな自意識で不穏な空気を醸し出しすぎてしまうので、最近気を付けています。

 

言葉が洗練されてて鋭利なんだよな〜。

 

 

サイン会で「こっ、言葉をだっ大事にしたいと思いました…」とかこちらが言って、歌集にあえて絵でニコちゃんマークを書かれてドギマギしている場合ではないんだよ。私は自分より1歳年下の青年に何しているんだ。と思う。

 

青松はどんな人間も神格化せずに、人間的なところに戻して、というか人間的な部分に話しかけようとしている、みたいな言説をいくつか見かけていて、だとしたら、もっと落ち着いて彼がやろうとしていることに目を向けた方がいい。もっとフラットに、極めて冷静に、リスペクトを持って。

 

私が大学院で4年間かけて大真面目にやってたことって、結局、皆、誰もに子供時代があり、人の庇護を受けて生きてきたということだ。そして私たちは明日、病気や事故によって誰かの庇護を受ける対象になるかもわからない。そして人は老いて人の世話になる。自分の足で立ってる期間なんて人生の半分ではないか!そして今立ってる人も、何かしらの偶然に過ぎないではないか!という話なのだが、これはそもそも人間が重要なものであるとされている前提がないと共有できない話なんだよな。それに、一旦資本主義の流れに飲み込まれると、帰ってこれなくなる実感は自分の中にあるので、帰るの難しいなと思う。

 

必要なのは、偶然性への畏怖だ。結局完全に克服なんてできないのに、偶然性のある出来事があるとこの社会からこぼれ落ちるのだとしたら、見て見ぬ振りしてるだけですよね。それって本当の強さですか?って話になるわけよ。偶然性には負けるって言えや。最強じゃないんや!ワテらは!と思ってるので私はすぐ宗教の話をしたりします。

 

私が言いたいのって、我々が生きているのは自力ではなくて他力ってことなんですよね。他力をベースに社会は回っているということだ。結局他者のバックアップの連鎖でこの世はできているという、他力革命思想を抱いているので、やわらかくのんびりしていたいとおもっている。なんで最近トゲトゲしちゃうんだろ。

 

他力の連鎖で私たちはここにいる。そう思うと、ケアの考え方ってやっぱ過去にむくんだよな。個人の体験とか。はー。やっぱ私たちが固有であるということにつきるんだよな。青松の歌集本当にそのあたりへの方向性が感じられてすごく好きなのだ。

 

4

Amazon

 

かけがえのない1人に対して向けた、尊厳と人生、生きることに対する大きな意思を感じる。人一人が生きることにはこんなにも意味があるんだ、と思っている感じがする。やっぱ青松は青松の部屋の中の王者だから。自分を王者と思っている人しか、他者を王者にすることはできない。

青松、よく「毛皮のマリーズ」の話してるけど、やっぱ「誰よりもふまじめなキング、そしてわがままなクイーン」なんだよなぁ。(『コミック・ジェネレイション』) 

 

 

まあ男も女も関係ないとはいえ、男の子が自分のこと大切だって言い続けるのって社会の圧的に、やっぱ女の子のそれよりめっちゃ難しいんだよな。男性性って基本的に、存在の価値というよりかは身を粉にして自分の存在としての価値をすり減らし、生産の価値を実績としてあげることが求められるから。もちろん青松は自分でもよく書いているように成功するために手段を選ばないそうだし、実績も申し分ないんだけどさ。なんかさ、私たちが何かの機能として生まれたのではなくて、人が生きることに対してめっちゃ美しいものだと思っていることが、人間という存在に対するリスペクトをものすごく感じるんだよな。

 

ゴッホ

ゴッホ

 

それは、留年しまくっているとは言え、青松が医学部で、人が生きることと死ぬことの間に接し続けているところも関係していると思う。人間という存在を生かすための命の機能と、その人が人生だと思うもの。医療と文学が地続きであるというのは美しいんだよな。なんか、めちゃめちゃ銭湯行ってたり、雪が降ると喜んでいるストーリーをあえてあげるのも、そうありたいという意志を感じる。そのことで喜びたいということ、身体性。それから、著名人が自死すると必ず強いメッセージを発信すること。なにか、瀬戸際で堰き止めようとしているものがあると思う。

 

肉体というものが死を迎えるまでの時間、私たちが見る美しいもの、時間、そのことをよく想う。

 

青松輝、月末にpopupやるっぽくて、また行こうかなー。私たちの世代特有の、服や小物や本を用意している。セレクションには私たちの思い出が機能していると感じる。その世界の一員になるのは簡単だ。現に私もその世界からこの前いくつかその延長になるものを借りてきた。

でもそれはあくまで青松の箱庭であって、その胎内にいることは、できない。私の箱庭ではないんだよ。私は青松をリスペクトするなら、私の箱庭を作らなきゃいけないんだよ、と思う。

 

青松、東大理三で、あらゆる手を尽くす頭の回転の速さがあり、その立ち位置からよく夜神月に準えられる時があって。下の名前が青松あ「キラ」で、歌集と言葉で世界を変えたいみたいなことを言うから。反骨心があるし、自身のpopupのタイトル「atarashiisekai」だし、ラジオ番組に出演した時もアジカンの『新しい世界』を流していた。明確に意識しているんだよな。箱庭のまま外側に突き抜けようとしている。アジカンの曲はこのラジオで初めて知ったんだけど、「目の前の景色を全部塗り替えるのさ」「踏み込め電源 増幅の回路と想像力で世界が変わる」という歌詞があって、なるほどと思った。短歌つくるってそういうことだよな。

 

新しい世界

新しい世界

 

こういう形で、何か新世界やろうとしてるなと思った。そして、別に、神みたいなものにはなるつもりでないのだろうと思うけど。人に対して神様ぶるということに対しての疑問みたいなのも、発言の端々から感じる時があるんだよな。フラットでとてもいいと思う。

 

ちなみに私は2015年からずっとデスノート夜神月の話をしている。今、友達とのLINEログ「夜神月」で検索かけたら100件出てきて引いた。

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コンスタントに夜神月の話をしすぎている。

 

青松はデスノートを題材にした短歌を数首書いてるんだけど、中でも好きなのは──これは短歌集には載ってないのだが──

 

僕が眠っているあいだにもひとが死んで、夜明けはやってくるんだろ、竜崎? - 青松輝「四季の歌」

 

何度か思い出すたびに、「竜崎?」という問いかけが絶妙でハッとする。まるで古典作品からの引用的な、読み手側が知ってることとした、ある種の教養としての原典に、私たちの世代のポップカルチャーが使われていることが面白い。竜崎というのはLが名乗っていた苗字であり、この言い方は、月がデスノートを手放して記憶を失っていたあたりの頃の二人が協力していた頃を思い出させる情景がある。あまりにうまいよ。

 

 

 

でもこれ、記憶取り戻して、あえて言ってるのかな?どっちでも読めるな。でも私の想像の中の月は、目が澄んでる方のピュア月の方だな。自分がキラだなんてミリも疑ってないみたいな。

 

さて、夜神月と、文学性を極めて愛する私は、このままだと、青松が発する自死に対する極めて当事者の尊厳を考慮したメッセージや価値観に共鳴するのも含めて、親を殺した犯罪者を裁いてくれたキラに熱狂するミサミサになってしまうので、(確かに私は夜神月が大好きで、親を自死で亡くしているのだが──)ミサミサにならない範囲で、私も私で新世界をやらなくてはいけない。極めて冷静なリスペクトってそういうことなんだよな。昔友達に「美人さんは、目の取引とかなんだかんだしないから、ミサミサにはなれない。良くて高田。」という悪口を言われたが── 高田、東大だしな…。良くて高田か…。

 

あと青松輝、YUKIが好きなんだよな〜。YUKIが好きな理由「YUKI、ずっとYUKIなんよな」だそうなので、(本当にそう!そこ!)と思っている。私がボックスで持っているYUKIのエッセイ本持ってしゃべってたのも嬉しかった。

 

 

 

YUKIの『ランデブー』って曲の歌詞についても語ってたことがあって、「千切れるくらい高く飛べば 逢えるような気がしてた僕の合図」という歌詞に「いやー、あるもんな、ちぎれるくらい高く飛べば逢えるような気がする時」って言ってて、それも「ほんとそれ!」って思った。

でもまず、千切れるくらい高く飛んで合図を伝えたいことがあるというのは本当にいいなと思った。私も受験生の頃、よく新宿の河合塾で聞いてた。ほんと、ちぎれるくらい高く飛んで合図を伝えたいことばかりだよな。合図ちゃんと通じてたいよなと思うよ。

 

ランデヴー

ランデヴー

 

楽しく生きること、半分の夢を見ている状態が現実なんだよなー。私も短歌作ろうかな。目の前の世界を自分の言葉で作り替えるというのはとても力強いことだよな。言葉で切り裂く力を私は信じているわよ。かっこよくて、甘くて、濃密だと思う。密度を上げていきます。

 

大丈夫か?思いの外熱量が出てしまって、インターネットの海で見つかった場合恐怖を与えないか心配になってきた。私の自我はメロなので、当たり屋みたいになってしまう。本当にデスノートの話が好きで申し訳ない…。

 

まぁ、穂村弘の『手紙魔まみ』、popupで売ってらっしゃったし、いっか。『手紙魔まみ』は、穂村弘にめちゃめちゃ手紙を送りつけていた「まみ」とのやりとりをもとに生まれた短歌が収録されている。

 

 

 

私の大好きなライター雨宮まみの名前の元にもなってる歌集。ちなみに私がこの歌集を知ったのは、毛皮のマリーズ/ドレスコーズのボーカルの志磨遼平のラジオに手紙を送ったら速攻読まれて私が卒倒しそうになった時に友達が教えてくれた。

 

世界って巡っているな〜。同じ時代に生きた人たちが見てきたカルチャーを共有してそれぞれで現実を編んでいくというだけなんだけどさ。なんというか、同時代性とカルチャーのマッピングがうまくいくと居場所を感じるんだよなぁ。デスノートを手放して記憶を失ってる時の夜神月が、竜崎に話しかけるような。あんな時間がずっと続けばいいと思う。やわらかで、かつ鋭利で、真剣な言葉の戦いの先が、倉庫で野垂れ死にだったら悲しいと思う。まっすぐな目のまま竜崎と頭脳比べとか、テニス勝負とかしてる間に死が訪れればいいよねって思う。

 

生きて死ぬまでになんども水はからだを巡り、A Flower Named You.

青松輝 『4』

 

私は誰だ

私は誰だ

 

ココとミシア

腐れ縁の女と火鍋を食べに行った。ココシャネルに憧れているらしいので、ココと呼ぼう!彼女に「私をコンテンツ化するな!」と言われているが、それならコンテンツではない本当の声みたいなところを、ズドンと私に届けてきてくれたことがあっただろうかと思う。欲しいものが欲しいくせに、そんで手に入れるくせに、少し自信がなさそうで、上っ面でバタバタしているじゃん。誇りなはれ。と思っている。

 

まあ、私もバタバタしている方であるから、お互い様なんだけど、かわいくて頭もいいのに何でいつもそんなに、自分のことが根っこで少し嫌いそうなんだろうと思うことがある。そういう渇望は彼女と鏡合わせのような私にも言えることなのだろう。自己ありのまま、うけいれたくないし、ちょっと自分が嫌いだ。そして、結構、自分がやりたくもない役を、良かれと思って買って出る。例えば私の店に来てた変なジジイを、客なのにちゃんと元ラウンジ嬢然として接待してくれたりするんだけど、別にしたくはなかったらしい。あと、私がネタで振っちゃう時もあるけど、なんかキャラをやってる時がある。「芸人やっちゃうのよ」ってよく言ってるけどね、彼女も。せんくてもいいことを、わざわざやる人間というのは、その場にいることが居心地がちょっと不安な人間がやることだ。何かと引き換えにそこにいなくてはいけないような気持ちって、すごく難しいなと思う。中身男っぽい(男性性)よなと思う。

 

高校のころ、仲良くしていたグループの子達が我が家に来た時があった。好きだった男の子がいたのだが、彼が突然お鍋を注いでいた彼の皿にあえてオレオを入れて食べ始めたり、アイラインでセルフで変なメイクをし始めて、爪痕を残そうと暴走していた。私たちはそういうノリを求めてなかったのに、なぜか自分でそういうノリをはじめた。私は(どうして)と思っていた。今ならわかる「それってホモソだよ」って言えるんだけどな。なんかものすごい勢いで自刃に向いてたな。なんでなんだろう。

 

ま、私もそういうちょっとそこに居るだけじゃ満足できず、頑張りすぎてしまう人間というものが昔から好きなんだろうな。

 

さて、話はココと鍋を食べに行った日に戻る。「私と美人ちゃんってもう結成して8年なわけじゃん?」と言われたけど、特に結成した覚えはない。同席者が「俺はそこにいた」といっていたけど、「私もいた」と言ったら「そう、いた」と彼女も言っていたけど、私たちはただ「いた」だけである。私と彼女は、多分美学や倫理観は違うが、話が噛み合ってプロレスができる、というただそれだけで、なぜか縁が続いているという、奇怪な関係性である。別に明日終わってもおかしくないんだけど、誘われたら多分次も会うんだろうな。気に入りそうなものがあったらこちらも誘うと思うし。なんか、そういう不思議な仲である。

 

彼女は私の下の名前の頭文字2つをちゃん付けで呼ぶが、それは大学を卒業してからのことで、心の奥まで届いている度合いに対して、呼び名が近いことが何だか私にとってはむず痒いのだった。親と恋人にしか呼ばせたことのない名前を!?なぜこの女が!?!?という気持ちになる。昔通り、苗字名前のフルネームでいこうや。

 

「私の記事を書いていいよ、美人ブログに出たい」と昔から言われているが、「えっ、どのように登場するつもりなんだろうか?」ということがかねてよりの疑問である。書くとココの今の生活に差し障りがあるのではと思う。仕方がないのでよく人にしゃべっている。

 

ココの話には、弁護士の登場回数が多すぎる。華やかなラウンジでの勤務経験やいろんなことがあったため、それを渦巻く人間関係を含め、現在も華やかな場所の延長にいるココの話題には事件に事欠かない。本人はそれを「私のコンテンツとしての全盛期を、美人ちゃんは期待してるかもだけど〜。」とか言ってたけど、「別にそれは全盛期ではないからな。」とかは思っている。平和が一番なので…。むしろなんかもうちょい落ち着いて、本当に大事にしたいものって何なのかとか、どうしても行きたい場所のこととか、なんかもっと核に触れたいんだけど、そういう日が来るんだろうか。もっと心が見たいのに、と思うことばかりだ。ライフステージとか気にしなくてもいいのにな。謎だな〜。

 

「昔の私じゃなくて、今の私を見てよ!」っていうけど、私はココと一度も心の話をしたことがないと思っているし、心の話をしたことがない人は、私の中では少し遠い位置にある。それはそうなのだ。心の話ができないと、エピソードの話になる。本当は心の話がしたいのにそれはほとんどできない。昔、星占いを大学の近くのカフェでした日。とかかなぁ、あと、ココのバイトの休憩中に呼び出されて、話したこと。ちょっと心が通じたかもって思ってたのは。

 

私は、エグい話聞くとびっくりしちゃうからね。やめて欲しい。ていうかココには、エグいところに、突っ込まないで欲しいと思ってるんですよ。どれだけこの社会が実際エグさと、危うさに溢れた世界だとしても。どうぞご安全に、と思っている。基本的に私は怯えている。まあでも、あたりさわりのないつまんない話をされるよりは面白い方がいい。と思ってるだけだからな。図太さがあなたの魅力ではありますが、私は世界のエグさに耐えられません。ぷぃきゅあだから。

 

相変わらず私は堂々と女児ってるので、

「うわーん!世界のエグさに耐えられなーい!PG12の話以外しないで!」って私が言ったら

アダルトチルドレンになるのやめな💢8歳にならないで💢」と言われたけど(どんな喧嘩?)

やっぱPG12の世界で生きていきたいでちゅ🐹

PG12の世界観は倫理的でちゅ🐭少女小説と令嬢カルチャーこそ私の生きる道💓👧って思ってるもんな。ていうかなんだかんだエグさがない方が徳高いし。

 

私は箱庭で生きている。半睡半醒の中を生きている。私たち世代が半睡半醒を生きるってのは、橋本治が少女漫画批評『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の中で書いていた説で、かなり推している。この話はまた書くね。

 

ココ・シャネルには唯一の女友達がいたといい、それはミシア・セールという、サロンのオーナーであった。ミシアは「天才の収集家」と呼ばれたそうで、小説家のプルースト、画家のモネ、ルノワール、音楽家ドビュッシーたち名だたる文化人たちが集まる集会所となったという。画家のロートレックは、進んでバーカウンターに立ち、プース・カフェというカクテルを提供し、大変喜ばれたという。

 

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私がやりたいのはスナックではなくて、結局はサロンなんだろうな、ということに気が付きつつある。昭和の文化人たちが集ったレストランのキャンティにもずっと憧れてるし。

 

これまで、私は分け隔てなくある程度誰にも優しいのだと信じて疑わなかったのに、大学院を出て外界と触れたせいで最近バランスが崩れてきたことでおかしくなっていた。

 

先日、友人のヘルメス(仮名)さんに「美人さんは今まで勉強できる人たちの場所にいたから、常に周りに主席クラスの人たちがたまたま多かっただけで、外に行って『周りが主席じゃない!』って怒るのは違うよ。人はそうそう首席にならないよ。」と言われてびっくりした。まさかこの分け隔てない私が首席フェチだったなんて──!!そりゃそうだ、全員が首席なら、分け隔てなくてすむから──!。首席ハーレムだ。首席ToLoveるか、首席ニセコイ。そういえば、私の人生には、いろんな種類の主席が出てきて、私の人生を翻弄し続けてきた──。

 

高校生の頃、学校外の学生団体で出会った人が

「医学部に行っても社会は変えられないから…」と医者になることを押し付けてきた親への反抗で、高3で文転して、東大にちゃんと受かっていて、あまりに人生の舵が自分の手の中にありすぎてぶん殴られたような気持ちになった。

 

ていうか、私が、高校の頃仲良かった友達も成績トップ層のグループでみんな生徒会だったしな…。ていうか友達、医学部目指してて医学部入ったとか、入らなかったとか、そんなんばっかだわ…。

 

後何かしらの模試や試験で首席の経験ありとか。職場で表彰とか、検定試験で大優勝とか。

 

別に、勉強面以外でもな…歌手として頑張ってる子もいれば、コンカフェ嬢で、デュエマで客と勝負をする時にガチすぎて、「デュエマが強いコンカフェ嬢がいる!」と話題になり、都内中のデュエリストが駆け込んでいるという子もいる。

 

あ、インスタのストーリー見たらまた、お友達のチャーミングガールが創作活動で賞取ってたし。

 

エリートから徒花までいろいろいるが、基本的にキラキラの一番星率が高すぎる。何て多様で美しい!『世界に一つだけの花✨』って思うけど、首席の花畑です、私が見ているのは。楽しくなってyoutubeで聞きはじめたら、歌い出しから「No.1にならなくていい〜♪」で、本当にすいませんという気持ちになった。私にとっては大嘘すぎて、びっくりした。首席いっぱいに囲まれてた。「何だこの花!!!!!」って最近めっちゃキレてるもんな。

 

いいじゃないか!「天才の収集家」まあ、収集ってのは相手の尊厳的に失礼だけどな。私はたぶん、首席サロンにしか居場所がないと思う。出るつもりないし。だってミシアだもの。まじでwiki読んだけど、芸術家と作家と音楽家を自宅でもてなしてばっかいるな、この女。何の因果か、ココ・シャネルの唯一の女友達。

 

使えるものは何でもつかって、男性からの援助も好きなだけ受けて、自分の野心を叶えるココと、主席のサロンばっかやってるミシア、お似合いじゃん。

 

もはや、美学も倫理観も真逆なので、好きなのが嫌いなのか、よくわからないんだけど、彼女のことだと結構筆が進むので、それが「いる」ってことなんだよな。なんか、私の人生に「いる」と、彼女はココで、私はミシアになれるようだから、ラッキーという感じで、いいんじゃないだろうか。