美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

頑張るの、解禁!

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待ちわびて7年、ついに「頑張り」を解禁する運びとなりました。ボジョレ・ヌーヴォーは毎年11月の第3木曜日に解禁だと言いますが、私が樽の中で7年熟成させた心の中の醸造酒は銀座と日本橋三越くらいには並べてもらえるだろうか。

 

7年前の11月20日、朝の4時すぎに、うつ病の母が深夜にタクシーで家を出て、縁もゆかりもないマンションの屋上から、飛び降りてしまった。びっくりした。ドラマのようなことは現実に起こる。

 

前日の11月19日は、友達と春画展に行った後、ひとりでYUKIのコンサートにいった。武道館の前で偶然高校のとき好きだった古典の先生に会って、「もう絶対神様っている」って思ったのに。翌日あんなことが起こるのだから、世界の偶然と必然のことを私はよく考える。

 

病気とはいえ、生きることから逃げた母を肯定しようとする時、私は生きる欲からあまりに遠くなってしまう。「頑張りたい」「生きたい」と思った時に、母が遠くになってしまう。自分で死を選ぶという選択肢があまりに遠くなってしまう。かなり好きに生きている方だと思うけど、あまりに刹那的なのは、少し死の方向に足を突っ込んでいるからだとも思う。

 

母が鬱になったのは、元から持ってた性格や遺伝子的な要因もあると思うけど、弟の学校の担任から毎日小言のような電話がかかってきたからだ。家の電話が鳴るたび胸がキュッとなるってママは良く言ってた。でも、私はその先生にそのことを伝えることもないし、全てを赦そうと思う。学校に行くことを選ばない弟の在り方を、生きることを選ばない母の在り方を受容したいと思う。

 

そのことは私が頑張ったり何かにエネルギーを発することを阻むものではない。

大学1年生の夏休みと秋を、自分が出展する文化祭のファッションショーの服作りに捧げたことで、母を見る余裕がなかった。野心の犠牲で母が死んだのではないかと考える事がある。

学校にとっとと行けばいいのにそれすらもできないせいで私の人生にエラーが起きただろ!と弟に対して思ってしまう時がある。

 

自分に課す、全てを受け容れたい気持ちと、全てを恨んでしまうほどに何かのアクセルを踏んでしまいそうな気持ちが拮抗して答えが出ない。考えて考えて、無理をするのではなく自分の心の「在る」ところから伸びていく努力とか、エネルギーを育むことをもっと大事にされるべきだと言う結論に至った。

 

私にもできないことや苦手な事がたくさんあって、それは他の人にとってもそうで、人をエンパワメントするように互いを補い合うように力を使う。それが私の答えでは在る。

 

それで、誰かを責めないために「頑張らない」をやってみると、普通に留年したし!笑笑(自分が留年するとか思ってもみなかった!ぼーっとしてたら本当に留年した!)生活も含めて全てが普通にダメになっていった。だからやっぱりね、頑張ったほうがいいのだ。少なくとも私は踏みたいアクセルを踏まなければいけない。

 

何かをエネルギッシュに頑張った時に誰かを攻撃してしまうのではないかと思う自分がこわい。全ての人は頑張らなくても尊重されるべきではあるが、それは私が頑張らないことを意味しない。

 

少なくとも今頑張らない状態にある人が尊重されてないのなら、私は一緒にストライキをおこすのではなくて、そこから逃げずに蜂起して現実を叶えていかなければいけない。動けるから。動ける人が時間とお金と心を注ぐ先がある。私元気なのにいつまでアクセル踏むのを怖がってるんだろう。

 

今朝は母が死んでから7回目の命日の朝で、このブログを書きながら昨日の夜は寝てしまった。起きた時、どんな夢を見たかは忘れたけど笑顔でものすごく気持ちよく寝たあとだった、こんな風に目覚めたならいい日な気がした。

 

自死は「逃げ」なのだろうか。わからないけど、私は「生きることから逃げない」と思う。私の覚悟は母の選択と母の存在を突っぱねやしないだろうか。ただ、生まれたので、めっちゃ頑張って生きたいと思う。